CMO #176 25 June, 1996 より


紹介 アラン・W・ヒース氏

Mr. Alan HEATH
アラン・ヒース氏は長く三十年に亙ってBAAの土星部門のディレクターを勤められた方であるが、初めてCMOに登場されたのは、比較的新しく1991年七月25日號の#107の LtE (3 July 1991)からであって、それは、#096 (10 Nov 1990) p821〜823掲載の伊舎堂弘(Id)氏の1990年十月の土星の白斑獨立發見の記事に興味を示されたものであった。 以後、火星についても懇切に觀測報告を寄せられるようになり、また、写真の得意な方で、様々な写真を送って頂いたりした。何時か、先のBAAの火星部門のディレクターであった故エドワード・コリンソン氏について書いたところ(CMO#108p927)、コリンソン氏の1978年のBAA集會の會場でのスナップ写真を送って下さったりもした。こうした親切心はヒース氏の真骨頂であり、それは彼の LtE からも充分察っせられると思う。筆者が彼の北極冠の様子について忌憚なく批評した折りも、すんなり受け入れて下さり、逆に感心してしまったことがある。彼に就いて書きたいという希望は、從って、早くからあったのであるが、時々に頂戴した興味ある写真は我々のコピー印刷技術の都合上、紹介出来ないものが多かった。今回やっと、スキャナーでトレースすれば、少しは失禮にならなくなるだろうというNs氏やMk氏のアドヴァイスがあり、念願のヒース氏に関する記事を何枚かの写真とともに紹介することとした譯である。

Photo 1:
Alan HEATH at the Greenwich
Meridian Line on 22 June 1992

最初から餘談めくが、ヒース氏は餘程謙虚な方で、長く毎年JBAAに土星部門の丁寧な報告を書きながら、掲載するスケッチには彼自身のものを殆ど採用せず、理査・麥肯氏やグレアム氏、グレイ氏などのスケッチを採用紹介していたということがある。これは若い觀測者達にとって励みになったことと思う。その意味で、CMO #167 p1715や今回の様に彼の土星のスケッチ(Fig.2)が出るのは貴重であると言えないことはないと思う。一方、JBAAの別のページにはPhoto:Alan Heathとクレディットの入った写真がよく載っていたことがある。それはBAAの会議のスナップであったり、會員のポートレートであったり、集合写真等であったが、カメラをぶら下げたヒース氏の面目躍如たるものがあった(写真1は矢張り1992年のBAAの會議に出た折りにグリニッチに寄った時のもので、本初子午線上に立っている)。写真のことは自家薬籠中で、實はヒース氏は、望遠鏡と同じように顕微鏡も熟すらしく、とくに池の小生物に詳しく、その顕微鏡写真も撮るのである。彼はこうして全く廣い意味でナチュラリストなのであって、トラスト方面の活動もある(後述)。ただ、フィルムはいつもトライXめいていたような氣がする。

Saturn,drawing by A.HEATH Fig 2: Saturn without rings sketched by A HEATH on 20 July 1995 at 02:30GMT by the use of 190-318x 30cm Reflector

ヒース氏は筆者などよりやや年配であって、早くから惑星觀測家として好く知られている。佐藤健氏の書かれた文獻にも、もう一人の土星觀測家 W B B HEATH氏と共に紹介されているのを憶えていられる方もいよう(佐藤氏は御兩所が血縁関係にあるかどうか、訊ねられたところ、無関係というお返事であったということなど)。從って、惑星觀測家としての經歴も長いのであるが、彼の使用している30cm反射望遠鏡は更にもう一つ長い歴史をもっている(というのは既にご承知だろう)。そのやや詳しい紹介も今稿の目的の一つである。

扨て、ヒース氏が天體觀測を始めたのは、14歳のとき1945年で、日偏食であった由である。天文に興味を持ったのは、もう少し早く、第二次大戦中の所謂 black out (街中の灯りを消すこと、日本でも同じ様なことをやっていた。電燈の笠の周りに暗幕を垂らして、お膳の中央だけを照らす等というのを筆者も憶えている)のもとで、主な 星や星座を憶えていったらしい。

