巻頭エッセイ

ビル・シーハン氏の

何人かの偉大な火星觀測家の個人的な想い出 (そのII)

の解説

 

CMO/ISMO #381 (25 February 2011)


English


の項はCMO#379の巻頭エッセイの續きである。そこではトゥルーズでカミシェルに逢ったときの話とピク・デュ・ミディへ出発する話で終わっていた。今号はピク・デュ・ミディでの話である。特にドルフュス氏の話が中心になる。写真はドルフュス氏八十歳誕生日の時のもの。

 

スティーヴ・オメーラ氏とシーハン氏がピク・デュ・ミディに到着したとき、ドルフュス氏がピク・デュ・ミディにやって來るという話が傳わったようである。シーハン氏に依れば、ドルフュス氏はフランスの惑星觀測者としてでなく、氣球乗りとしても傳説的な人物であったが、會うのは初めてでシーハン氏は興奮した譯である。名前を聞くだけで魔法を掛けられたようなもので、實際十歳の頃から圖書館で借りられる惑星の本を片っ端から讀んで居たので、名前は小さい頃から舊知であった由である。最初に讀んだ火星の本の一冊にフランクリン・ブランディ の『第四惑星・火星』というのがあったらしいが、そこでは所謂運河がピク・デュ・ミディのドルフュスの手で斑點で不規則に綴られているのを見たらしい。少し後にはカイパーとミドルハースト編によるPlanets & Satellites に接し、そこには彼の解像力のよい惑星や衛星のスケッチがふんだんに出ていた譯である。二年後、地球から土星の環が水平に見えるのをシーハンは初めて見たが、このときドルフュスがヤヌスを発見したのには痺れたらしい。1966年のことでドルフュスは四十二歳の若さであった。

  當時この人といつか逢うというのは全くありそうもないことと思っていたらしい。

  シーハン氏は彼に畏怖ないし畏敬の念を持っており、彼は遠くの近寄りがたい人物と思っていた譯である。處がシーハン氏が Planets & Perception1988年に上梓すると、ドルフュス氏はSAFの機關誌lAstronomie1990年四月號で、その本をレヴューしてくれて、それも可成り好意的であった。當時、シーハン氏は孤立しており、独りでコツコツとやる研究者であったから、あの傳説的な人物からそのような賛辞を受けて、天にも昇る氣持ちであったようだ。シーハン氏はそれ以來「遠くの近寄りがたい人物」と思っていた人と文通を始めることが出來、彼が暖かく親切、且つ人を勇氣附ける人物であることに氣附くのである。どういう人かと一口で言えば、同じように天文に熱狂的な他人に天文への彼の情熱を與え直す人である。言うまでもなく、そのような人物がシーハンの仕事を真面目に受け取り、幾らかでも価値があると認めたというのはシーハンの人生の転機になったとさえ言える事である。

  ドルフュス氏は1924年の十一月12日に生まれたが、これは丁度シーハンの子供時代のもう一人の英雄パーシヴァル・ローヱルが死んで八年目のことであった。有名な飛行士の息子として、ドルフュス氏は六歳にして天文に興味を抱き、最初の屈折望遠鏡を十四歳のとき拵え、そしてゆくゆくはパリ-ムードンで研究するのである。そこでは偉大なベルナール・リヨーに指導を受けた。リヨーを最も知らしめていることは1930年にピク・デュ・ミディに配轉されてコロナグラフを完成、觀測したことであろう。彼はまたピク・デュ・ミディで惑星觀測を率先した人物でもあり、1941年の火星接近の際は、この2877mの雪で覆われピレネー山系でも孤立して立つ地點が、常識で考えられない好いシーイングを惑星觀測に提供することを認識した人でもあった。

  事實、フランスの惑星天文學は十九世紀以來最前線にあったが、リヨーはこの誇るべき傳統を踏み固めつつあった。彼の先驅としてはジュヴィシーで太陽系の研究に生涯を捧げたカミーユ・フラマリオンやフランスのローヱルとも言うべき資財を注ぎ込んだルネ・ジャリ=デロージュを擧げる事が出來よう。後者はIWCMOのルコント氏の中に肖像写真が入っているが、フランスやアルジェリア(當時フランス領)を探査して大氣條件のよい處を探した熱情家であって、その配下にジョルジュ・フールニエがいたわけである。フールニエは惑星表面の詳細な眼視觀測で知られる。

