巻頭エッセイ

ビル・シーハン氏の

何人かの偉大な火星觀測家の個人的な想い出 (その1)

の解説

 

CMO/ISMO #379 (25 December 2010)


English


ーハン氏の今回の文章は、最終的にピク・ディ・ミディでのオードゥアン・ドルフュス氏の想い出を書くつもりらしいが、その前に此の第一部では未だ下界にいる内に逢った人々について書いている。逐語訳する時間はないので簡單な解説に換える。

 

1992年の78月にフランスのトゥールーズ大學(何と1229年創立で、いまでもフランスでは3番目くらいに大きい大學)で、アマ・プロの天文家の交流を促進するためのシンポジウムか何かにシーハン氏は出席したらしいが、アメリカからは有名なスティーヴン・オメーラ氏と二人だけだったようである。オメーラ氏はS&Tの編集部にいたから昔からの知り合いらしいが、逢ったのは初めてのようである。しかし、後に2001年には共著で部厚なMars - The Lure of the Red Planetを上梓している。フランス側のホストはパトリック・マルチネ氏で、この人はAstronomie le Guide de lObservateurという矢張り部厚な二卷本を出した後であったようで、このときはLe Guide Pratique de lAstronomie CCDを書いていたらしい。

 会議での話題も専らDispoitif à Taransfert de Charge、詰まりCCDが話題になったようである。すでに1988年の大接近の折にはS&Tの表紙にピクで撮られたシュルティス・マイヨルの「吃驚するような」畫像が出ていた譯だが、シーハン氏言わせるとアントニアディ流の詳細が出ていて、地上からのその後の觀測に一撃を加えるものであったそうである((Mn)にはそうとも思えなかったが)。肉眼觀測はこれで突然カメラに席を譲ったと言っている(ホントかな)

 

マルチネ氏は親切な人で、最初二人を古いトゥールーズ天文臺見学に連れて行ってくれたそうである。場所は天文臺公園にあってこの敷地は天文臺通り、カミーユ・フラマリオン通り、それにジョアンヌ・クプレ通りに囲まれた三角の緑地にあるそうである。ジョアンヌ・クプレというのはJohannes Keplerのことである。この天文臺は、また天體力學者で金星凌日の觀測に日本へも來たことのあるフェリックス・ティスランやバンジャマン・バイヨーのような偉大な天文學者の名でも知られている。尚、ティスランの助手のアンリ・ペロタンは後にニース天文臺長になった人で火星觀測でも名を擧げた(ペロタンについてはIWCMOでのルコント氏のレヴューに出てくる。火星のクレータにも名前が遺る)。バイヨーというのはピク・デュ・ミディ天文臺の立案者でもあり、既に1909年に小さな望遠鏡を立てているとあるが、ピク・デュ・ミディ天文臺の建設は19世紀から始まり、1903年には50cm屈折などがバイヨー等の手で設立されているからこの記述は何處かおかしい。ドルフュス氏のIWCMO 用の原稿には、1909年にはこの望遠鏡で火星写真が撮られていることが記されている。勿論バイヨー兄弟の名も見える。なお、ティスランもバイヨーも後にパリ天文臺長になっているはずである。

 

 彼ら三人はそぞろ歩きでアンリ兄弟による星圖の爲の13インチの屈折や、ドイツ式の赤道儀の大きなカセグレイン鏡を見たりしたらしい。

 天文臺からはオベリスク通りを歩いて行ったが、オベリスクには「祖国のために勇敢に戰った死者の爲に」とあった。これは1814410日のトゥールーズの戰いを記念するものである。ナポレオンに組する軍隊が、ウエリントンの率いるスペイン-英國隊と不毛な闘いをしたところであるが、前者は既にナポレオンが退位していることを知らなかった。というところで、シーハン氏は、330日にナポレオンがジュヴィシーの例の館で休憩を取っているときパリの降伏を知り退位せざるを得なかったことを思い出している。というよりその館こそ後にフラマリオンに譲られ、火星觀測のメッカの天文臺になって有名になったことと關係するからである(現在修復中)