實際に星體觀測に活動的になるのは、英空軍での醫薬部門での兵役の明けた1952年らで、この年にノッティンガム天文協會に參加した。(ヒース氏はノッティンガム州のロング・イートンというところにお住まいである。) 望遠鏡は5cm 屈折を有ったようで、これは太陽の觀測に今でも使用しているらしい。黒點の觀測は從って以來連續である。この協會には、長くBAAの木星部門のディレクターを勤められた故 W E フォックス氏が居て、その知遇を得、その傘下に入ったことが彼の活躍に拍車を掛けた様である。BAAには1953年に入會している。フォックス氏の影響もあって、月面や星の觀測に意義を認め、1954年には20cmニュートン式反射經緯台を手作りで拵え、次いで觀測室も作った。これは1963年迄使われる。

HEATH Observatory

 1963年はヒース氏にとって画期的な年で、先ずBAAから曾て T E R フィリップス師が使って居たという30cm反射赤道儀をヒース氏が借り受けた、ということ、そして、ヒース氏はBAAの土星部門のディレクターに指名されることである。これは最近グレアム氏と交替する迄(CMO #140 p1335参照)、三十年近く勤めることになり、また30cm反射はいまもヒース氏の許で活躍中である。写真2、3、4はそれぞれ1963年当時のものであって、写真2の原画には若いハンサムなヒース氏の得意満面が好く出ている。觀測處の位置は 52゚54'22"N、01゚17'14"Wとある。37メートルは海抜ということであろう。この觀測處も健在で、写真5、6、7は最近の写真である。ファインダーみたいな小さい望遠鏡がくっついているが、これが太陽黒点觀測用の5cm屈折であると思う。尚、30cm反射鏡はフィリップス師時代はカルヴァー鏡であったが、1961年にワイルデイ鏡に代えられている。この三十年、写真から判断する限り、望遠鏡の外觀はよく保存されているらしく、あと色合が違っているかという程度。高緯度の所為か極軸は見慣れない。
Photo 3:
A W HEATH Observatory in 1963:
The whole building rotates on angle iron track

Photo 6: 30cm Reflector at present

30cm Reflector

現役時代のヒース氏とBAAの觀測部との関係はたいへん複雑というか、各部門に亙って居て、木星部門のディレクターの助手や月面部門の幹事を勤めたこともあり、それに土星部門があって、その三つのオフィスが半年も重なってヒース氏の處にあった時期があったらしい。また、太陽部門の實務も勤めたことがある。地球型惑星部門が開設されていたときは、委員會のメムバーであった。ヒース氏はまた写真家兼肉眼觀測家として、BAAでのカラーフィルターの使用について指導したことがあるらしい。いまでもアポダイジング・フィルターを使ったりしている(CMO#130p1204参照)。1986年にはBAAのヲルター・グッドエーカー・メダル(Goodacre Medal)を受賞している。グッドエーカーは確かあの月面觀測家のことだと思う。

ヒース氏はもう引退されたが、小學校の教員であった。家業は理髪師であったが、ヒース氏自身は不惑近くになって1970年に經歴を替えるのである。ダービィ・ロンズデール・コレヂとノッティンガム大學で教育學士號を受け、教職に入った。教職に入るのは、BAAの土星部門を主宰するようになった時期より後なのであるが、教職に天分があることは天文活動を通じて氣附いて行かれたのかもしれない。實際、教師になる遥か以前から、夜間教室で大人の生徒を相手に天文を教えていたようである。

ヒース氏はまた先述の様に、行動的なナチュラリストで、熱心な自然史関係の写真家でもあり、特に池の顕微鏡生物に関して専門家である。彼はダービィシャー野性生物トラストの為に池の生命の紀録を取り續けていて、ロング・イートン自然史協會の議長を現在勤められているし、またフォーブス・ホールという自然保護區の連帯(フレンズ)の議長でもある。トラスト運動はイギリスが發祥だと思うが、矢張り、開發から守らねばならないものがあり、現に守る運動をしているということであろう。ヒース氏はナチュラリストとして、自然科學一般に興味がある様で、地質學を勉強する時間も見附けているとのことである。趣味として短波をやっているが、ヒースさんは人間にも興味があるのかもしれない。知人などは多い方だと思う。彼は從って屡々自然史や自然科學に関する講演に引っ張り出される様である。また、彼の天文臺には今も若い人達が訪れるというのは當然であろう。

