巻頭論攷

ミナミとアサダとシーハン中部北陸日本道中記 (1)

政次氏、浅田 正氏、ウィリアムシーハン氏於日本;

シーハン氏の旅行録から、200445月記載分より

ウイリアム・シーハン

近内令一譯

CMO/ISMO #427 (25 October 2014)


English



 

 気まぐれに駆られて能登へと赴いた。友人たちには変わった気まぐれに思えたろう….”

まあ実際のところ、知られていないからという理由だけで能登行きを決めようと私の勝手で何だ彼だ言われる筋合いはない! 自分が見たこともない場所をあれこれ初めて見聞するのが面白いのはもちろんだが、他者が草も生えないほど踏み荒らした形跡のない場所を踏破したくて足がムズムズしてたのだ。パーシヴァルローヱル、能登 (1891)

 

428日水曜日。 三國、我らの能登半島を目指した彼方此方回り道旅行の開始だ。(ここでは南夫妻のご厚意によりモダンなホテルに滞在している。)

 三國での見晴らしは素晴らしい突風まがいの強風のためわずかしか滞在できなかったが、ここは南に昔聞いた通り、能登半島を一望できる地点だ。(能登28頁参照)

 加賀。能登及び加賀地方の中心的都市であり、浅田 正はここに生まれ、高校卒業までを過ごした。彼の母はいまもここで暮らしている。

 加賀能登越中地方をつなぐ地点にいま我々はいる。                                            

 越中は古い呼び方で、もはや使われない。現在滞在中の都市、富山市は越中平野の真ん中にあって、封建時代のこの地方の首府であった。ローヱルは能登からここに来て宿屋に泊った。どこの宿屋だったか定かではないが、城の近くであったことは間違いなく、その城は現在修復工事中である。今回は写真を撮るだけの立ち寄りだった。富山城を囲う荘厳な石垣と堀に沿って枝垂れ柳が立ち並び、枝が風にそよぐ様は、さながら悲嘆にすすり泣くたおやかな柳腰の未亡人たちのごとくであった。

 現在の富山市は非常に発展した先進都市であるが、ローヱルの時代には交易でごった返す賑やかな町だった。ローヱルの頃には城の一部は小学校として使われていた。ローヱルが宿で記したところでは、件の宿は近隣の大名たちが旅程の途上で定宿としていたそうで、彼は実質的にも記憶の上でも既に過ぎ去りし封建時代の広大な時間の範囲に思いを馳せていた:封建制の時代は彼が述べるに(能登61頁)、既に緑に苔むした廃墟が立ち並ぶこの平野自体の形成発展の歴史を小中高生が学校で学ぶが、それと同等の長きにわたる話となる!”

 

 ローヱルは昼食を摂ってから意気揚々と人力車で上滝、すなわちUpper Falls(上流の滝)に向けて富山を発った。(能登63頁)。そして、いま我々が車で旅するこの道を、彼は人力車で針ノ木峠越えの試みを開始すべく出発したのだ。ローヱルと異なり、我々は上滝(Kamiichi上市)で昼食を摂ることになる。この道は富山市内で典型的な大通りとして始まり、まあ情緒もへったくれもない。道路はいまでは舗装され、ローヱルの時代のようにいつの間にか道が水田の間に紛れ込んでしまって人力車を降りて徒歩に切り替えなければ、というようなくねくね道ではなくなっている。しかしながら水田はいまでもあって、町の外にそう遠く離れないうちに道路は突然狭くなる――これがローヱルが通ったのと間違いなく同じ道かどうかについては若干怪しいところもある。富山市の出口のあたりに比べると道幅はおよそ1/3に狭まり、まさしくローヱルの時代に既にそうであったように、すっかりさびれてしまった道である。

 上滝の町には森深い丘が迫り、ローヱルはここでいつものように手間取りながら、何人かの担ぎ人足を調達した。我々は上滝のとある神社に寄って写真を撮った。ローヱルは彼が呼ぶところのJinzdūgawa神通川について記述している(63頁)。この川に沿っては鉄道が走っている。川の流れは幾条にも縒れ、折々急流も交ざる;ローヱルの頃にはもうちょい浅かったかもしれないが、人力車で渡ることは(いまでも無理だが)到底不可能だったろう。彼の言うには:我々が訪れた時には多くの場所で岩塊だらけの荒地を通して二条の太い水流と、数条の細い流れが走り、海は何処ぞという風情であった。

