巻頭論攷

'未知の惑星“”ファイル'から素っ破抜き、極秘番外Ⅹ文書:第一部
 W.H.ピッカリングとパーシヴァルローヱル:協同者から競争者へ

ウイリアム・シーハン

近内令一譯

CMO/ISMO #430 (25 January 2015)


English



2015年はローヱル天文台では栄光ある“冥王星の年”に叙されている。これに相応しかれと私も新年の慶びをフラグスタッフで迎え、そしてローヱル天文台の新しい資料収集センターで惑星Xについてのローヱルの計算資料を探して過ごし、冥王星の本の著述プロジェクトの後ろ盾の拡充を図った。

私自身の冥王星への興味が搔き立てられたのは、もう50年も前の忘れもしない4月に街中のミネアポリス公共図書館でトニーサイモンの “The Search For Planet X” (惑星Xの捜索) を借り出したのがきっかけだった。今年の113日はパーシヴァルローヱルが“惑星の計算についての短いシノプシスをケンブリッジのアメリカ学芸アカデミー (American Academy of Arts and Sciences) で発表してから100年目にあたり、またこの9月には、いまや名高い “Memoir on a TransNeptunian Planet” (超海王星惑星回想録) の出版百周年を迎える。

 85年前にもなろうかという1月の21日、23日、そして28日にクライドトンボーが露出した乾板には、冥王星が記録され、218日その日付に海王星の遥か彼方でブリンクコンパレーターで“ 瞬く”新惑星を発見し、そして313日は新惑星発見の発表の記念日となった。

 そして今年の714日には、マリナー4号が火星を接近通過して50年目になるが、2006119日に打ち上げられたニューホライズンズ探査機が冥王星に到着し、大雑把ながら人類初の太陽系全体の探査機による探索が完遂されることになる。まさしく冥王星の年である。]

 

 ウィリアム・ヘンリー・ピッカリング (18581938) は偉大な天文学者であったが、いつも彼の影を薄くする存在があり、その一人は彼の兄エドワード・チャールズであり、一回り年上で、ハーバード大学天文台の台長として名を馳せ、最初の分光連星の発見等の業績を残した。もう一人、少々後になるが、彼を見劣りさせた人物は、一時は同僚かつ協同研究者でもあったパーシヴァル・ローヱルであり、その火星の研究や超海王星惑星の捜索については遥かによく知られている。

 

  ローヱルと同様、ピッカリングもボストンの名家に生まれた (実際のところ、南北戦争前の短期間、ローヱル家とピッカリング家は同じ通りの町、ビーコンヒル地区のマウントバーノン通りに住んでいた)1879年にMIT (マサチューセッツ工科大学) から理学士の学位を得た後、彼は同大学に物理学の教師として留まり、1883年に彼の兄エドワードチャールズに呼ばれてハーバード大学で天文学を教えるようになった。

 

  ウィリアムは始めから、根っからの何でもいじくり屋だった。彼は機器マニアで、早い時期から写真術に興味を持った。写真家エドワードJマイブリッジの指針に沿って馬の動画を撮影し、写真用の乳剤が種類によって昼光に対する感度が異なることを発見し、室内用フィルムと昼光用フィルムの開発の第一歩に寄与し、また写真フィルムが赤外光に感度があることを見い出した。もっと要を得た言い方をすれば、臭化銀ゼラチン乾板の天体写真への応用の道を彼は切り拓いたのだ。1883221日に彼はフォクトレンデルの小型レンズでオリオン大星雲を見事に写真に捉え、さらに撮影を続けて、この星雲がオリオン星座全体を包む遥かに巨大なガス雲のごく一部でしかないことを示した。( 実際に彼は、有名な “バーナードループ” 及び“馬頭星雲” の両方の紛れもない発見者である)。これらの成功をもとに彼は大規模な写真星図を作る計画を兄のエドワードに進言し――この提案で実現に導かれたのが偉大なハーバード捜天計画であり、南北両半球のハーバード天文台ステーションで40万枚を超える乾板で対物プリズムによる恒星写真が撮影された(近年これらの捜天写真乾板のデジタル化が進められている)。ウィリアムはまた、膨大な測光研究を実施し、兄の測光天文学的分野への長期の関心の持続と先駆的な貢献を支援した。