 

 彼らが有名な惑星天文家のアンリ・カミシェルに逢うことになっていたのはこのオベリスク通りであった。カミシェルは84歳であったが、鋭敏な目をして機敏で活發に見えた。白髪を颯爽と靡かせ、フランス軍タイプの八の字の口髭を生やしていた。家は、薔薇色の暖かみのある煉瓦で作られ、これらがトゥールーズを「薔薇の街」と言わせるぐらいの造りなのであろう。家は高い塀に隣接していた。この偉大な人は彼らを歓迎し、門を開け、塀が必要なぐらいの不快な外から彼らをプライヴェートな世界へ招き入れたと書いている。通りの騒音と排氣ガスとは縁が切れ、恰も彼らは別の惑星に誘われたようで、地中海の優しい微風に息づく柑橘類の樹で覆われた牧歌的な庭で寛げたとシーハン氏は書いている。緩やかな坂道をぶらぶらと辿り降りて彼らは小さなテーブルに座り、彼ら四人は英語やフランス語でおしゃべりをしたらしい。というのも、カミシェルはフランス語しか喋らず、シーハン氏とオメーラ氏は英語、マルチネだけが通譯できる賢人だったからであったようだ。カミシェル夫人は彼らに對して控え目だったが、長い夏の午後と夕方、最高の地酒(ワイン)を供してくれたそうである。

 

 カミシェルは身振り手振りで1936年に初めてピクに登って以來の彼の經驗の話をしたようだ。シーハン氏の感じたところでは、こうした年老いた天文家は皆饒舌で、彼らは皆科學がいとも容易く進歩し、彼らの仕事が完全に忘れられる危険性があることを感じているのではないかという。カミシェルの思い出すところでも、一度、ピクは寒くて天文學に向いていないのではないかと感じたらしいが、リヨーなどは夢想的だが兎に角先へ行っていたと思っていたようだという。もともと氣象臺を借りていたのだが、彼も最も重要な仕事は冬でも天文學がやれることを示すことにあったらしく、實際彼は冥王星を除いて全ての惑星の写真を撮ったということである。

 

殆どの時間、彼らは火星について話したようだ。カミシェルは若いときにムードンでアントニアディに逢っていて、この傳説的な觀測家に就いて二三の話題を提供してくれたとシーハン氏は書いている。アントニアディがまだコンスタンティノプル(いまのイスタンブール)に父親と住んでいた頃、スルタンが死んだ、ということにアントニアディは嬉しいと言ったそうである。ところが父親の言うには、嬉しがるな、次の息子のスルタンはもっと悪いと言ったそうである。カミシェルによればアントニアディは丁重であったが、少しよそよそしかったそうである。アントニアディは獨立するだけの財力はあったが、第二次大戦中に突然死んでしまった。

 

カミシェルはチャンネルとかカナルというものは信じたことがないそうである。寧ろ、表面の模様は細かい點彩に分かれ、それは上等な觀測者によって理想的な條件のもとで記録されると考えていたようである。その例として彼は特にフォキャスの描冩力を擧げているそうだ。カミシェルは地上からの觀測者が火星のクレータを見る能力には懐疑的であったようで、精々、彼らが見たということに根據があるとすればオアシスのような通常の模様をクレータと取り違えたに過ぎないだろうというわけである。

 

 ムードンは彼の意見では天文臺としては低地だから拙いところに建っているということであった。ピクでは反對に、月に二、三夜は特別な素晴らしいシーイングに恵まれるということであった。彼は火星には700倍を使った。彼は、でもピクの條件は1mカセグレインの最高分解能を見せるとは信じなかった様である。分解能の限界は50cmより少しマシな程度であるということであった。

 