ヒース氏は何でも好きなことをやる割には、スポーツマンという譯では無いらしい。ただ、自転車にはよく乗るそうである。(Iw氏介紹を彼に送ってあるかな?)學校に通勤していた頃は毎日往き歸り二十キロを走っていたらしい。引退後も自転車は缺かず、また好く歩くらしい。ラブラドル犬のお附き合いもあるらしいが、野の花や昆虫などを求めて、田舎を巡るらしい。ヒース氏は天文や他の自然史的な追求が人生を興味あるものとすると心底考えているようで、こうして友人が世界中に出來ることを好しとされている様である。

Fig 8: Drawing of Mars by PHILLIPS
on 18 Sept 1909 (272 degs.Ls, LCM=310 degs.W, DE=20 degs.S, Dia.=24")
(surely made by the 30cm Calver spec)

この稿を結ぶ前に、T E R フィリップス師とその30cm鏡による火星觀測を若干紹介しておくのが筋であろう。フィリップス師のヘッドレイの天文臺には、他にクックの20cm屈折 (BAAから借用)と45cm反射(鏡はBAA)があったから、彼の觀測はそのまま30cm依るのではないが、引用するスケッチ(Fig.3以降)は佐藤健氏から提供を受けたもので、ヘッドレイに移る前の、30cmが主流機であった時のものである。1913/14年と1915 /16年の小接近頃の接近(1914年一月5日對衝、1916年二月10日對衝)のものから選んでいるが、 遅くとも1916年には45cmが入っているので、發表されているものとしては、30cmによる觀測の最後の部類に入るであろう。觀測地はアシュテッド(倫敦の南)である。1909年の大接近からも一葉選ぶ (こちらは確かに30cm反射である)。


Fig 3: Drawing of Mars by PHILLIPS on 27 Nov 1913 (001 degs.Ls, LCM=339 degs.W, DE=12 degs.N)
Fig 4: Drawing of Mars by PHILLIPS on 03 Jan 1914 (019 degs.Ls, LCM=319 degs.W, DE=07 degs.N)

Fig 5: Drawing of Mars by PHILLIPS on 17 Jan 1914 (026 degs.Ls, LCM=174 degs.W, DE=04 degs. N)
Fig 6: Drawing of Mars by PHILLIPS on 09 Feb 1916 (055 degs.Ls, LCM=175 degs.W, DE=20 degs.N )

フィリップス師は1868年に生まれ、1941年に亡くなっているから、ヒース氏はその後の世代で、兩者は面識はない。ただ、先輩のフォックス氏から好く話は聞いている様である。 因縁と言えば、フィリップス師が二十四、五歳のころ望遠鏡(7.5cm屈折)を貰い、初めて何も知らずに明るい星を入れたところが、それが土星であった爲、彼はすっかり魅了されてしまい、以後天文の道に入ったこと、そして1930年の第一回のグッド エーカー・メダルの受賞者という事、兩者とも野の花を愛でたという事などであろう。師と呼ばれるのは、既に土星に魅了された時には聖公會の教區牧師補であって、1891年にはオックスフォード大學の聖エドモンド・ホールでBAを取っている。先年筆者の知人に聖エドモンド・ホールを訪ねて貰ったが、天文に関するものも、またフィリップス師の痕跡も見當たらなかった、というのは當然であろう。1894年にオクスフォードのMAになっている。

 BAAに入ったのは1896年で、その頃には22.5cmの反射經緯台で木星と火星を観測してたようである。1901年には既に木星部門のディレクターになり、これは1934年まで三十三年間續いた。1916年にアシュテッドからもう少し南のヘッドレイというところの教區牧師になり(生まれはもっと北のレスターシャー)、ここの牧師館の傍らに天文臺をもつ。この邊りは地形も好く、夏の野には花が見られるようである。木星の研究は1939年までここで精力的に續けられた。他にも二重星や變光星の觀測・研究などもあり、BAAやRASの仕事も多くこなして居て、その活躍は一寸類例を見ないほどである様だ。人柄も感銘的で、毎年六月の或る土曜の午後にヘッドレイで、“年會”を開いていて、老若男女有名無名大勢のお客があったらしい。尤も土曜の夕方というのは、晴れていても、次の日の説教の爲に彼は早く書斎に入ったらしい。