  

  1889年、ピッカリング兄弟は元旦の皆既日食の撮影のためカリフォルニアに出掛けた。さらに続けて彼らがコロラド州ロッキー山脈のパイクスピークと、南カリフォルニアのウィルソン山を訪れたのは、ハーバード大学天文台の新しい拠点のために、マサチューセッツ州ケンブリッジよりも遥かに好適な観測条件をもたらす候補地を探すためであった。パイクスピークにも望ましい条件がいくつか認められたが、ウィルソン山の観測地としての有利さは決定的だった。ボイデン13インチ屈折望遠鏡 (クラーク製) を使ってピッカリング弟はウィルソン山で天体写真の研究を開始して、そこの頂上の観測条件の優良さを立証し、これが後にこの場所に太陽観測所を設立することをジョージ・エラリー・ヘールに1903年に決意させる決め手となった――後の、世界に名高いウィルソン山天文台の始まりである。

 

  既に、ウィリアムの月と惑星に対する宿命的な興味は始まっていた。1888年に彼は、青感性の乾板で、13インチ屈折を使って、もっとも初期の数点とランクされる火星の写真を得た。1890年にハーバードに戻った彼は、古巣の天文台の15インチメルツ屈折機を使用して月を観測し、また火星面の色彩についての眼の感度についての実験を行なった。そしてその一年後には彼はペルーアンデス山脈にいて、ハーバード大学天文台ボイデン支所の天文台長代行を務め、ボイデン屈折望遠鏡を高地アレキパに移設した。彼の兄の恒星のスペクトル観測を優先すべきという主張にもかかわらず、ウィリアムが最も時間を費やしたのは、彼が木星のガリレオ衛星の見掛け上の軌道楕円変形と呼ぶところの現象の観察であり、そして1892年には近日点期衝の火星を眼視観測した。彼は長い事火星に興味を持っていた。1877年に遡るが、彼がエドワードに書いたところでは:“私は火星に非常に興味を持っている。太陽系の惑星で一番面白い。なぜならば我々の惑星と気候が非常に似通っているからだ。そして今回の大接近はかってなかったほど面白い。”WHPからECPへ、1877826日;ハーバード大学天文台、台長の記録、ハーバード文書館) アレキパで彼はスキアパレッリの canali に相当する線状の表面模様を確認し(但しこの時もそれ以降も、それらの二重倍加ないしは双重化を認めることはなかった)、ニューヨークヘラルド紙に電信寄稿した火星観測レポートに並ぶセンセーショナルな発見の数々は、すなわち多くの運河、南極近くの山脈群、そこから北方に流れ出す雪解け水の形跡、火星の大気中に浮かぶ雲、そして太陽湖周辺の“四十泓もの湖”

 

  彼の火星のスペシャリストとしての実績の評価が確立すると、この赤い惑星に抑え難く魅了されたパーシヴァル・ローヱルは1893年の1月にピッカリングにアドヴァイスを求めた。二人のボストンブラフマンの宿命的な会談がその月の終わりにかけてハーバード大学天文台で実現した。ローヱルは彼の目論見、すなわち次の条件のよい火星の衝が来る189410月に間に合うように自身の天文台を設立することを宣言し、これに呼応してピッカリングはハーバード大学から一年間の無給休暇を取ってローヱル天文台の候補地捜索行にアドヴァイザーとして参加することを表明した。最良のシーイング条件を得るためには合衆国南西部の砂漠地方がよいとピッカリングは主張し、ローヱルが2台の望遠鏡を借りる手助けをした。1台はブラッシャーの対物玉を擁したワーナー&スウェイシ社製の18インチ屈折機で、これは後に最終的にはフィラデルフィアのフラワークック天文台に納まった。もう1台はハーバード大学から借り出した12インチ屈折機である。彼はまた、プレハブの移動式ドームを設計し、候補地が決まり次第西に向けて輸送する態勢を整えた。コネティカット州ハートフォードのトリニティ大学を卒業して間もないアンドゥルーエリコットダグラスはかってアレキパでピッカリングの助手を務めたが、今回一時雇用されてアリゾナ地域の様々な場所でシーイング条件をテストすることになり、帯同する6インチクラーク屈折機はかってローヱルが東京に持ち込んだ望遠鏡であった。4月になり、ダグラスのちんたら遍歴ルートに日増しに苛々をつのらせ、天文台の早急な場所決めを切望するローヱルが決定したのは、フラグスタッフの町の林業地区の上の丘であった――鉄道の近くで地の利がよく、ダグラスがテストしたどの場所よりも標高が高く、そしてダグラスが死ぬ前に言ったところでは最高の酒場もあったとか。5月も最終日となってローヱルは汽車でフラグスタッフ駅のプラットフォーム (今も当時のまま残っている) に着き、丘の上でダグラスとピッカリングに合流した――ローヱルはこの丘に“マーズヒル”の名を冠した––彼らが偏愛する惑星の観測を始めるために。1894年の火星大作戦が始動した。

