巻頭論攷

2003年超大接近:10年経って

個人的記録ノートから

ウィリアムシーハン

近内令一譯

CMO/ISMO #414 (25 September 2013)


English



2003年の超大接近から十年が経った。2003828日に火星は近日点接近を迎えた。近日点接近すなわち大接近は15年ないしは17年毎に繰り返され、熱烈な火星観測者の存命期間を容赦なく節目で区切る重大イヴェントであり、2003年もその一つであった。しかしこの衝はまた並外れて有利な接近の到来でもあり、すなわち有史以来どころか、ネアンデルタール人が新人類に取って代わられた後期旧石器時代の少し前以来のどの大接近よりも2003年の最接近は僅差で地球に近かったのである。

南さんからCMO/ISMOに何か書かないかと誘われていて、ちょうど2003年に付けたノートを読み返していて、いくつかの節を抜粋してみようと思い立った。かの偉大なりし大接近の主旋律と興奮とを幾ばくかたりとも呼び起こし、読者の慰み種となり得ればと欲する次第である。

私が何時までも思い出すであろうあの得難いリック天文台36吋屈折機を使い放題の二週間。ハミルトン山 (=リック天文台) の天文学者Tony MISCHRem STONE、そして天賦の才能に恵まれた芸術家にして写真家のLaurie HATCHたちと共同で、かの年季の入った偉大な屈折望遠鏡を使って火星の眼視スケッチ観測を連夜続けた顛末は“Two weeks on Mars”のサイトに収録されている:

http://mthamilton.ucolick.org/public/TwoWeeksOnMars/.

 

 滞在宿泊していた120吋シェーン望遠鏡のドームの地下の密閉保養部屋でノートを付けるに当たって筆者は色々な考えや印象を捕捉し、拾い集めた。従って以下のノート抜粋には、当時の場面の背後に渦巻いていた様々な想念や専心没頭事項が反映されている。

 

2003828

昨日ワシントン州グラニットフォールズ市に出向き (仕事で)、続いて市内まで車で移動してミネアポリスプラネタリウム協会で火星について講演した。現在カリフォルニア州サンノゼ市へ向かう機上。“火星の眼”(ソリスラクス) が今夜見える予定であり、ハミルトン山上のHAD-CAMは昨晩、通常良シーイングの前兆となる馬尾状の巻雲を映し出していた。7月初旬に火星面を脅かしたダストは収まったようだが、惑星全面にまだ薄いダストのヴェールが被っているようで、アルベドー模様のコントラストは低い。何人かが予想したような全球的なダストストームは今のところ起こっていない。さあ、これからのゴールデンタイムが楽しみだ…インタビューの嵐、山のような仕事、そして来りくる旅行への準備、火星との関わり、また狂乱の群衆から遠く離れた“魔窟”に巣食う天文学者たちとの付き合い…

 

機上でBruce M. RossRemembering the Personal Pastを読んでいる:“誰もが自認すべきは、ある時点の、特定の出来事 (過去の経験) の記憶はそれぞれの個人的記憶の起源かつ主体であり、それは生涯に渡って絶えず見直され順応させられ修正され続けていく。記憶ないしは記憶に基づくそれぞれの回想録は―“下絵”の連続シリーズのうちの一枚であり、言ってみれば“工事中”である。

“個人的記憶に関わる歴史学者と精神分析医はともに、事実の実証という点で深刻な困難に直面する。歴史学者は、長期に渡る過去の人々の記憶の中に必ず残っているであろう‘本当にあった出来事の写像’との関連を丹念に研究する方法で歴史上の誤謬を暴いてきた。”〔ある出来事の当時のノートを読み返すと、何が本当に起きていたのか思い出すのに非常に役立つ所以である。〕

午後515分サンノゼに到着した。騒がしい不快な野郎どもが座席でまた座席間通路に立って、ときには私の真後ろで大騒ぎしていて迷惑した他は快適なフライトだった。

  Tony Mischが空港で拾ってくれて、豪勢な夕刻を過ごした (Rem Stoneも合流した)。何か所もの山火事が東から南西方向にかけての山麓で燃え上がって夜空を焦がしていた。サンタクララ-シリコンバレーは雲が低く垂れ込めているサンノゼ市上空のスモッグかしかしここハミルトン山上は快晴の青空で、そよとの風もない。私の泊る部屋はシェーン望遠鏡の真下にある。満足この上ない居所静寂かつ平穏な禁欲的僧房;深い瞑想に浸るのに最適。

  我善くぞここに居れり、完璧な場所、完璧な天気、伝説の観測者たち (E.E.バーナードのような) の亡霊に憑りつかれ、そして誰もが、この山上のプロの天文学者たちさえ可能ならば実行するであろう行為自分自身の眼でかの大望遠鏡を通してあの赤い惑星、火星を観る得難い試み!