 ローヱルは進路を川の左岸に取った。上滝では初め右岸を走る道を我々は辿った――ローヱルが最順路と定めた左岸沿いとは反対側である。が、結局のところ、とある小さな橋を我々は渡ってローヱルのルートに戻った。

 

 我々はAshikuraji芦峅寺に詣でた(AshikuraKura峅という言葉に関連があり、これは神々の降臨地を意味する)。そしてその寺で、立山博物館の主任‧学芸員福江 充氏から、genial Inkyo(優しい隠居)能登66頁及び80頁でローヱルが言及している)が保管していたという宿帳に記されていたローヱルの名を見せてもらった。ここはローヱルが針ノ木峠越えに挑んだ後に休憩を取った場所である(能登、第14章参照)。この宿帳に見える彼の名前は“Bersibaru Lowellベルシバル ローヱルとなっており、日付けは1889513日である。

 我々は彼のガイドの栄二郎(Yeijiro)の身元について少々それらしい手がかりを見つけた。彼は東京の在住で、この寺の一族であり、その伝手でここでの一泊を許された。

 

 

 


 かのgenial Inkyoの名前はわかっている。佐伯姓である(佐伯一族の出ということ)。62歳で、既に引退していたがすこぶる達者で、江戸(東京)の有力者たちに顔が広かった。

 ローヱルは彼に会った機会について記している:もはや世間から離れているにもかかわらず、この爺さんは貪欲なまでに社交的であった。外国人が到着したと聞くや否や彼は急の知らせを飛ばし、その結果私は出立前の早朝に、彼の隠居離れ家を訪問する他はなかった。

 というわけで朝食後、彼の息子が正式に私を迎えに来て、我々は部屋を出掛けて庭を抜けた。彼のご尊父の隠居家は道から川に向かって少し離れたところに建っていたため、この穏やかな老紳士は対岸越しの峰々の景色を見渡せたに違いなく、そのうちのその円錐形の外観から越中富士と呼ばれる峰がことのほか気に入っていた。

 

 


現代の地図には越中富士の名前はもはや存在しない;しかしその円錐形の外観は芦峅寺から容易に眺められ、近隣の立山連峰のなかで唯一冠雪していない峰なので見分けやすい。この寺は幾つかの宿舎(宿坊)からなっていて、日本津々浦々から立山礼賛に集まる(御嶽山や富士山を礼賛するのと同様に)人々を宿泊させていた。芦峅寺宝泉坊はとりわけ有名であった。宝泉坊宗徒の佐伯泰音は、立山信仰に帰依する江戸の徳川幕府中枢の松平家等に強力な影響力を持っていた。宝泉坊は立山地方/信仰を日本全国にプロモートするネットワークであった。またさらに宝泉坊は能登半島を実質支配していた。

 我々の結論するところでは、Yeijiro (Yeiri Ajo)ローヱルの記述から想像されそうなただの従僕ではなく、教養のある、顔の広い人物であった。この強力なコネクションのネットワークを活用できる人間――すなわち、佐伯姓の人物ならばほぼ間違いなくそうだが――の随伴があれば旅の安全は確約されたと言ってよかった。我々が想像できるに、ローヱルは東京滞在中に立山地方の名声を知り、また針ノ木峠(2821m)越えが勇猛さの証明になると考えたのだろう(この難所越えはかって、たとえば秀吉に嫌われて非業の最期を遂げた有名な武将佐々内蔵助成政(15361588)によって達成されている)。この理由で恐らくローヱルは針ノ木峠越えを望んだのだろうし、また多分この興味故、Yeijiroへの紹介要請へ至ったのだろう。ローヱルは常に未踏の地での冒険にやる気満々だったし、それ故旅行案内書の目録に載っていない針ノ木峠のような場所に魅かれたのだろう。なぜ一年のうちのこの時期にこの難所越えの実行をローヱルが決意したかの理由は定かでない。積雪は依然として深かったし(ローヱルと同じ季節に旅している我々もちょうど昨晩ひどい降雪に遭い、遠く立山連山の高い峰々が真っ白く冠雪するのを目にした)。きっと彼は信頼に足る情報を持っていなかったのだろう。しかしながら、Yeijiro及び宝泉坊とのコネが、ローヱルが後刻芦峅寺に滞在することになった経緯を説明するであろう。***