  ドルフュス氏は何十年にもわたる經驗で、惑星觀測を左右する因子についてのエキスパートであったし、これがシーハンのPlanets & Perceptionの主題でもあった譯である。ドルフュス氏はこれらのことに就いてシーハン氏と議論することに熱心であったし、シーハン氏の質問に對しては縮約無しに丁寧に應えたようである。シーハン氏曰わく、恐らくドルフュスさんはお世辞を言ってくれたかも知れないが、ドルフュス氏が言うには常にシーハンに逢いたいと思っていたし、パリからわざわざ出てきた理由の一つにはそれがあったということであった(ほかにもっと重大な事としては新機種で太陽の像を得ることがあった)

 ドルフュス氏は背が高く、痩せていたが強靭に見え、ウールのセーターとお馴染みのフランスベレー帽で萬事フランス風の規規矩矩な服装をしていた、とシーハン氏は書いている。ドルフュス氏は七十歳に近く、非常に注意深く、ピク・デュ・ミディに到着したときは、ユックリ歩き、あの高度に身体を慣れさせようとしていた由である。氣球高度のフランス記録を持つ彼だから、その重要性を知悉していた。彼はアマチュアの情熱とプロフェッショナルな注意深さを兼ね備えていたという譯である。

  シーハン氏は彼に會うまで、此の傳説的な惑星觀測家が傳説的な眼視力を持っていながら、實際には片眼が實際上見えないということは知らなかったらしい。この點では好い眼を一つしか持たなかったスキアパレッリに似ている。明らかに、この事實はアイピースの處では何の障害でもなく、寧ろ有利に働いていたかも知れない、とシーハン氏は考えている。恐らく、とは言っているが、ドルフュスのような人にはよい方の片眼は、両眼で分け合う大脳皮質性の何らかの空間を附與される結果、より大きな力を發揮するのではないかという譯である。

  ランチを摂りながら、ドルフュス氏とシーハン氏はフランスの惑星天文學の傳説的な人物達について語り合った。ドルフュス氏はアントニアディに逢っていた。彼を称賛もしたが、よくは知らなかった様だ。それはおかしな事ではなく、アントニアディは人と交わらない質であったし、自分の意見を他人に喋らない事を信條としていた風であるからの様である(この點については最近リチャード・マッキム氏が傳記に係わる何かを發見したらしく、現在進行中の本に入れる豫定のようである)

 ドルフュス氏はジョルジュ・フールニエについては好意的に話したようである。この人は1954年に亡くなったが、よく知っていたようである。ドルフュス氏によると、フールニエは温和で遠慮がちな人で、同時に第一級の觀測家であった。フールニエはスキアパレッリが1889年に提唱した水星の自轉が88日というのを1907年と1920年の自己の水星觀測から疑っていたということだ。電波觀測で自轉が59.85日となったのは1965年のことで、ドルフュス氏はフールニエのスケッチから圖のように円錐投射圖を作っている。これにはピク・デュ・ミディでのドルフュス且つカミシェルの觀測とも比較してある。(ブールドーの水星圖も入れることになっていたが、英文版のLtEをご覧頂きたい。これはS&Tに出ているようである。)  不幸なことにフールニエの水星の觀測について稱賛に預かっていなかったし、いまもそうである。

