巻頭論攷

惑星三題噺

 火星1914年、ローヱル白昼金星観測、メッリシュ再び

ウイリアム・シーハン

近内令一譯

CMO/ISMO #419 (25 February 2014)


English



1914年:平和が終焉した年

 

 19148月の第一次世界大戦勃発から今年は百周年に当たり、多くの地域で紀念追悼行事の開催が予定されている。たとえば、英国の友人が最近書いてきたところでは『英国政府は5千万ポンド以上を、向こう四年間余りに渡って、第一次大戦関連の紀念、教育事業の援助のために投入することを決定した。これは極めて異常な事態であり、正直少々当惑させられる。フランス政府はフランス全土に渡る行事を計画しており、総ての地方自治体で独自の記念式典が実施される。ドイツでは動きが非常に鈍い。彼らの文化では明らかに第一次世界大戦は無視されてきており、例外はヴェルサイユ条約と国家社会主義への道程の大元であったという意識だけである。しかし今や彼らは色々な関連行事に招かれるようになり、また世論の盛り上がりもあって、ドイツ政府はある顔役の著名人を抜擢任命して適当な紀念行事を推奨させる役に当たらせるようだ』とのことである。合衆国においては少なくともこれまでのところ、興味は薄かった:なにしろ我々はこのところ、追悼、慰霊に“皆で心を留めさせざるを得ない”状況だったから。我々は南北戦争150周年をちょうど終えようとするところであり、たとえば当時のニューヨークタイムズ紙の毎日のレポートの再録や、ケネディ暗殺の資料の嵐のような連日の仮想実況に浸っていたわけである。合衆国の百万人の動員は同盟国の中でも際立って過酷な徴兵実施状況であり、第一次大戦を終結させた1918年のマース‧アルゴンヌの戦闘への米軍の介入は必須であったとはいえ、米軍は進攻を最終局面まで遅らせ、結果として米軍はほとんど痛手を受けなかったことが明らかであった;戦争の骨折りの後に続いたのはヨーロッパの事情についてのほぼ完全な興味の喪失であり、その典型例は、凋落しつつあったウィルソン大統領が自ら提唱、実現させた国際連盟への米国の加盟が上院議会の承認を得られずに失敗に終わり、1920年代の孤立主義へとつながった事実であろう。日本では第一次世界大戦百周年に関連するイヴェントが何か企画されているだろうか?

 

  大戦100周年はまた、火星に関連した100周年の事柄も幾つか想起させる。たとえば、我々は既に (このエッセイ執筆の時点で) 191415日の火星の衝の100周年を過ぎたところであり、当時かの惑星の視直径は15.1秒角であった。ところでこれはパーシヴァル‧ローヱルが生涯に観測した最後から二番目の火星の衝であり、彼は1913年暮れの“心身衰弱”から回復したばかりであった。この時の病状は後に彼を寝たきりにさせた発作よりは遥かに軽く、短期の病欠であった。彼の身体の自由を奪った重い発作はメキシコから戻った後に起こったもので、先立つ心身衰弱と同様、疑いもなく過労と精神的落胆が引き金となったのだろう。1914年のローヱルの真似の仕様もない筆致のスケッチをここに掲げる。

 

  1914年にはまたパーシヴァル‧ローヱルの自信たっぷりに装った接眼鏡傍らの肖像写真が残されていて、彼はソフトキャップを後ろにずらして禿頭部を隠して被り、三つ揃いのスーツに身を包み、ピカピカのスェード靴を履いて、24吋クラーク屈折機で火星ではなく、こうこうとした真昼間の金星を観測している。何度となく火星の熱愛者がこの有名なポーズでローヱルを気取って彼の観測椅子に座った;名高い火星観測者であったChick CAPEN (アマチュアの導師であった) もその一人であった。そして恥ずかしながら吾輩も。


         

 

ローヱル白昼金星観測

 