 

  いくつかの点でピッカリングとローヱルはあまりにも似通い過ぎて馬が合わなかったのだろう。共に誇り高きボストンブラフマン、野心的で、自己中で、猛烈に自尊心が強く、そして我が儘だった。ローヱルの天文台がハーバードの冒険的事業であると新聞社が曲解すると、ローヱルはこれ以上ない断固とした言葉でこれを否定して世に知らしめた;管理責任者はこの俺だと。“単にローヱル天文台とだけ呼ぶように”と彼は新聞社に警告した。彼はピッカリングとダグラスは共にハーバードから“貸出し中”であることを明言した。しかしながら、今回の目的に関しては彼らはローヱルの被雇用者に過ぎないと。兄エドワードの名声の陰で悶々としていたピッカリング――“父はエドワード伯父さんにべったり頼っているとは絶対思いたくありませんでした、”と彼の娘はハワードプロトキン (ウェスタンオンタリオ大学の哲学、自然科学史の教授) によるインタビューで説明しており――は、天文学の正式な教育訓練を何ら受けてもいないほぼ自分と同年代の人物と一緒くたの役割にぶち込まれるのは真っ平御免だった。取り立てて不和の記録も残っていないのだが、1894年の火星の衝の後、彼らは袂を分かつことになった。ダグラスはローヱルの首席助手として数年間留まった――が、彼のローヱルとの関わりもまた苦い結末を迎えた。ピッカリングは兄からローヱル天文台に戻るようにけしかけられた――“お前の才能はあそこでしかできないような仕事に一番向いていそうだから”――が、この意見を拒絶した。彼はハーバードに戻ることを選び、そこで彼はローヱルの火星についてのアイデアの一貫した酷評者となった。世紀が替わった後、彼ら両方ともが超海王星惑星のハントに乗り出したことが明らかになると、彼らの対立関係は満開最盛となった。

 

  存在するかも知れない未知の惑星への期待――水星の軌道の内側、及びもしくは海王星の公転経路の外側――19世紀の終わりと20世紀の初めの世界一円に濃厚に漂っていた。数学的な研究は数多くあり、それらに基づく望遠鏡による捜索も12例あったが、厳密なものはなく、空論とおぼしきものばかりだった。最も注目すべき研究は1877年にデイヴィッドペックトッドによってなされたもので、彼は当時合衆国海軍天文台に所属していて、後にマサチューセッツ州アマースト大学の天文学者となった。

 

  トッドの研究は、ジョンハーシェル卿が海王星発見の状況を解明するために用いた図式解法を改案したものであった (Outlines of Astronomy1849及び後続刊)。図式解法はトッド、ピッカリング、そしてローヱルを含む何人かの超海王星惑星の捜索者たちによって支持採用されてきたので (ローヱルに関しては1910年以前に限られる)、ここでいささかの解説を述べることにしよう

 