 1940年に體調を崩し、翌年正月に引退し、近くの丘の上のヲルトンというところに移るが、死の三ヶ月前オックスフォードから名誉理学博士號を授與される。埋葬は長く愛したヘッドレイの教區墓地にされる。

 30cm反射(これはもともとフィリップス師のもの)がどういう經過でヒース氏に受け継がれて行ったかつまびらかにしないが、 多く木星觀測に使われた望遠鏡が今度は土星に多く向けられたわけである。 私見に依れば、惑星面の觀測の修練には、矢張り木星か火星で、土星は向いていないと思うが、勿論土星の常時の観察も必要なわけだから、ヒース氏は忠実にこの作業を遂行し、またこの望遠鏡は木星・土星を主に火星も含め、一世紀近い活躍をすることになった譯である。

ヒース氏は1994年七月のシューメーカー・レーヴィ第九彗星の木星衝突にこの30cm反射で出逢い、特別な感慨をもった。 あの木星のフィリップス師がこの場面に接したら、という想いなのだが、實際に同じ望遠鏡を眺めている自分が一瞬不思議に思えたのではあるまいかと思う。ヒース氏はわざわざフォックス氏から譲り受けた7.5cm屈折でもあの現象を覗いているから、或いはこうして偉大な先輩達にこの未曾有の現象を傳えている趣きだったかも知れない。

(南 政 次)


10 Years Ago (6)
--- CMO #010(10 June 1986) and #011(25 June 1986) --- (Japanese)

 火星は1986年六月10日には「いて座」で「留」となって、以後は逆行に移り七月の最接近に向け近付いてきていた。視直径も19日には20秒角を越えていて、いよいよ大接近時の大きさになった。Lsは六月中には180゚から196゚に変化して南半球の春になった。南極冠も最大径を過ぎて縮小期へ向かう時期を迎えていた。

「OAA MARS SECTION」 には両号で五月下旬から六月20日までの観測報告が纏められている。この期間に特記的なこととして、Ls=175゚あたりで、120゚W ,10゚S のアルシア・モンス付近に午後になると出現する白斑が捉えられたことである。この白斑は山岳的と思われ、Ls=180゚以降に観測されるタルシス山系のW雲の前兆ではないかとしている。また南極冠内部のかげりも確認されていて、観測者達に追跡と確認の注意を呼びかけている。その他この期の他の模様の見え方が詳説されている。

報告者の顔ぶれは変わらない。岩崎徹氏が観測数を延ばしているが、先鞭を付けた阪部幹也氏からの観測報告は途絶えた。松本直弥氏は1985年12月からの写真をまとめて二十葉ほど報告されている。同氏の機材・感材等は#011に「惑星写真の実際(3)-私の火星写真撮影法−」として紹介された。また岩崎徹氏は#010で「Intensity-Estimate(濃度測定)について」を発表して眼視観測における数値化の方向を示唆されている。後に#044誌上に1986年の観測の集計を発表されている。この方法については1994年八月の福井での惑星観測者懇談会の最後の村山定男氏との懇談の席上で、「火星観測が、現在木星観測に比べて盛んに行われない理由は?」との質問に、村山氏は「観測対象の数値化が難しい」ことを理由の一つに挙げられたが、岩崎徹氏は「Intensity-Estimateがある」と、つぶやかれていたのを記憶している。

 #010 p76-77には、ノンタイトルだが南氏による観測姿勢が火星図と共に示された。#003 p20-22, #004 p25-26の続きのアジテーションである。是非再読されたい。また「中野主一『火星観測シミ ュレーションプログラム』の紹介」も浅田正氏により同号に掲載された。アマチュアにもコンピューターを使っての観測が可能になってきた草分けの頃の話である。佐伯恒夫氏の連載「火星観測の50年」は#010で(完)となった。最後は「・・本人はただ、楽しんで、楽しんでうろちょろしているうちに年月が過ぎ去っただけの事で、・・・・」と結語されている。
(Mk) 村上昌己