巻頭追悼文

オードゥアン・シャルル・ドルフュス氏 (1924-2010)

リチャード・マッキム

(中 島  孝 譯)

CMO/ISMO #378 (25 November 2010)


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ードゥアン・シャルル・ドルフュス氏(1)が、もう少しで86歳の誕生日を迎えるというとき、その数週間前に逝去された。惑星天文学界は最高の権威のひとりを失った譯である。

 

 オドゥアンは、19241112日、高名な気球飛行家であり飛行船のパイロットであったシャルル・ドルフュス氏の息子としてパリで誕生した。そんな譯で後年オードゥアンは気球飛行の世界記録を幾つも打ち立てることになる。14歳のとき小さな屈折鏡を、1943年迄には20cmニュートン式反射鏡を自作した。また、戦時下にも拘わらずフランス天文学協会(SAF)所属のソルボンヌの天文台の望遠鏡で観測することができた。そこでの良き指導者がルーマニア人のアマ天文家で大学の先輩のジャン・ドラゲスコ氏であった。

 

 1943年夏のある日、フランスの錚々たる天文学者が、SAFの創設者であり、偉大な天文普及家であったカミーユ・フラマリオンを偲んで年次集会を行い、彼のジュヴィシーの墓碑の周りに群れなして集った。その日ドルフュス氏は仲間として参加していたが、ほんの二、三メートルのところにガブリエル・フラマリオンやE.-M.アントニアヂ、F.バルデ、A.ダンジョン、G.ドゥ・ヴォークルール、その他多くの今では故人となった惑星観測者たちも参列していた。丁度あと一年ほどでドイツ人による占領は終わろうとしていたところであった。50年後、わたしは同じ場所にドルフュス氏とジュヴィシーの管理者ジャック・ペルネ氏と立ち合って、この有名だが今や朽ちかけた墓所を維持するためになされている状況を見届けていた。ドルフュス氏が1980年代にSAFの会長だった時期、ジュヴィシーの復旧作業に着手したのである。そして今年中には、ついにフラマリオンのあの有名な望遠鏡が作動される筈である。

 

ムードンこそドルフュス氏が自分の専門職を維持し生涯過ごすところになる運命の丘であった。パリ大の数理科学と物理を修めた1945年には、光学に関しては天才であり、RASのゴールドメダリストでもあったベルナール・リヨー(1897-1952)の研究所に入った。当時、パリ天文台のこの部門のスタッフはほんの僅かであったが、通常の太陽観測では最もよく知られていた。大戦前には、ムードンはまた83 cmの「大屈折望遠鏡を駆使して、アントニアヂやバルデ、その他の観測者による惑星観測でも有名であった。83cmのレンズは一旦セルから外されて、1945年の秋、鏡筒に再架された。同じ年ドルフュス氏はピク・ドゥ・ミディで最初の惑星観測を行っている。リヨーやアンリ・カミシェル、マルセル・ジョンティリィの様な人々が一緒だった。かれの記録日誌の序にその最初の登山(登台)‘Premier Ascentという語句で表している。当時は、ジャン・レーシュ台長が1947年にケーブルカーを設置するまでは、バグネールの本部からあらゆる物品を徒歩やスキーで運ばねばならなかった。1948年の火星の接近のときドルフュス氏はピクの60 cm 反射・屈折望遠鏡で観測し、また飛び切りのシーイングを連夜堪能した。このことが「運河幻想」に新しい光を当てた最初のプロとしての論文発表に繋がった(2) ピクの天文学者はまた水星をスケッチし、大型の木星の衛星や土星の細かな環の割れ目を記録しているが、同時に沢山の優れた写真も撮っている。

 

 ドルフュス氏が観測の最初から採った手法は眼視による偏光観測だった。ここでかれはリヨーの対象全面にわたる測定を継承している。リヨーは既に1920年代に火星にこの方法を応用して、この技法は火星の模様がダストストームによって覆い隠れる際の貴重な情報を得ている。ドルフュス氏は更に進んで火星表面上のひとつひとつ地域ごとに偏光観測で精査した(3) 位相角が0近辺を除いてこの方法で裸の地面と地面がダストや白雲で上部を覆われる場合を識別ができる。スペース・エージに入ってからは、ダストの光学的深度は宇宙船に搭載された器機による赤外線観測で入手できるようになったと言えるが、しかし数十年、あまり広域化しないダスト・ストームの研究において偏光観測は唯一確かな方法であった。かつてドルフュス氏はわたしに眼視による周辺偏光器の使用法を見せてくれたが、そのような測定には優れた技能が必要であることは見るからに明らかであった。ドルフュス氏は日本の海老沢嗣郎氏と数十年に亘り、この部門で協力研究を行い、大規模なダスト・ストーム期間中に浮遊するダスト粒子の大きさに近似的な値を与え、多数の論文を公表してきた。一方でドルフュス氏は北極冠の季節による縮小の状況を詳しくスケッチしている。また両極地方の精確な極冠の後退曲線を発表している。ダブル・イメージ・マイクロメータは惑星の緯度を測定する最高の装置であることも証明している。