  ハーシェルはまず天王星の剰余のプロットから始めたが、ここで剰余の定義は “ある惑星の観測された位置と、最初に想定された諸定数を基に予測された惑星の位置との差異” である。ハーシェルはいくつかの巧妙な図表によって1800年から1822年までの天王星の黄経の増加と、1822年のその増加の休止、そしてその後の期間での黄経減少への転換が、ほとんど総て海王星の天王星に対する接線力による効果であることを示した;これに比べて、既知の摂動力は何ら匹敵するような影響を及ぼさない。海王星の1846年の発見が成されたのは、ハーシェル曰く、その検出に殆ど最適の時期であって、そして彼さらに論ずるに、天王星の軌道をかき乱す未知の惑星の要素を考えなくても、その惑星のいる方角は、天王星の1822年の合の時期の近辺の黄経剰余の極大から確定できたであろうと。

 

  トッドが主張したところでは、ハーシェルの記述に出くわすさらに前の1874年に既に図式解法に“考え当たっていた”そうである。1877年、ルヴェリエの1873年の理論にしたがって天王星の剰余をプロットしたトッドは、未知の惑星の要素として平均距離52天文単位、公転周期375年、そして光度+13等級を得た。(これらの要素はピッカリングの惑星Oでお馴染みに聞こえるだろう;一つの理由として:彼らは共に同じ方法――図式解析、そして同じデータ――ルヴェリエの1873年の剰余、に基づいていたからだろう。)

 

  トッドが仮定したところでは、未知の惑星の1877.84年の黄経は170度プラスマイナス10度で――双子座の中ということになる――そして視直径を2.1秒角と見積もり、これによりこの惑星の実直径は海王星程度のサイズということになる。さらに彼が見い出したところでは軌道傾斜角は124分、そして昇降交点の黄経は103度となった。合衆国海軍天文台の26インチ屈折望遠鏡を用いて彼は、この予想位置のあたりを1877113日から187836日までの間の30夜捜索した――30夜もかけて徒労に終わったが。実際のところ――この捜索の投機性の暗黙の了解の内に――彼は3年間も何の報告もせず、やっと発表したのは未発見の惑星の別の捜索者であるグラスゴーのジョージフォーブス教授の研究が発表された直後であった。同教授は二組の新惑星の推定要素を述べ、それぞれ100及び300天文単位の距離に潜伏し、1000年及び5000年の公転周期を持つとした。

 

  その間、カミユ・フラマリオンの1879年刊のベストセラー通俗天文学 に超海王星惑星の所在についてのヒントが述べられている。そこでフラマリオンが言うには (ゴア訳、471)

   

彗星について論じ始めるが、すぐに判ることは、殆ど間違いなく周期彗星の太陽系での存在は諸惑星の影響に負うということだ。実際のところ、太陽系外からやって来る彗星はどれも、いずれはどれかの惑星の引力に強くさらされるほどに接近して引き寄せられ、軌道を変えられて太陽の近傍を目指す旅を続けるようになり、その後また原初の軌道から逸らされたポイントに戻り、斯くして太陽の回りを巡るようになる。従って、総ての周期彗星はその遠日点をいずれかの惑星の軌道の近くに持っている。さて、1862年の第三彗星と810日の流星群はともに、遠日点を48[天文単位]の距離に持つ軌道を辿っている。そのあたりに大型の未発見の惑星が居るに違いない……

 

  フラマリオンが上のように書いた後、もう一つの彗星がバーナードによって発見され (1889 )、その遠日点距離は48天文単位に近かった。“道しるべ” の指し示す方向にはいよいよフラマリオンの48天文単位の“大型惑星”の影が濃厚になってきた。実のところ、パーシヴァルローヱルは未知の超海王星惑星の可能性に関する興味について詳しく調べるため、1901年に、ヨハンゴットフリートガレの全彗星軌道カタログの内容をを総て辿ることになった。ローヱルがこの精査で見い出したところでは “太陽から100天文単位の距離までは、彗星の遠日点距離はいくつかのグループに分かれ、それらの間は空虚なギャップとなっている。これらのグループの距離の持つ意味が重大なのは、それぞれのグループの遠日点が完璧に、もしくは実質的に、ある主要惑星の軌道のすぐ外側に位置しているからである….. 海王星グループの外側にはギャップがあり、そして49天文単位のところに別なグループがあり、それを構成するのは遠日点49.8天文単位の1889彗星と、遠日点48.1天文単位の1862彗星〳ペルセウス座流星群である。続いて次のギャップを経て次の遠日点76天文単位の彗星グループがある。このような配置が強く示唆するのは、二つの未発見の惑星が存在して、一つは太陽からおよそ48天文単位、もう一つは約74天文単位の距離で公転している、という可能性である。” (“超海王星惑星”、未発表の草稿、1909年頃、ローヱル天文台、惑星Xの計算、資料枠21)