  ドルフュス氏はまたジャン=アンリ・フォーキャス(1909~1969)についても好意的に話し、實際一緒に仕事をしたようである。フォーキャスはアントニアディと同じくギリシャ系のフランス人天文家で、生まれはイオニア海のギリシャのケルキア島で、もともとの名前はイオアニスであった。アテネの國立天文臺の25cm屈折を使い熱心な觀測者になった人である。アントニアディの場合と同じく、彼の場合も完成度の高い結果を出したと受け取られるだろう。彼の才能をリヨーが氣附き、フランスへ來てムードンやピク・デュ・ミディで惑星を觀測したらと誘いを掛けたが、不幸なことに、彼の到着は遅れた。一つの理由は1952年にリヨーが、スーダンでの日蝕遠征のときカイロで心臓疾患で突然亡くなった事による。やっとフォーキャスは1954年に到着したが、丁度火星は接近中であって、ドルフュスは有名な61cm屈折反射鏡で忙しく觀測しているときであった。ドアが開いて、フォーキャスは自己紹介し、苦勞もせず、アイピースを取って代わったということであったらしい。直ちに、ドルフュスが言うには「最も素晴らしい」火星のスケッチを描き出したということである。

  フォーキャスの觀測帳はムードンにあるそうだが、幾つかのオリジナルな圖はギリシャに戻されたらしい。彼の火星圖はスペース回船以前の火星圖では最も詳細に富むものである。不幸なことに、ギリシャやフランスの多くの人達と同じよう(とシーハンは書いている)にヘヴィー・スモーカーで1969年の七月の六十歳の誕生日前に亡くなった。彼の名は火星のクレーターに命名されている。

  シーハン氏はドルフュス氏とシーハン氏達が1メートル・カセグレンで成した幾つかのスケッチについても議論したらしい。ドルフュスが着いたのは月曜日で、シーハン達は時差ボケをものともしなかったようで、土曜の夜中中觀測し、日曜の夜中も起きていて、まるで歩哨が誰何する如く頂上を渦巻く雲と嵐が治まるのを期待して待機していたのだが、やっと嵐は午前四時半頃にチョット治まり,環から離れたところにミマスを幽かに捉えることが出來たといった具合で、シーハン氏はドルフュス氏に出逢ったときにはまるでロビンソン・クルーソか狂人のようになっていた由である。彼は三夜寝なかったらしい。

 

  これは多分本當のことだと醫者のシーハン氏が言うのだが、人間の頭は一夜にして真っ白になると言われている。彼らの頭は色を變えなかったけれども、1メートル・カセグレインでの一夜の觀測だけでシーハン氏の惑星觀測の經驗を熟成させたと言っている:Planets & Perceptionを書いたときの疑問の幾つかのシーハン氏の間違いにも氣附いたらしい。

  一つは、困った問題で、惑星觀測に關して大きな器械と小さな器械のどちらが有利かという疑問である。シーハン氏には英國のアマチュア、スタンレイ・ウィリアムズが15cmの反射鏡で、土星上に小さな惚けた斑點を記録したのに對し、リックやヤーキスの大きな屈折鏡でバーナードがそれらを見落としていたというような論争の火種が頭にあるのである。回折の鐵の如き不變の限界のみが、或る与えられた時、或る望遠鏡で見える事の出來るものの必要不可缺なものとして屢々考えられて來た。しかし、大氣的なシーイングの所爲で大きな望遠鏡は稀にしかその解像力限界を達成できないし、その理由は、大氣の擾亂の大きな強い細胞が大きなレンズや鏡では平均化されてしまうからである。これは通常的にローヱルが60cm屈折を30cm40cm口徑に絞っていたことの説明になる。他方、こうした見方では何故ローヱルの敵E.-M. アントニアディがムードンの83cm屈折を使いながら、ローヱルの手には全く適えられなかった澤山の微妙な詳細を把握したか説明が附かない。シーハンがPlanets & Perception を書いたときには、彼はローヱルとは對峙するアントニアディやバーナードの立場に立つように決心したのだが、そうすることによって多くの天文家から激怒を招いてしまったらしい。特にローヱル天文臺の非常に高名な火星觀測者からはそうであった由である。シーハン氏の白状するところに據ると、「俺はPlanets and Perceptionを讀ま無かったし、讀むつもりもない。聞くところに據ると、貴殿はローヱルが口徑を絞ったことを批判したらしいが、それだけが俺の知りたいと思う處だっただけだ・・・」