 

 :火星観測者の佐伯恒夫はもともとは佐伯姓ではなかった。彼の妻はこの地方の出身である。彼女の父は佐伯姓で、この寺で働いていたかもしれない。(彼らの子息に会えたら確かめてみたい)。

 

 我々は暫しローヱル街道を離れ、曇り空の下をドライブしている。神通川の深い山峡を延々と車を進め、ようやく辿り着く飛騨の地には65㎝ツァイス屈折機が待っていて、折から太陽も再び顔を出す。

 海老沢嗣郎が1973年に使用したこの飛騨天文台の屈折望遠鏡は、東半球最大の機械である。非常に性能がよいという評判は聞かない。ここには、もと京都の花山天文台にあった60㎝カセグレイン望遠鏡も設置されている。(飛騨と花山は共に京都大学の運営である。)我々が眺めた惑星像は黄昏の中で、背景の空は明るかった。金星は色収差の滲んだシミより少しマシかという程度。土星は非常におぼろで、こんなに表面輝度が低かったっけ!?という具合。

 この天文台はかなり人里離れて荒涼とした風情に感じるのだが、それは数個あるドーム間の寒々とした渡り廊下が目を惹くからか(本日の午後時まで雪が降っていたのだが)、はたまた望遠鏡で眺めたひどい惑星像のせいか。しかし裸眼での惑星たちは高山の暗い空に美事に浮かんで並び、初っぱなの金星はちょうど一か月後の日面経過を目指して太陽目掛けて真っ逆さまにダイヴを始め、続いて明星に連なる土星と月と木星。月はとりわけ綺麗で、薄雲の色環に縁取られていた。

 昨夜の私は三國の近代的ホテルの快適さに包まれていた。今夜はかなりの高地の旅館で床に就く。言わば気分は一世紀半も前に遡る。ローヱルが泊ったであろう宿のいずれかに似ているだろう伝統的な日本旅館、床には畳が敷かれ、小さなテーブルの周りには座布団が、そして障子が私の部屋には一組、ところどころ破れていた。宿泊は古趣豊かですこぶる快適だった。食事では小さな魚の干物を二尾、やや大胆にも純日本流に頭から尻尾まで食べた。ローヱルはこのような食習慣に全く留意しなかったが、かくいう私はもっとコズモポリタンである;郷に入れば郷に従い、日本では日本人のように食すべし。

 

429。飛騨から下りていくと、麓の森深い丘の上に遠方の山々が浮かび上がり、峰々は雪で白く、亡霊のように霞んで連なっていた。我々は夥しい桜の樹の立ち並ぶ道沿いをドライブする。満開であったならば、と南が言うには、天の川のごとくだったろうと。遅咲きの花もちらちらと残っていて、満開時の壮麗さの如何ばかりなりしかを幾ばくか覗わせた(またローヱル自身も極東の魂の中で記すには桜花の咲き誇るを初めて目にするは未知の感覚を経験するが如し)。天候は完璧で、空は冷厳に青く透明に澄み渡っていた。折から到来していた台風は、雨を海岸線に降らし、山々を新雪のマスクで覆った後、昨日の夕方に消散した。