  Tony Mischは芸術家として専門的教育を受けている。才能に恵まれ、火星もスケッチしてきた。今回彼は何回かオリュムプス山を白斑として捉えている。彼がまた所見を述べたところではスキアパレッリの1877年の言葉を思い出させるが火星の北半球には雲があるに違いない;細かい模様が全然見えない、と。もちろん私にその説明は可能だ。複数回のダストストームが薄いダストの沈降カヴァーを残したので、アルベドー模様の顕著さの度合いを減じたのだ。また他方重要なことだが人間の眼の特性として、濃淡の階調を見分ける鋭敏さは暗色調の領域でより高く、明色調の部分では低い。これでなぜ、火星面の暗色部が微妙な斑点群の豹柄模様に分解して見え、一方明色領域はノッペラボウのままなのかを説明するのに役立つだろう。

  気を静めようとしばらく試みる;が無駄だった。期待のムードは限界を超えていた。陽が落ち、山火事が遠く東の空で燃えていたその炎のオレンジ色の輝きの上に火星が昇り、まるで“宇宙戦争”から飛び出してきたかのようだった。西空には細い三日月。そして地平高度5度には金星外合過ぎの明星の出現を初めて目にした。

 

 〖後刻〗シェーンドーム下の部屋に午前345分に戻る。

  火星はなんと壮麗な世界だろう!

  夜空で今や木星よりも明るく、ドームのシャッターから覗き見える黄金色の豪華な光輝はまさに“天空の至高の王者”(ウォルトホイットマンが1877年にそう呼んだように)

  ソリスラクスが“展示中”だった。マリナ峡谷はコプラテス“運河”として見えていて、そのあたり一帯が複雑なビーズ織り細工のような構造に分解して見えた。なぜ1892年にペルーで観測していたW.H.ピッカリングが四十もの湖を眺めていると想像できたのか、今やよく理解できる。眺めれば眺めるほどに火星がどんな類の世界なのかが実感できてくる。風に吹き曝され、条痕や斑点だらけだが人工的ではない。(火星面を実際に条取り、点線を刻む複雑なディテールに、“運河とオアシス”の仮装の根拠はこれか、と納得できる。

  何時間も続く安定したシーイングはこの山上にしても例外的なことであった。1890年代にこの大屈折望遠鏡がまだ新しかった頃にバーナードが得た如何なる像よりもさらに良い火星の眺めを我々は楽しんだ (対物レンズは数年前にサンタクルスの光学ショップで再整形された。特記すべき要項としてクラウンガラスのエレメントとフリントガラスのそれが倒置されたことが挙げられる。再整形前は海からの潮風でレンズにはひび割れ状の焼けが生じて質が劣化していたが、今や光学的に完璧に甦った―1880年代にオルヴァンクラークが施した光学的整形よりもはるかに良好であろう)

  大気は例外的に落ち着いていたこれは山火事の成せる業ではなかったかと想像した;大気中に薄い灰塵の層を注入して安定させるこれはさらに連想を呼ぶ―1889年にE.E.バーナードが金星の最良の像の眺めを得た時がまさしくそのような条件、すなわち当時のハミルトン山周囲で山火事が燃え盛っていたではないか。彼はその折の様子をノートに特記している。

 

829日。火星のスケッチについて思うところが少々。John RuskinElements of Drawingを読んでおり、以下の部分は的を射ている:

“ほとんど総てのフォルムの表現は、絵画において、描き手のグラデーションのデリケートな表現力に懸かっている;そして最も巧みなグラデーション表現では常に、ある色合いの濃淡からほんのわずかに淡い色合いに極めて自然に移行している…グラデーションの認識能力は総ての初心者においてひどく欠落しており (言うまでもなく、多くの芸術家においても然り)、そしてほとんど誰もがおそらく、非常にしばしば、自分の作品の現物が階調的に継ぎはぎだらけの不完全なものであるにもかかわらず、自分のグラデーション表現能力は十分優れていると誤解しているに違いない…

 “観察眼が鋭くなれば、万物総てにグラデーションが見えるだろう。”

 

 午後10時。風は東から強さを増し、今日の午後から晩にかけて灰が山を吹きぬけていた。これでは灰が幾分かでも対物レンズに降りかかる破目になる恐れがあるので、ドームを全く開けられないことを意味する。(飛んできた燃えさしがこの山に降りかかって火事を起こすのではないかという懸念がRem Stoneの心に重くのし掛かっているのがよく判った。)

