村山定男先生の訃報

 

近内令一


 

我々の敬愛する村山定男先生が、数年間にわたる前立腺癌との闘病の後、この813日午後零時3分に入院先の慈恵会医科大学付属病院で亡くなられたことを深い悲しみとともにお伝えいたします。

 村山定男先生は火星大接近の年、1924年の49日に東京で生を受けられました。世界的に高名な寄生虫学者宮入慶之助博士 (1865-1946日本住血吸虫の中間宿主ミヤイリガイの発見者) の孫に当たられます。

 

                                 200954日 ご自宅にて (85) 

 村山先生は東京帝国大学理学部に入学され化学を学ばれました。それに先立つ第二次世界大戦最中の1939年に15歳のお年で、自作の7p口径の反射経緯台望遠鏡で、生涯続くこ とになる火星の眼視観測を開始されました。イギリスの大観測者T.E.R.フィッリプス師の筆致をお手本にされたという村山先生の火星スケッチは枯淡の趣の自然な調子で正確この上なく、しかも多年を通してでき得る限り等質なスケッチを取り続けることを目標に掲げておられました。したがって先生の残された正確かつ等質な火星スケッチのシリーズは、火星のアルベドー模様の経年的変化を研究する上で、現代においても第一級の資料であり続けることに間違いありません。

 


 

 先生はまた、我が国での銀塩火星写真術の開拓者でもありました。195245日に国立科学博物館屋上の有名なNikon 20cm F/18 セミアポクロマット屈折機を用いてKodak XX フィルムで撮影された火星写真は本邦初といってよい秀逸な写りで、雄大な湾曲のトトネペンテスが見て取れます。1956820日には同じ望遠鏡を使用して撮られたTri X写真上に、ノアキス大砂嵐の発生を見事にキャッチされました。村山先生のご活動のいくつか、火星のスケッチ、写真、そしてご本人のポートレートの数葉は、2009年のParis/Meudon IWCMO Conferenceでの南 政次氏の口演録“A History of the Mars Observations in Japan”でかなり詳しく紹介されています:

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn5/2009Paris_Meudon_Talks_Mn1.htm

 

 村山定男先生は、国立科学博物館理化学研究部長、天文博物館五藤プラネタリウム館長を歴任され、また東亜天文学会木星・土星課長、東亜天文学会会長も務められました。

 先生はさらに偉大な天文普及家でもあり、TV出演回数は限りなく多く、また多数の天文学入門書、天文随筆を著されました。天文思春期に直接的、間接的に影響を受けた方の数は想像もつきません。

 会う人誰にも等質に (ご自身の惑星スケッチ同様!) 優しく親身に接しておられ、桁違いの頭脳 (高校時代に摂動の近似計算を暗算でやっておられたとか…)、そしてご専門の分野に限らず、古今東西の文芸にも明るく、また同時通訳されるほど流暢なドイツ語、英語、フランス語。ヒーロー、カリズマなんと表現したらよいか、大人数の仲間でたとえば居酒屋で皆でそれぞれ勝手な話をわいわいガヤガヤやっていても、村山先生がそこに居られてニコニコお酒を呑んでらっしゃるだけで訳もなくやたら楽しい、そのような強烈な求心力を持った太陽のようなお方でした。

 

国立科学博物館入口にてAudouin DOLLFUS氏と共に (19685)

                                                 

 しかし、筆者がもっともよく思い出す情景は二種類。一つは村山サロンすなわち博物館の先生のお部屋にご友人や私淑弟子たちが群がって色々あれこれ議論している状態、の奥のデスクで20p径くらいの鏡面を手磨きで研磨しておられる村山先生。木辺成磨先生仕込みの確かなリズムの研磨ストロークは滑らかで、如来像のような半眼でこれ以上リラックスできないという穏やかなお顔でピッチ盤上の往復回転研磨運動を続けておられ、本当に望遠鏡と天文がお好きなんだ、という放射を感じたことでした。

もう一つは1971年の大接近の折に博物館屋上の20p屈折で火星を一緒にスケッチさせていただいたこと。村山先生はこれ以上真剣な顔はできないという集中し切った表情で直覗きで5分〜10分間火星像を注視しておられました。そして矢庭にアイピースから目を離し、鉛筆をバターナイフのように軽くグリップして、下絵を付けるでもなく全体の様子を描き始め、凄いスピードで5分間ほどでスケッチをほぼ完成させます。そしてもう一度火星像を短時間眺め、擦筆を使わずに指先でちょいちょいとボカして、さらに再度火星を見て「よし、できた。そっくりじゃ」とつぶやかれて完了でした。筆者には真似のできないやり方ですが、今になると村山先生がなにをされていたのか神経生理学的によく理解できます。村山先生の眼/大脳システムは火星を5分〜10分間注視している間に30fpsで火星像をスキャンしながら撮像し、同時に中枢系でスタッキング、そして低次〜高次の画像処理演算を進めていたのでしょう。それで脳内スクリーンに完成画像ができて、村山先生の“Photographic Memory”でしっかり記憶されます。そして望遠鏡から離れて、脳内スクリーンの画像を見ながら一気にスケッチを描き上げる。さらに望遠鏡の火星像をチェックして必要があれば微調整をしてスケッチを仕上げる。そのような手順でスケッチを取っておられたのだと想像しております。

村山定男先生は天界に去られましたが、先生の影響を受けた方々は決して先生の事を忘れないでしょう。また、先生の残された多数の惑星スケッチを始めとする貴重な資料が適切な方法で保管維持されることを願います。

 

 心よりご冥福をお祈り申しあげます。

 


日本語版ファサードに戻る / 『火星通信』シリーズ3の頁に戻る