   シーハン氏にしてみれば、未だ學ばねばならない事は山積していたので、この人の非難を受け入れて、結局はよい友人になったそうである。この天文學者とはレオナード・マーティンのことで、後にシーハンがThe Planet Mars を出版したとき非常に好意的な書評を書いてくれた人である。實際この本ではシーハンは前作を大幅修正したらしい。

 

  シーハン氏のピク・デュ・ミディの1m鏡による最初の夜に、彼はその様な大きな望遠鏡の眞の優位というのは主に微妙な色彩のニュアンスを現出することだと覺ったようである。その結果、その優位というのは、何か惑星の表面に線とか點とか外郭が存在することを見せるということではなく、それが「何か」ということを示すことだということを覺ったということの様である。言葉を換えれば、望遠鏡は詳細の存在を明らかにすることでなく、明らかにするのはフォルムだということのようである(この點に關して脚註Noteが英文の部にあるので參照されたい)1メートル・カセグレンの描出する惑星上の色のパレットは驚くべきものであったそうで、それは謂わばモネのカンバスを見ているようなもので、これこそ解像力の限界を云々するべきものではなかったというわけである。この經驗を透してシーハン氏は何か啓示を得たようである。とくにシーハン氏は土星の南半球の強い濃緑色には呆然としたらしい。(興味あることにスティーヴは同じ半球を緑色に見たらしい。疑いもなく、他の感覺と同じように色彩感覺には意義深い主観的な個人差があるということである。)

   ランチのとき、シーハンはスティーヴと一緒にドルフュスに南半球の見事な蒼色は印象が深かったと語ったらしいが、ドルフュスはいとも簡単に「いつものことさ」と簡単に應えただけらしい。彼は屢々極地を灰色に見ていた。

   1992年以來シーハン氏は特に土星の蒼い南半球には注意を拂っているようだ。あの1メートルで見た土星の見事な觀望は効果的に興味を支えてくれたようで、この効果は現實で、日射に依存して微妙な定期的な効果を一寸驚くことだが示してくれたようだ。

  ピク・デュ・ミディはその午後は雷の嵐に見舞われていたが、夕方には條件は好くなり、これは「ドルフュス効果」というのだそうだが、勿論正確な統計的なデータは無いと思うが、山の他の天文學者の言っていたことでは、ドルフュスが滞在すると屢々起こる好い天候というのは統計的に高かったようだ。從ってシーハン達は初めてこの傳説のもとで觀測することができたということである。風は唸っていたが、シーイングは例外的に安定していて、この理由についてはドルフュスは後で説明をしてくれたようである。

   シーハン達は土星から始めた。倍率は800×であったが、たまに1200×を使った。土星上には北半球の赤道帶に小さな卵形の白斑が現れていた。環はリヨーの有名なスケッチに似ていて、縮緬環は明るく氷の青さだった。カッシーニ間隙は漆黒というより灰色めいていて、Kい影や背景の空より明るかったらしい。B環の幽かな濃度の違いはいろいろな微妙な空隙が波紋のように擴がり、これはスケッチするのは不可能であった由だ。彼らはA環の幾つかの幅廣い影を見たようだし、公式にエンケ間隙として知られている鋭い空隙もより外側に見たのだが、ドルフュス氏は即座に、土星の環に滅茶苦茶な名前を附けるIAU委員會には出席をしていなかったと附け加えたらしい。實際エンケはこの特別な模様を見ていなかったのである。相應しいことに、ドーム内に「スポーク」を眼視で發見した人物がおり、彼らは土星の朝側の端っこに幾つかの明確なスポークを認めたようである。殆ど幽霊のオーロラか或いはアミーバのように、その指の先のような突出物が動いているようで、時間毎に或いは夜毎に變化していたようである。ここでもオメーラとシーハンは印象が異なり、オメーラは花びらのように見えると考えたのに對し、シーハンには筋模様のように見たらしい。