 

 ドルフュス氏はまた1950年代に月面の偏光について研究していた。結論として、月面は細かい粒状に粉砕された玄武岩で覆われているということであったが、これはその後の月面への軟着陸に役立ったわけである。ムードン天文台のニコラ・ビヴェール氏は次のように付言している。NASAはドルフュス氏を招聘して、Apollo 11 号の着陸地点についての探究および宇宙飛行士が着用する月面用のブーツの設計を共同研究したというのである。ドルフュス氏はアポロ計画で収集した月の標本の分析研究とバイキング・ミッションの準備として火星の土壌研究にも寄与した。アポロに加えてレンジャーおよび金星のマリナー計画にNASAとの共同研究開発にも参加している。また1973年にはロシア人と共にマルス5号計画の協同研究に加わった。ドルフュス氏は20年ほど前にビデオによる偏光計の採用に着手し成功を収めた。月面を通常観測している時、クレーターのラングレヌスに浮遊するダスト粒子によって一次的な雲を見付けている。所謂「一時的な月の現象」というもので客観的証拠のある極めて希な現象のひとつである。

 

 1950年代ドルフュス氏は職業を趣味の一連の気球飛行に結合させるチャンスを持った。1956年に気球で高度6000メートルまで達した(太陽の米粒斑点と撮るという強い意志のもとで)。というのは乱流よりもむしろ対流が太陽からエネルギーを放出するメカニズムであることを確立しようとしたのである。かれが挑戦した最も野心的な飛行は1959年になされ、その時ドルフュス氏は与圧されたゴンドラを102個の気球で吊り下げて14,000メートルという驚異的な高度まで上昇した。このミッションでかれは分光学を駆使して火星の大気に水蒸気が存在することを見つけた。今日までドルフュス氏の気球による上昇はフランス記録である。ビヴェール氏は次のように付言する:かれは誇り高い蒙古魂と才能ある気球乗りである。飛行時間や飛行距離、飛行高度、そして自由気球飛行競技の標高での幾つもの世界記録保持者である。航空術の歴史家でもあり、フランス飛行クラブの会員であり、今尚ムードンでのY格納庫の気球と飛行船のシテの創設者であり、逝くまで活動を継続してきた、と。

 

 これら総てのプログラムを通して膨大な量のドキュメントを制作してきた。ドルフュス氏は1961年から1980年までの期間ムードン惑星観測資料センターの所長を勤めた。このセンターに世界中から寄せられた惑星写真が蓄積されている。とりわけ1941-1971年に体系的プログラムの実施期間中のピク・ディ・ミディで撮影されたドキュメントが保存されている。同様のセンターがローヱル天文台で立ち上げられた。当時は本当に好いプロの写真は希で、80年代の最初の10年でやっと微粒状で感度の高い乳剤がコダックのTP2415という形で入手可能になった。そして当然CCD像は将来も残るだろう。ピク・ディ・ミディの写真は世界最高だったし、いまもそうである。この国際協力の成果のひとつは金星の紫外線雲の回転に関する研究である。一時間ごとの写真を合成してメルカトール図法に仕上げ、個々の要素が始めて研究可能になった。水星も注目を受け、蓄積されたデータのおかげでドルフュス氏は、イギリスの天文学者J. B. マレー氏と共に望遠鏡によるプレ・マリナーの最高のアルベド・チャートを作成した。最近になってやっとメッセンジャー・ミッションがこれを凌ぐようになった。

 

 ムードンとピクでの通常の仕事に加えて、ドルフュス氏はIAUの惑星・衛星物理学研究第16委員会の議長に就任した。かれは標準火星地図(G. ドゥ・モットニ)の編集や新しい命名法(1957)にあずかって力があった。1960年に水星の日面経過があり、その時自分はエッフェル塔から個人観測をしながら水星の直径の測定観測をした。