 我々は御嶽山に向かって旅を続けた。ローヱルがこの火山を初めて見たのは、この地域を1889年に訪れた時に違いなく、そして1891年に再びこの地に戻った際には友人のGeorge Russell AGASSIZと共にこの山に登っている。彼はこの後者の訪問の後にThe Author’s Club1891年創立)に“Ontaké”という単純なタイトルの詩を上梓しており、その中に記しているのは、夏毎に御嶽山に群がり絡まる一万人もの巡礼者たちの数珠つなぎの列に、如何にして彼とAGASSIZが合流し得たかという顛末。巡礼者たちが求めるのはただ巡礼途上で出会えるだろう下界にはない高山の、極楽の絵のような眺め”――丸木造りの茶店で取るのどかな休憩では残雪の欠けらや眼前を漂う雲の端切れが眼を潤し、そして頂上では遠く能登半島を取り囲む絶景に息を呑む。ローヱルたちは八合目の茶屋でひと息ついて苦い緑茶で喉を潤し、下から上ってきて茶店に入る数人の神道行者の一行に遭遇して、彼らの後を追うことに決めた。やがて行者たちが御座(憑霊)状態に入るのを目撃して、憑霊文化の未知の国のアイデアに出くわした訳で――これがローヱルの最後にして、またある意味最も大胆な極東に関する著作オカルト・ジャパン 神々の道の主題となった。

 この詩はパーシヴァルの又従兄である詩人James Russell LOWELLのずっと保守的な詩大聖堂に張り合って書かれたようだ;比較に耐え得る出来と言えようか。しかしまたこの詩は、1894年の夏にフラグスタッフでパーシヴァルが火星観測を開始する前に書いたが出版の陽の目を見なかったもう一つの詩作“火星”と対を成すものだったかもしれない。下に掲げる詩文の流れでは、間もなく芽生えるローヱルの天文についての唯我独尊の姿勢を促す旋律に触れることができる:

 

俗なる暮らしを人暮らし抜く低き

この世界の上遥か一万尺の高みに、

斯くして天の素性に迫り立つ、

神の御業の大会堂の岩造りの大尖塔、

聖なる御嶽は孤高にして聳え立つ:

抗うと覚しき峰も近き周りには見えず

遠く不穏の大地のうねりさざめきのみ、

広き蒼き陸の海の白波頭

日の本並び無き気高き山ならむ。

 

千代の樹々の囲みの上に、

悠久の雪の肩掛けの上に、

屹立せし壁状岩稜の巨大な溶岩塊の山頂体

階段状に連鎖する八口の噴火口に、

頂きに頂を累ねる受難の系図;

其の旧き低き頂は今や夫々の池を縁どり、

蒼き瞳らは見上げる天界を捉え、

さなくば凍える雲に触れて霧に霞み、

夜毎注視するは星の沈み行く孤独な静寂

その静穏の深みより無限遠を測り、

盲目の月の眼窩と異なり

空虚の宇宙を越えて抗うは

とある世界の石膏のデスマスク

 

八口の最上部の火口は然に非ず。

潜めし往時の業火の煌めきは、

今は永く沈滞せりて、深き睡魔は、

柔らかき灰の瞼を覚えず下ろし、

母神なる自然の帳は鎮めて眠りに誘ふ

昔日の猛き激情は力尽くも

明日は再び目覚める定め;

取り巻くその優美な岩壁の睫毛越しに

その外縁の彼方に見降ろすは

奈落の真芯へ続く目の眩む深淵を通して

赤と灰色の、鋭い割目だらけの黄土の絶壁は

深紫に曇る擂鉢のおどろと赤き縁どりを成し、

地平に華麗な陽の沈む西方より、総ての頂に

炎燃え立ち、然れど畏るべき割目は昏きまま

天界の尊厳なる色味の薄明りの許に潜む;

硫気孔より立ち昇りし蒸気の遥か下方に

彼の地の精霊たちの蒸溜せし激怒の芳香の

密かに緩に宙に昇り消え往く。

一瞥の急坂の手前より大地は離反し

その足許を覆い隠す雲海へと急落し

斯くして麓より切り離されし山頂は

平らけくも天空とぞ交感せむ…..

