巻頭論攷

パーシヴァル・ローヱルの6吋屈折望遠鏡と金星凌日

ウィリアムシーハン

(近内令一・譯)

CMO/ISMO #402 (25 September 2012)


English



    件のクラーク製6吋屈折機はPercival Lowellによって1892年に購入され、彼の日本への最後の旅に帯同して東京に持ち込まれた。彼の弟のAbbottは彼が土星の観測にその望遠鏡を使ったとしか述べていない。この頃彼が天文界に身を投じようとはまだ考えていなかったと思われるのは、1893年の秋になっても東京を離れる準備をしていて、富裕な芸術家Ralph Curtisに気晴らしに1894年の春にセヴィリヤに旅行すると書き送っていることからも明らかであり、たぶん彼は東京の夜空の遥か南寄りに輝く火星のことなど大して気にも留めていなかったであろう。

 

  Percivalの火星狂いに火が点いたのはCamille Flammarion1892年の大作La Planθte Marsを入手してからである。この大著は1893年のクリスマスに伯母(詩人James Russel Lowellの姉)によって彼に手渡された; 現物はローヱル天文台に保管されており、彼自身の書き込みで“急がなければ”とある。実際のところ長い年月のあとに189410月にやっと火星が最新の大接近になるということで、彼にとってはまさしく“火急を要す”ことであった。この年の1月に彼は1892年のペルーでの火星観測から戻ったW. H. Pickeringとハーヴァード大学天文台で会い、火星観測のための臨時遠征の計画を共同で練り始めた。これらの計画はローヱル天文台の設立へと繋がることになる。

 

 

 Pickeringのかつての助手であったA. E. Douglassは観測候補地探しの業務を託され、このクラーク製屈折機と共に3月から偵察行に出発した。Douglass39日にトゥームストーンに着き、その後ツーソン、テンピ、そしてフェニックスとアリゾナ州南部を渡り歩き、さらに北に向きを変えてプレスコットそしてアッシュフォーク、最後にフラグスタッフへと辿り着いた。(彼が降りた汽車の駅舎は当時のまま残っており、初のフラグスタッフ訪問時に泊った道路を挟んだ駅の向かいのホテルも健在である。LtE参照)

 Lowellは生来堪え性が無く、時間も切迫していた。Douglassはフラグスタッフの町の西にあるテーブル状台地の上の“森の中の木の疎らな空き地”(候補地11)で良好な気流の観察結果を得たが、まあ他のチェックポイントのそこここより少々マシかという程度の差だった; Douglassはさらにテストを続けたかったが、Lowellの辛抱の無さは限度を超え、彼の有名な“えいやっの見切り発車”の生涯の数々のエピソードの一つが現出し、結局416日にLowellはフラグスタッフにしようじゃないかと決断を下した。(もしDouglassがアリゾナ州北部から出発してツーソンに向かって南行していたなら、Lowellの堪え性の無さの鬱積はおそらくフラグスタッフでなくてツーソンを選定したに違いなく、天文学の歴史も少々違っていたかもしれない。)

当然ながらDouglassのテストは“その場限り”の類であった; 統計学的な有用性の評価基準を満たすような代物ではなかった。ひと場所で数日間シーイングをチェックするだけで、年間の他の時期のシーイングがどんな具合かは全く分からない。もしDouglassが晩春のフラグスタッフに滞在したならば疾風強風の類に遭遇しただろうし、7月や8月では典型的な季節風シーズンとなる。冬期はしばしば厳寒で豪雪に見舞われる。それやこれやがあっても、Lowellがどこか他の場所に天文台を建てていてくれたらと恨むのは筋違いであろう。フラグスタッフは地質学的、植物学的に夢の楽園である; その地の噴火丘やペインティド砂漠の多色の岩層の景観はLowellの夢想を揺さぶり続け、望遠鏡の視野に浮かぶサーモンピンクと青緑の色見本のような遥か彼方の火星像に、彼は滅び行く砂漠の世界を魔法の如く脳裏に焙り出しては重ねたことであろう。そして長い年月が経ち、アポロ宇宙飛行士たちがメテオクレーターを擁するアリゾナ砂漠で積んだ1960年代の過酷な訓練は、月世界到達を可能にするための重要な通過儀礼となった。フラグスタッフで時を過ごすことは、かような意識から、幾つもの異世界への門となる地で時を過ごすことに他ならない。

 

  ところで、その後かの6Lowell屈折機には何が起こったのだろう? 長い期間この6吋は24吋クラークにその鏡筒が同架されていた12吋屈折赤道儀(おそらくLowellPickeringを通じてハーヴァード大学天文台から借りていた望遠鏡)に同架されており、ガイド望遠鏡の役目を果たしていた。これがすなわち、筆者が1982年にこの大望遠鏡で最初に観測を経験した時の姿である。多分いまから10年前にこの6吋は同架からはずされてビジターセンターに設置されて展示に供された。オリジナルの架台は手入れがなされておらず、スライファー棟の屋根裏部屋のごた混ぜのがらくたの中から発見されて改装磨き直しされたが、組み上がった望遠鏡は依然としてかなりガタつく状態である。今年の5月下旬の金環日蝕の折には、ローヱル天文台の教育普及部長のKevin Schindlerがその観測にこの6吋屈折を使用し、これを先例としてこの望遠鏡の活用寿命を再開延長するために、翌月の金星凌日に際してこのクラーク6吋は再び動員されて、マーズヒルの“第Ⅱ豪邸”すなわち独立管財人Bill Putnamの邸宅の前に設置された。

  筆者はニースのコートダジュール天文台からマーズヒルに輸送されたコロナグラフで太陽面上の金星を縁取る後光を観察しようというアイデアに夢中になっていたのだが、実際のところ、美しく輝く真鍮の鏡筒と渋く堅固なオーク材の三脚のLowellの古い6吋屈折機が、金星凌日の観測のために居並ぶ望遠鏡の中で群を抜いて華麗で最も記憶に留まる機械であり、魅了されて並ぶ好奇心旺盛な群衆の長蛇の列の途切れることはなかった。筆者自身はこの屈折で金星の黒い円盤像をちらっと数回覗いたのだが、太陽面を横切っていく漆黒の円盤は細い光の輪に囲まれているように見え、同時にこの6吋クラーク屈折望遠鏡が120年の存在期間で初めて、いま太陽を背にシルエットで浮かぶ金星の観測に使われているのだという事実が脳裏をよぎった。1874年及び1882年の金星凌日が起こったのはLowellがこの望遠鏡を入手する以前であり、2004年の凌日は条件的にフラグスタッフからは全く、もしくは殆ど絶望的に見えなかった。

  Percivalの古い屈折望遠鏡はこのように金星凌日を見るために長い年月待ったわけであるが、更に次のチャンスをといえば105年と半年後まで待たなければならない。