  悲しや観測はできないが、無駄にベッドに引き下がるよりはとりわけこのところ夜行性のスケジュールへの順応を試みていたのでKai Bird著のThe Color of Truth、すなわちBundy兄弟 (McGeorge及びBill Bundy) の伝記を読み始めた。彼らはパーシヴァルローヱルの姪孫に当たる;彼らの祖母Katherineはパーシヴァルの姉妹の一人であった。個性と知的スタイルにおいてパーシヴァルとMac Bundyの間には多くの類似点が見つかる。

  Kai Birdからの次の一節は興味深い【ed.ノート:20038月は合衆国のイラクへの侵攻が始まって数か月であり、そこで進行していた事態は誰の心にもまだ非常に重くのし掛かっていた。火星の好適な衝の年が戦争の年でもあったことをもはや誰も思い出さない】:

  “Bundy英雄譚は《アメリカの世紀》の紋章象徴的物語である。このボストンブラフマン一族のBundy家は聡明で才能に恵まれた息子たちに教育施設を含めたアメリカの機関に対するありとあらゆる特権と機会を惜しみなく授けた…。二人ともグロートン予備校を経てエール大学で学び、二人とも並外れて聡明な青年だった…McGeorge―28歳の年で―Henry Stimsonの伝記On Active Service in Peace and War1948年に著し、時代はまさに冷戦が展開し始めたところで、この本は支配体制側の世界観のバイブルとなった…

  “1949年、すでにばりばりの若い外交政策の知性派として身を立てていたMcGeorge Bundyはハーヴァード大学で政治と世界情勢についての講義を始めた…。そして34歳の若さでハーヴァード大学の教養学部長に任命された。

  “ジョン F. ケネディがホワイトハウスに入った1961年、アーサーシュレジンジャーJr. が呼ぶところの‘生命中枢’に対する政治的衝動を表明していた若手の政治知性派たちは、いつの間にか自分たちが政治家に丸め込まれていることに気付いた。ヘンリーキッシンジャーが皮肉たっぷりの褒め殺し過小表現で語ったところの“顧問の立場から実動責務へと移行した史上初の教授たち”である。

  “反共リベラルとしてとりわけスティムソン国際主義にどっぷりつかっていることから―Bundy兄弟は、軍事的脅威を伴う冷戦危機に次々と直面すべく否応なしに駆り立てられた…。リンドンジョンソンの拡大したベトナム戦争の立案者であったBundy兄弟や他の政治的メンバーたちは、ベトナムの国家主義者たちや反植民地主義的革命に対して内政干渉の較正が可能であり、然して共産主義主導の国家的解放運動にはアメリカは断固として対峙するという姿勢を他国に見せつけることができる、と考えていた…。結局のところ、第二次大戦後のアメリカの外交政策の多くは、1930年代初頭のスティムソン主義まで遡って辿ることができる:アメリカは国際紛争に対して単独国家主義的に内政干渉することによって世界に平和を課することができるし、そうすべきである。”

 

  〚私はこれを一面時事問題として読んでいるイラク内戦は依然として明らかには決定的には大惨事参んじに至っていないが誰の頭の中にもこびり付いており、同様に“大本営発表”に誘導されて、アメリカ主導の軍事侵攻での“大量破壊兵器”の投入の理論的根拠が頭の中に絵となって貼り付き始めている。これといくらかの類似性が感じられるのは、火星を巻き込んだ“中央機関報道”が文字通り“点を結んで運河と成す”に至らせたエピソードであり、これは私のハーヴァード大学での“衝の夜”の口演のために原稿に書き、後にCMOに収録された。しかしまた私が探求しているのは彼の姪孫たちを通じてパーシヴァルローヱルの個性と、それが彼が火星を心に描くのにどのような役割を演じたか、である。Kai Birdが著書The Color of Truth36頁に引用したMacBill Bundy兄弟の姉妹のHattieの以下の発現は熟慮に値する:〛

  “母〔Elizabeth Lawrence (Putnam)、パーシヴァルの姪〕…はとても短気で、議論では強情で、判断は迅速でした。

  “母の正義感はとても強く、Macもそうでした。母はいつも、正しい事と間違った事とは明確に異なるという信念をを私たちに熱心に説きました…。彼女にとって物事は白か黒かでした。これは清教徒以来の直伝の性格/見解で、我が一族は皆同様でした。”