 

 ドルフュス氏はまた土星も研究対象にした。1960年に起こった北温帯の大白斑を数ヶ月に亘って追跡し、当該緯度での大気の流れを正確に測定することに繋いでいった。そしてかれは土星の環系の恒常的な偏光測定を指揮した。1966年かれはピクでリヨーのコロナグラフを使って新しい衛星を写真で捜索することをやった。この調査の結果、新しい衛星ヤヌスの発見に加えて土星のずっと外側に淡い環の存在することも発見した。

 

 惑星観測者がスケッチにも秀でていることが、ドルフュス氏の場合大いに役立った。かれの観測記録帳は美しいスケッチで満ちている。わたしはBAA火星課の課長としての立場でこの30年近く何回もお会いしたが、いつもかれのスケッチを精読しながら楽しんだものだ。ある時ちょっと賭けてみようと思って、どの鉛筆が好きか聞いてみたら「あ、机にのっているヤツかな」と穏やかに応えた。かれが1960年に観測したGWSのスケッチ(4)はかれの芸術的技量の十分な証である。1980年代にピク・ドゥ・ミディ天文台は新しく2mの望遠鏡を設置して毅然とした決意で観測伝統を継続した。ドルフュス氏は新鋭機を1982年の火星でテストしてみた(5) かれの素晴らしいスケッチと写真によってかれの観測する眼(視力があるのは片方のみ)は高名な才能を些かもゆるがせにしなかったことがわかる。

 

 ドルフュス氏は約330編の科学論文を刊行した。また、多くの書物や会報に寄稿した。カイパーとミドルハースト編による古典的なPlanets and Satellites (1961)の中からピクにおけるフランス人観測者の高い技能の証としてかれの印象的な章のいくつかを選び出してみるのはどうだろうか。2008年にかれはLes autres mondres: Visions d’astronomeという図解の豊富な一般書を出版した。その中には新・旧の観測法が美しく統合されている。

 

ドルフュス氏はまたアマの天文家を熱烈に支援した。かれは数年間SAFの惑星面委員会の委員長に就き、火星のアマチュアによる観測記録をレポートして発表した。1988年、その年の火星接近にあわせた特別観測キャンペーンを行うことが決定された。それでかれはわたしに83cm Grande Lunetteを数週間使用する誘いを提案した。この招待を拒否するなんて。最近になってドームのスリット装置の故障が直って使用できるようになったが、今この文章を書いている時点で再び修理中である。この天文台からの眺望はファーストクラス並みである。わたしは観測のために数回ムードンに戻るが、よく地元のSAFの会員と行動を共にする。ドルフュス氏はSAFの特別講座に火星のダストストームの観測についてわたしに用意するよう要請してきた。わたしが躊躇なく承諾すると、その時かれは何気なく「もちろん、フランス語でないとね」と宣うた。

 

ドルフュス氏は歴史的話柄に鋭い関心をもっていた。かれは惑星の働きや気球飛行について、ジュヴィシーのこと、ムードン、パリ天文台、ピク・ドゥ・ミディのことなどをSAFの機関誌 l’Astronomieによく寄稿した。1993年わたしがE.-M. Antoniadiの伝記をBAA Journalに掲載するとそれが誘因となってかドルフュス氏は直ちにフランス語に翻訳してSAFの機関誌に載せた。わたしたちはその後もお互いの母語について何回も助け合った。ドルフュス氏が成し遂げたもう一つのプロジェクトはGrande Lunetteの主要な沿革を当時の記録や写真で立派に解説された一冊の本であった。SAFはその百年祭にその記念の書物で彩りを添え、そしてまたドルフュス氏は重要な文筆的貢献をした。1990年代にはSAFはカッシーニの時代からの大「空中望遠鏡」のひとつを再生する計画を立てた。ドルフュス氏はこの計画に全面的に参加して、望遠鏡が一端出来上がると、かれはその時代の衣装姿で現れ、アイピースのところでスケッチを始めるのだった! このような衣装で姿を現すのはこれが始めてではなかった(6, 右図)。シャヴィルの有名なメゾン・ドルフュス氏にも歴史に関する強い感覚があった。メゾン・ドルフュス氏でのディナーに招待されるとドルフュス夫人が給仕して古い磁器の平皿や盛り皿にのったご馳走を賞味したものだ。これらの皿には大抵気球のモチーフが描かれていた。