  ローヱルが白昼金星を観測している有名な写真の正確な日付が確定したのはつい最近の事である。ローヱル天文台の写真アルバムには19148月と日付が記されているが、その頃ローヱルはフラグスタッフに居らず、当の写真の撮影者Philip FOXはそれ以前はヤーキス天文台の天文学者であったが、1914年当時はシカゴ近郊のノースウェスタン大学の教授となっていた。ローヱルはほんの短期間であったが10月中旬にフラグスタッフに滞在し、偶然にもグランドキャニオン訪問後に立ち寄ったFOXと一緒になった。私が去年の春にローヱル天文台の記録保管所に現存する資料に念入りに目を通した中にはC.O.LAMPLANDの日記も含まれ、他の記録と合わせて確定したところでは、FOXとローヱルは19141017日その日にだけ相まみえる機会があり、当日宵の明星は視直径36.9秒角、位相 (輝面率) 30.3%……白昼の観察に絶好で、件の写真に示されるクラーク屈折機の向いている方向で南中を迎えたことであろう。従ってこの観測中の肖像写真では、かつて私が信じていたような単なるやらせポーズではなくて、パーシヴァルは実際にかの最輝の惑星を観測していたに違いない。伊達者の彼は明らかに、観測中といえども普段着を善しとしなかったのだろう。

 

  ついでながら、件のアイピースサイドのローヱルの肖像写真の日付けのみならず、FOXがカメラのシャッターを押した殆ど正確な時刻を推定することは可能であろう(ドナルド‧オルソン流の方法で:譯者註1…但し、現在のところこれは無理で、何故ならばクラーク屈折機はいにしえのメキシコ出張から戻って以来初めてマーズヒルのドーム内からはずされてオーバーホールを受けている最中なので、ローヱル天文台のメカニカル担当者Ralph NYEのショップから戻ってくるまで待たなければならない。191611月の創設者の没後100周年の式典の前に十分時間的な余裕を持ってこの主砲が元の場所に納まることは間違いないだろう。


 

  超俗的な情熱を追求したこの人物のやんごとなき肖像写真をFOXが撮影したその時点でヨーロッパでどんな状況が続いていたかを考えると、酔いも吹っ飛ぶ思いがする。マルヌの会戦はわずか一月前のことであり、独仏両軍の戦闘部隊はまずエーヌ川の北岸で膠着状態となり、それぞれ塹壕を掘って身を隠すこととなった。ドイツの参謀総長モルトケ将軍はシュリーフェンプラン遂行の廉で告発されて既に更迭され、ファルケンハインが後任に付いており、そして1010…ドイツ軍が連合軍の裏をかく突進で“海への競走”として知られた作戦を遂行した結果、ローヱルが白昼金星を観測したちょうど一週間後のその日に…アントワープは陥落した。ローヱルが金星を観るためにクラーク屈折機の対物レンズの防塵蓋を旋回して外したまさしくその瞬間、ドイツ軍はベルギーのイープルに向かって敵の裏を突くべく進攻しており、またその間にドイツ軍を出し抜こうとエーヌ川から前進北上してきたイギリス軍も到着しつつあった。両陣営が全く偶然にイープルで鉢合わせしたのはマーズヒルで金星観測中の肖像写真が撮られたのと同じ週のことであり、かくして第一次イープル会戦として知られる戦闘が始まった。両陣営が相互に痛手を与え合う局面が何週間も続き、イギリスの戦争歴史学者A.J.P TAYLORが記したように“要塞化された狭い前線に連日次から次へと兵員が送り込まれてきた”;大量殺戮が繰り返されたにもかかわらず戦況は動かなくて決着にいたらず、戦争の神は渇きをいやすことができなかった。英国海外派遣軍はイープルにおいて、それ以前の軍事作戦での総計を上回る甚大な人員損耗をこうむった。英国常備陸軍は粉砕され、新たに補充される徴用大衆兵軍のための形骸を残すのみとなった。

 

 

 

 メッリシュ再び

 

  もちろん一年後も戦火は荒れ狂っており、その春、第二次イーペル会戦として知られることになった戦闘においてドイツ軍は史上初の毒ガス兵器として塩素ガスを放出し、この前例に倣ってイギリス軍もフランスのルースで毒ガス弾を使用した。毒ガスの使用は1899年に制定されたハーグ陸戦条約違反であった。191511月、この月にベルリンのアインスタインは一般相対性理論の研究を完成させ、それまで謎だった水星の過剰な近日点移動についてのニュートン力学による予測説明にいささかの修正を加えることに成功し、この同じ月にヤーキス天文台のE. メッリシュが実施した火星の観測については、このCMO/ISMOの拙エッセイで以前に議論した (譯者註2)