  またさらに〚50頁〛:“Macは兄弟の中で常により切れ味鋭い機知を飛ばし、併せて、しばしば人の神経を逆撫でするローヱル血筋の果断さと、鼻持ちならないPutnam一族の自信過剰さを持ち合わせていました。”

 

  Mac Bundyのキューバミサイル危機での役割について。Roswell GilpatricBundyの行動にいらいらさせられていた。“思うに、彼は最初に行き当たりばったりに軍事攻撃も辞さないと示威する着想に飛び付き、その後からそれを支える論拠を練り上げた。彼にはいきなり独断的な最終仮説に到達する傾向があった…彼は不明解さ、曖昧さ、不確かさに極めて不寛容であった。”

  Mac Bundyはトンキン湾事件の後、“椅子に掛けて軍事情報の報告を聞きながらノートに顕微鏡的な書体でひま潰しの落書きをしていた。彼はいつものモチーフ、すなわち黒インクでしっかりと書いた長方形の連続でノートの一頁を満たした。この落書きは数学的気質の顕れであり、幾何学的なパッチ模様でできたデリケートな描写像を形作っていた。”

 

  注目すべきはパーシヴァルローヱルも幾分か同様の気質的特性を持っていたようで、すなわち“人の神経をしばしば逆撫でするようなローヱル家特有の性急な決断性”“鼻持ちならず耳障りな自信過剰”等。以下のようにも言えよう:“彼は最初に火星の生命の着想に飛び付き、その後からそれを支える論拠を練り上げた。彼にはいきなり独断的な最終仮説に到達する傾向があった…彼は不明解さ、曖昧さ、不確かさに極めて不寛容であった。”そして彼の場合、数学的気質の顕れの落書きは火星のスケッチであり、“幾何学的なパッチ模様でできたデリケートな描写像を形作っていた。”

 

831日。午前520分。もういい加減7時間あまりも接眼部に陣取っているそして火星は期待を裏切らなかった!模様のディテールの余りの豊富さに呆れかえり、しかも望遠鏡は私の独占状態だった (Remは夜間しばらく一緒にいたが、俺にも火星を見せろとさしては要求しなかった)。スケッチを完成させようと頑張り二晩で望遠鏡サイドで計8葉の全面スケッチを仕上げた。マリナ峡谷は凄い眺めでディテールたっぷり!しかし宇宙探査機時代には誰もその実態を想像し得なかっただろう。このあたりは線条と斑点が入り乱れとりわけ、前にも述べたように、斑点だらけである。

  マレエリュトゥラエウムは夥しい暗部、明部に分解しソリスラクスとタウマシアフェリクスは複雑極まりなく、芸術家の筆を持ってしても骨の折れるスケッチ習作となろう。

  とりわけ目を楽しませてくれたのは、シェーンドーム (私の寝場所) に引き上げてくるとき、夜空からギラギラと光輝を落とす火星の裸眼での眺め。筆舌に尽くしがたい壮麗さであった。

  *** 少々考えたのだが、私の禁欲的な寝室に戻る途中、それぞれ異なる観測者の火星の描き方はどのように違うのだろう?違いの幾つかは認識の違いに関連するものだろうそして色々な個々の観測者の“写像主義的”思考の能力に関わっているのだろう。“イメージは精神の工学的特性として重要である…記憶助成として、また演算装置として。心象形成は、視覚的に媒介された作業をこなす機能的能力であり、内面的かつ非言語的な描写を必要とする。振り返ってみると、火星の優秀な観測者には、ウィリアムジェームズのようなイメージ稀薄な記憶力よりもむしろ、超写像主義的記憶力 (エドワードティチェナーのような) の持ち主が多かったように思える。

  ローヱルには物事を黒か白かにはっきり区別して見る傾向がありこれは多分清教徒風の性質であり、Hattieが彼女の母すなわちパーシヴァルの姪について述べた通りでありそして明度の異なる領域間の境界を強く鋭い線で描く傾向があった。Ruskinがこれについて素晴らしい議論を展開しているのは、彼の学生たちがデッサン用の球を写生する実習に関して論じている件である:

  “もし学生が卵のような楕円体に見えるように球を描いたならば、球から外れているエラーの度合いを指摘するだけであり、次回はもっと巧く描くだろう…。しかし彼の意識は常に明暗のグラデーションに集中している…。私のクラスではどの生徒も決して外形線を書くことは常識として許されていない。彼らには初っぱなから叩き込むんだ;自然はある明度の光の塊、あるいはある色合いの領域を、別な光塊、色調領域に隣接させて互いを際立たせている。外形線は自然界に存在しない、と。”

  ローヱルがRuskinのクラスに入れば落第だろう!…




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