 

ドルフュス氏はムードンから完全に引退したのではなく80歳台に入ってもずっとムードンに研究室を構えていた。かれは多くの栄誉を授かった。1989年にレジョン・ドゥ・ヌール勲爵士になり、SAFからは最高賞ジャンセン賞を、1973年にはガラバート宇宙飛行士賞を受け、1988年にはフランス科学アカデミーのグラン・プリを授与され、1980年には小惑星2451は敬意を表してかれの名で命名され、1995年にはプロの天文学者としての50年を祝う記念の本 50 ans d’astronomie: comprendre l’Universをかれが密接に関わった様々な事柄についての対談シリーズを含めて出版した。かれの名前はあらゆるところで知れわたっていた。1984年わたしはパリ天文台の月に一回の一般公開でうっかりティケット無しで入る罪を犯そうとした。出札係に自分はドルフュス教授と知り合いだというとゲートが勢いよく開き「ドルフュス教授ですか、あの方は特別なかたです。お入り下さい!」この話を聞いて私の古い友人はたいへん面白がった。

 

 ドルフュス氏は並はずれて勤勉な印象を人にあたえるが、個人的には温かい人である。かれはいつも忙しくしているが常に人に喜んで自分の時間を割こうとした。ドルフュス氏はカフェテリアで昼食の後、みんなのコーヒーを自分で取ってくると言い張ったものだ。そして自分の研究室で茶を飲みながら(砂糖はよいが、ミルクはだめ)自分の学生や同僚たちとくつろいだものだ。そこには親しい会話やお話、議論の時が流れるのだった。人はかれとのこの時間の思い出を心に大切にしまうだろう。イギリスから誰か到着するとドルフュス氏はムードンの丘まで徒歩でだらだらと長い時間登るのをさけ、自分が最寄りのSNCFの駅まで迎えに行くと主張することだろう。かれはいつもジャッケットとタイのあか抜けした身なりをしていた。寒い天気のときは長いレインコートとベレーを身につけた。かれのトレードマークはプルオーバーの外側にタイをつけることだった。かれの車の運転は控えめだが、パリ地区だと度胸のいい運転ぶりだった。かれは科学を遂行する際の官僚的遅滞をどんなかたちであれ嫌った。また自分の所有する文書や資料は自由に閲覧することを認めた。かれは偉大な人間主義者でもあり、フランス人の真の平等Egalitéを信奉していた。かれは強く喫煙をやめるように仕向けた。

 

 20099月パリ/ムードンでIWCMOの集会があったが、ドルフュス氏は出席するには体調が勝れなかった。このIWCMO大会は、 アントニアヂが大屈折望遠鏡を使って火星観測を始めた起点として百周年を記念するものであった。のちにわたしはBAA Journalにドルフュス氏が大会で発表するはずだった論文の英語の翻訳をBAA Journalに掲載するのに協力した。この年の8月遅くかれは足の手術のためにヴェルサイユの病院に入院した。そして2010 101日のかれの死去を耳にして衝撃を受けた。

 

 オードゥアンとカテリーヌにはひとり息子のジャン・ティショと三人の娘アリアーヌとコリーヌそしてファニーがいた(最後のひとりは二、三年前に悲劇的な死を迎えた)。オードアンは個人的な才能と太陽系天文学に対する愛着の強い非凡の人であった。天文学、その観測記録と歴史は永遠に存続する金字塔である。ヴェルサイユでの葬儀のあと、かれはリオン・ラ・フォレに埋葬された。最後にわれわれ一同はドルフュス夫人とご家族に哀悼の意を捧げます。   

 

(編集部註):ドルフュス氏の最後の論攷と気球の話は、夫々次のIWCMOの頁で読める。

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn5/2009Paris_Meudon_Talks_ADollfus2.htm

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn5/2009Paris_Meudon_Talks_ADollfus.htm

 

また、Figure 61951年ラ・ミュエットという處で催された気球の記念行事で、これは1783年にピラトル・ロジエ(1754-1785)とヴィユー・ラルランド(1742-1809)が初めて気球を上げたことに因み当時の服装等でお祭りをしたときのものの様である。右側の二人の人物の内、右側がピラトル・ロジエ役のオードアン(緑色系の服)で、左がラルランド役の父親のシャルル(白色系)のようである。


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