 

  火星がまだ地球から遠いうちから彼は、自分の好奇心を満足させるためにヤーキス天文台の12吋屈折望遠鏡を使って頻繁に火星を観測していた。そして19151113日の早朝 (後にメッリシュの要請により同天文台のDaniel HARRISが日付けを確認計算した)に彼はかの40吋クラーク屈折機を利用することができた。その11月にはウィスコンシン州南部は異常に穏やかな“Indian Summer (小春日和に恵まれ、天気予報の記録では月の前半には平年よりも数度高い気温が続いたことが示されている。1113日のかの地の日の出は6:42 a.m.であった-清々しい晴天の朝で、気温は氷点あたりで安定しており (露点よりは遥かに高かったが)、そよとの風もなかった-そしてメッリシュが追跡した火星はわずか7.7秒角の小さな像径で (日の出時の中央経度は61W)、朝の青空の中60度あまりの地平高度に懸かっていた。 750倍及び1100倍の倍率を採用して彼が記録したところでは、“〚火星〛は平坦ではなく、多数のクレーターや裂溝がある。私は40吋屈折機でたくさんのクレーターや山を見て、自分の眼がとても信じられなかった。これは日が昇った後の事で、火星は美事な青空に高く懸かり、私は750倍の倍率を用いた。”

 

  私は先入観や偏見を持たないように努めてきたつもりだが、個人的にはいつも、メッリシュはクレーターや裂溝の幻影を見たのだという見解に心が傾いていた。遠く地球を離れた小さく冷たい火星の像は彼に魔法をかけ、誤りに導いたのだ。恐らく彼が見たディテールの一部は雲や霜から成っていたものであり、彼が火星は平坦でないと確信したとき、Hermann von HELMHOLTZが言うところの“irradiation illusion 光滲錯視”によって、雲や他の明るい部分が、彼にはリム上に突出して見えたに違いない。メッリシュがクレーターや裂溝を報告したときと同様の条件下の火星のデジタル撮像、たとえばイギリスのDamian PEACHやベルギーのLeo AERTSのような撮像家が地上から、まだメッリシュが観測したときと同じくらい小さな火星を撮った画像には、彼が40吋屈折機を使ってなんとか捉えられたであろう詳細を遥かに上回るディテールが示されており、彼の眼に当時火星がどのように映っていたかを示唆している (譯者註3)(DPcALtの画像については下の追補参照.) 彼の想像力が残りの部分を補ったのだろう。彼は偶然、クレーターと裂溝を持つ正しい火星の姿を言い当てた。しかしそれらは運河の蜘蛛の巣構造と同様、眼と脳のトリック、幻影錯視に過ぎなかった。

 

追補:これらの火星画像はDamian PEACHLeo AERTSによって今接近期、火星がまだ地球から遠く、角視直径δ46秒角のときに得られている。下記のURLに従ってCMO/ISMOのギャラリーを参照されたし:

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmons/2013/f_image.html

 


 


 

譯者註:

1:サウスウエスト・テキサス州立大学の天体物理学者ドナルド・オルソン教授は、天体が描きこまれている有名な絵画について、コンピューターを駆使してその絵画に描かれる風景の日時を高い精度で推定する、という“推理天文学”なる分野を確立して成果を上げている。ゴッホの『夜の白い家』や『星月夜』の日時同定などが話題になった。

2『火星通信』CMO 日本語版 第383号 (2011年四月10日臨時増刊号) 巻頭エッセイ: ビル・シーハン氏の「火星のクレータ」(   譯)を参照されたし。

3これは明らかにシーハン博士の誤解であろう。PEACH氏やAERTS氏の上掲火星画像は確かに素晴らしく、近年の惑星撮像/画像処理の長足の進歩を如実に示しているが、詳細という観点からは、35cm口径の極限に迫るディテールが良好な階調で高い再現性を以って示されているに過ぎない。1m口径で最良のシーイングならば7.7秒角視直径の火星の遥かに詳細な像が見えていた可能性がある。判官贔屓ではないがメッリシュが可哀想である。

 




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