 

【註:1862、スウィフトタットル彗星はスキアパレッリによってペルセウス座流星群の因を成す宇宙塵の配給源であることが示され、それ故ここでは複式表記のような体裁となっている。最近年の軌道要素によると、同彗星の近日点は0.9595天文単位、遠日点は51.225天文単位となっている。最近年の回帰の1992年に再発見されている。1889彗星はバーナードによって発見された;ここ長い事行方不明と思われたていたが、2006年に再検出された。その近日点は1.077天文単位、遠日点は47.232天文単位である。

 

 彼が“惑星と呼ぶところの超海王星惑星についてのローヱルの興味は初めのうちはほとんど気紛れのようなものだったが、年とともにどんどん真剣なものに (妄執的とまでは言わないが) なっていった。ローヱルの火星や――とりわけ金星についての――研究がプロの天文学者たちの激烈な批判を浴びた後に、おそらく彼は名誉挽回のための潜在的な手段として、惑星Xの捜索にのめり込んでいったのだろう。斯くして1903年、論争中の“スポーク構造”を再び観測したために彼の金星の研究がかなりの重大な危機的局面を迎え、プロの天文学者たちの嘲笑の嵐にさらされてローヱルの天文学的な事業は廃業すれすれの状態となった。その一年後、彼が若い素朴なインディアナ州人の天文学者ヴェストMスライファーを雇ったのは、分光カメラを使用するための専門的技術を開発して、スポーク構造の観測が示唆する金星の同期自転を立証するためであった。ほぼ同じ頃に、もう一人のやはり武骨なインディアナ州人の天文学者C.O.ランプランドを雇用したのは火星の写真撮影に乗り出すためであった。条件のよい19055月の火星の衝に得られる結果を期待して、ローヱルはランプランドに“やつらを叩き起こすような凄い成果を引き出すんだぞ!”と気合いを入れた。また抗しがたい魅力を持っていたのは、超海王星惑星の捜索が名誉挽回キャンペーンのもう一つの有力な作戦となるというアイデアであり、何故ならば太陽系の他の大惑星の新発見は、本来の重要性がどんなものであれ、同業者たちを間違いなく “叩き起こす”であろう一大事であったから。ランプランドがずっと後にクライドトンボーに語ったところでは、“ローヱルは他の天文学者の間での信用性の改善を必死で望んでいた。それで彼が考えたのは、もし海王星の彼方の第9惑星の位置を予測できて、そして発見できたならば、彼の職業的地位は間違いなく大いに高まるだろうと。” {クライドトンボー、水星、198656月、6672}

 

  明白な諸理由により、この時のローヱルは、非常に人目を引く他の天文学的活動とは対照的に、低姿勢を崩さないことに留意した。惑星Xの捜索に関する情報は個別的に分担提供され――そしてときには、彼自身の職員であっても“知る必要がない者には伝えない”方針で情報管理がなされた。

 