 

巡礼の神聖なる目的地なる彼の山、

気高き人々は白装束を一身に纏い

外も内も長き禊にて清め淨めせしは

下界の原罪なる穢れを祓わんがため;

同族と未だ関わりし人と雖も、

神々と共に過ごさむとて試めり、

然は終世の歩幅の届かむ限り

少なくも生涯にひと度の夏の盛りに、

遠き郷里より徒歩にて漸う来たりきは、

夫れ神々の年毎の謁見をこそ許し給う時節なれ

その頂の遥か上に既に完成しせりし

この地と同族なるもこの世ならぬ地目指し、

大地より飛び出ししものは未だ天界に至らず……

 

 南、浅田、そして私が2004年の4月の終わりにこの峰の近くまで行った時、かってローヱルも知った通り、この山は昏睡に沈む火山であった。深い眠りからこの山が目覚めたのはつい最近のことである――御嶽山は2014927日に噴火して、50人以上の人々が犠牲となった。(譯者註)

 南は辛抱強く、ローヱルがそう呼んだように、これがまさしく日本全土で最も神聖な山であることを説明した。富士はもちろんさらによく知られていて、東京からの交通の便もよく従ってより人気がある。しかし御嶽は日本国内のもっと離れた場所に位置するため近づき難く、神秘的である。ローヱルが魅かれた理由の一端はこれであろう。A Handbook for Travellers in JapanMurray社の旅行ガイドブックの1891年の日本案内版、ローヱルの友人のBasil Hall CHAMBERLAINらが執筆)の警告するところでは鉄道や現代文明の届かないところにあり従って登山は厳しいと。針ノ木峠の場合と同様、そのような挑戦の話はローヱルの耳には音楽のように聞こえたことだろう。我々の方ではこの聖なる山を登る試みはしなかった。替わりに茶店に立ち寄り、御嶽山を頭上に、そして山に昇る非常に淡い月を背にして、日本原産の大きな塊茎植物から作ったというとろろ蕎麦を賞味した。

 そして我々は旅を続け、白い桜の花であふれる綺麗な一帯を抜けて、塩尻峠を経て飛騨信州連山の南部の峰々を越え、眺めに入る諏訪湖を源に天竜川―River of the Dragon―が流れ出で、降って到着する塩尻の宿では、かってローヱルが英語を話す一人の人物と会ったという。ローヱルが訪れた時にはその旅館には昔ながらの庭園と神道の神社があったに違いなく、かれはその神社を見たことだろう。しかし元の建物は火災で焼け落ちたとのことで、現代的な旅館に建て直されている。

 諏訪大社は有名な神社で、ローヱルも泊った宿を含む宿場の近くに位置している。多数の宿はもちろん、大社の参拝者たちを宿泊させるために設けられたものだ。ローヱルがここで泊った宿は、外人客向けの食事の出前で有名だったところで、疑いなくこれを理由にローヱルは宿泊を決めたのだろう。我々はそこで煎餅と緑茶をいただき、宿の当主の両角ゆみさんが出してきてくれた古い写真の数々に見入った。また我々が見つけた場所は今では何もないがローヱルが訪れた郵便局があった跡であった。彼は天竜川方向に彼宛ての郵便を取りに出掛けたのだ。(能登96頁に記すところでは:我々はまだ動こうかどうか迷っていて、どこから船を出すのが慣例なのかとか….そして….傘がないので進みを停め、

今から下諏訪の郵便局に着いているはずの手紙を取りに横道にそれることにした。

 われわれはローヱル街道を辿り続け、中央日本アルプスの壮大な眺めを楽しんだ。尾根が尾根の上に透かし絵のように次々と畳みかさなり、遠ざかるほどに薄れる青の水彩一色塗りのそれぞれの山々。我々がたゆみなくさらに先に進むほどに山々は雄大にも壮麗さを増し、ついには遥か彼方の南アルプスの絶景を望むところとなった。太陽は山々の背後に姿を消し、あたりは夕やみに包まれる。黄昏ちょうどに我々はローヱルの目的地である飯島町に着いた。

(この稿続く…..



譯者註:御嶽山が五千年余りと言われる沈黙を破って突如として水蒸気爆発を南西側斜面で発生させたのはご存じ19791028日で、まさしく有史以来の噴火であった。それ以前は一部の火山学者や一般大衆には御嶽山は古い分類での死火山あるいは休火山と認識されていたようで、この噴火がきっかけで活動度による火山の分類定義が見直されたという。

 




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