  ドルフュス氏も彼に見えた通りにスケッチし、シーハンはそれを持っている。ドルフュスはフリーハンドでスケッチした様で、シーハンは素晴らしいと言っている。彼はシーハン達の時間を奪うのを避けて、餘り時間を取らない様にしてくれたらしい。シーハン氏は換わりにドルフュス氏にシーハンのカラースケッチを進呈したらしいが、ドルフュス氏は彼らしい上品な言葉を返してくれた:「土星の素敵なカラースケッチに對してお祝いを言おう。一緒に觀測で過ごした夜の好い想い出になるでしょう。」

  ドルフュスは去り、寝に行ったが、その後も二人は天王星や海王星、それに火星に望遠鏡を向けたようだ。火星は未だ遠く、小さな膨らんだファベルジェ・イースター・エッグのようであったけれども、これについてはまた別の機會にシーハン氏は書くようである。

   次の日は、彼らの最後の日で、彼らはムードンとピク・デュ・ミディでの眼視觀測の幾つかの様相について話し合ったらしい。兩方に精通しているドルフュス氏と話せることは大きな悦びであったとシーハン氏は書いている。實際、今後、ドルフュス氏がそうであったようには、眼視觀測について理解する人間は最早見出せないだろうからである。

 

   ドルフュス氏が言うには、大きな口徑の本當の有利さはその色彩とフォルムを明らかにする能力と關係していて、分解能ではない。それに、シーイングは三次元現象だから、そのことは複雜なものになる。像は、被冩界深度がより大きければ、より長い時間ピントが合っている。これが長焦點の望遠鏡が惑星を觀察するときの助けになる理由の一つである。シーハンは序でに附け加えるに、ドルフュスは他の利點に加えて、望遠鏡の口徑を絞ることは、F/Dを高め、被冩界深度を深めると言ったそうである。

  ドルフュス氏が言うには、四十七年以上の觀測生活で、夜の約半分はピク・デュ・ミディで過ごしたわけだが、好い空に惠まれ、いつも少なくとも一回は有用な觀測の得られる好いシーイングに出逢っているらしい。ピク・デュ・ミディでの天文家の經驗では、陸からの北風はシーイングを悪化させるが、然し、好い天氣のときはシーイングは概して好轉して、安定する。これは北風が落ち、或いは風の向きが南西に變わるかららしい。また、夜氣温が下がるよりも上がるときの方が、好いシーイングを齎す。天候は通常四月、五月は最も曇りが多く、最も綺麗な空は七月である。別のピク・デュ・ミディでの特徴として、シーイングが非常に好いときには數夜同じ様な状態の續くのが常で一週間に及ぶときもある。この特徴はピク・デュ・ミディ特有のものであるらしく、ここが惑星觀測のメッカになる理由がある。少なからず、この理由で次の夜、好いシーイングに恵まれる譯だから準備は注意深くできる。これに對してムードンでは状況はもっと「古典的」であるが、それでもドルフュス氏はグランド・リュネットで屢々滿足の行くシーイングに出逢っているようである。そして理由は何であれ、平均よりもよい結果を得ているらしい。

  この時點で、彼ら三人は握手をし、別れたようである。以來、廿年にわたってシーハン氏はドルフュス氏と交信を重ねたらしいが、昨年十月1日にドルフュアス氏は不歸の人となった。從って、これが最初で最後の出逢いとなった譯である。IWCMOでは再會できるはずであったが、ドルフュス氏は講演の準備はしたものの病床にあった。

  シーハン氏によると、ドルフュス氏は古典的な時代を象徴する最後の惑星天文學者のひとりであった。天文學者であり、氣球乗りであり、特別な友人であったオードゥアン・ドルフュス氏については、シーハン氏は次の「ハムレット」の言葉以外に思い出せないとしている:「何處から如何やうに(しら)べうとまま、又とあるまじい人であったわ。」(坪内逍遙譯)*

または「立派な人だった。どの点からみても、二度と会えない。」(三神勲譯) *

() 英文の部にはNoteがあるので參照されたい。ローヱル-ピッカリング時代のジョージ・ハミルトンの手紙が主であるが、色彩感覺の重要性を述べたものである。*---ハムレットの台詞は中島孝氏調べ

 


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