彼らはシャルル・ボワイエとの關係も議論している。この人は金星の上空の大氣の四日自轉を發見するのに功のあった人である事は有名である。ボワイエは戰後サン・ゴダンスの官吏であった人である。カミシェルもボアイエも熱心なハム・ラジオの使い手で、カミシェルがボワイエを天文に引き入れた。最終的にボワイエはカミシェルに自分が出來そうな觀測目標を訊いて來たようである。当時カミシェルはピクで金星のUV冩眞をやっており、ボワイエもそれを採り上げてはどうかと推奨したらしい。その頃までにボワイエはコンゴのブラザヴィルの官吏になっていた。ボワイエの像のサイズは非常に小さくて、彼が見ても自分の像に四日程度ごとに模様が見られるがその間は何も見えないということから、彼は四日自転周期を結論するに至ったのである。この場合、像に詳細が欠けていたことが幸いしたのであった。カミシェルの高分解像では詳細の過多が邪魔をしたのである。カミシェルとボワイエは無名の雜誌に發表したが、無視された。

 

カミシェルは彼らのインタヴューを終えるにあたって、シーハン氏に次のような賢くも正當なアドヴァイスをくれたそうである。「若者よ(單數)、私が學んだことは科學的な研究をするよりも馬鹿な人達と闘うことに時間を潰しなさい。彼らと闘うのを避けることは難しい、何故なら馬鹿者達は多すぎるからだ。但し、馬鹿者達と闘うには人生は短すぎるということ、これが私が君に與えることの出來る最高のアドヴァイスかもね。」

*****

 次の朝、彼らはバスでトゥールーズを離れ、ピレネー山中のピク・デュ・ミディに向かった。青々としたフランスの片田舎を通りすぎながら、夫々尖塔のある教會を持つ丘の上に佇む小さな古風な趣のある小さな街々の素晴らしい景色を愉しんだようである。この後括弧してシーハン氏はトーブとルードル(Loudres)の分かれ道やいろんな描冩を書くのだが省略する。シーハン氏の父親が戰中に軍隊としてルードルに來たことがあったらしい事と關係するらしい。ルードルはbasilique(教會堂)でも有名なところである。

 

ピク・デュ・ミディは峻険で、想像していたよりも孤立していたとも書いている。雲の上に稍不気味であったらしい。

 

シーハン氏のバスの同伴者は、スティーヴ・オメーラ氏であった。この人とピクへ行くわけで、その前にオメーラ氏に關する先祖や生い立ち、ハーヴァードの器械などが書かれている。オメーラ氏は日本でもよく知られているので、ここは略す。知りたい人は原文に當たられたい。ただ最後のところにオメーラ氏の大きな功績が書かれているので、これも知られたことだが、かいつまんでシーハン氏の紹介を紹介しておく。

 

オメーラ氏は最盛期に於いて優れた眼を持っていたことで知られている。彼は出入りしていたハーヴァードの天文學者フレッド・フランクリンと知り合いになったが、土星のA環の明るさを評価する計畫を勧められる。その際その變化の確認を目標として写真による測光と比較するわけである。オメーラ氏はそれをやりながら、どうもB環の上に放射状に影の筋があることに氣づき始めるのである。それを彼はspikesと呼んだ。このことをフランクリンに告げたとき、信用されなかった。このことはボワイエが金星の上空大氣が四日周期で廻っていると報告したとき信用されなかったのと似ている、というわけである。フランクリンが説明するには、ケプラー軌道を動いている粒子の別個の回転周期の爲に、そのような放射状の模様は破壊され、存在しえないから不可能であるということであった。いうまでもないが、オメーラ氏の觀測は結局正しかったのである。彼のspikesはいまではspokesとしてヴォイジャーの映像から證明され、よく知られている。

 

 (この稿は續く:次はピク・デュ・ミディでの話とドルフュスが訪ねて來る話になるはずである。)

 


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