  1905年初頭、ローヱルは二段階のステップを踏み始めた。まず最初に彼は写真捜索の計画を開始し、2月にハーバード大学天文台のE. C. ピッカリング、そしてフランスのカミユフラマリオンに手紙を書いて、“不変面”に沿った星野の写真星図をの送付を要請した。次に彼は、この先数年間は火星にかかり切りで彼もアシスタントたちも手一杯になって、未発見惑星捜索のような余分の (しかも疑いなく時間のかかる) 仕事に手を染める余裕はないだろうと判断して、有能な観測者を捜し求めることにした。そこで彼はローヱル天文台のローレンス特別奨学金制度を設立した (19054)。インディアナ州立大学と協調してこの制度が表向き目指したのは、選抜されたインディアナ州立大の天文学科卒業生たちに実地観測の経験と、そして学位論文研究の機会を適度な奨学金給費 (月額50ドル) で提供するというものだった。この制度で採用されたローレンス特別研究員に名を連ねたのは、190506年のジョン C. ダンカン、190607年のアール C. スライファー、そして1907年のケネス P. ウィリアムズであった。実際上、彼らはほとんど総ての時間をフラグスタッフでの“不変面”の写真撮影に充てていた。少々の試験撮影露出を24インチクラーク屈折機を使って (視野が狭すぎたが)ランプランドが実施した後、5インチのフォクトレンデル製のレンズと、6 3/8インチのレイトゲル製のレンズの両方が試された。種々の理由で双方とも不十分なものであることが判明した。1906年の1月になってようやく、ローヱルの目的に適うと思われる良好な機械が天文台に設置された。これは5インチのブラッシャー社製ダブレットで、16等の極限等級で、5度角の鋭像視野を誇った。このブラッシャー天体写真儀を使って、同視野一対の乾板で不変面に沿って撮影が開始され、1907年の9月に捜索が終わるまでに数百枚の乾板が露出され、E. C. スライファーがローヱルに告げたところでは、大漁の小惑星を釣り上げた、とのことであった。ウィリアムズが三番目のローレンス奨学生であった19079月に不変面の写真捜索は最終的に終了したが、その頃ローヱルはその夏のチリのアリアンザへの出張で撮影された火星写真の分析に没頭していた。このチリ遠征は友人で新惑星捜索仲間のデイヴィッドペックトッドに誘われたものだが、火星の写真のほとんどはE. C. スライファーが撮影し、その驚異的な出来映えによって彼はローヱル天文台の恒久的な職員メンバーとして雇用されることになった。不変面の写真捜索の完遂に伴い、ローレンス奨学金制度も幕を閉じた。

 

  この最初の捜索は前座試合に毛の生えた程度のものだった。どう見ても絶好機ではなかった。結局のところローヱル自身は――他に気に掛けることも一杯あったし――新惑星の捜索に関してはまだ出たとこ勝負で臨んでいた。彼はどんな方面であれ――写真術、分光観測、天体力学、他色々――専門家にアドヴァイスを請うことはまずなかった。ある折に、広角の惑星捜索に好適な望遠鏡についてヤーキス天文台のE. E. バーナードに尋ねたことがあったが、これは例外である。ローヱルや助手たちが自分たち自身で骨を折って結果を出すのには時間が掛かった。従って、5インチのブラッシャー天体写真儀の導入が決定するまでの数か月間の貴重な時間を、不十分な機械による写真捜索で浪費してしまった。また、得られた乾板の星像の調査法も原始的だった;ローヱルは単に二枚の乾板を重ねてルーペで調べていた。ランプランドは19063月の早きにツァイス社製のステレオコンパレーター (立体視比較測定器) の購入を勧めていたが、ローヱルはためらっていた。“値段に見合った優越性がはたしてあるのか疑問だが、まあちょっと調べておこう” と答えていた。その夏の欧州旅行で実際にちょっと試した彼の見解は “それほど頼りになりそうでもないわな” であった。

 

  単なる不運もけっこう効いた。クライドトンボーが冥王星発見後に指摘したところでは、1905-07年には、冥王星はその大きな軌道傾斜角で黄道から遥か遠くに離れて位置し、ブラッシャー5インチの乾板の視野のカヴァーする帯域からはずれており、また当時の冥王星の光度はわずか16等級で――捜索乾板の本当に限界ギリギリであった。ローヱルが期待した惑星Xの光度より、実物は遥かに暗かったのである。

 

  必然的に、ホイトが記すように (惑星Xと冥王星、95)、この最初の写真捜索がもたらした教訓は “捜索をいかに運営するかについての活きた経験であり……また、単に存在が推定されているだけで、仮に必ず存在するとしても、それについて何の情報も知られていない天体を求めて海王星以遠の宙域を行き当たりばったりに捜索するのは実質的に無意味である。必要だったのは、ローヱルもよく承知していたように、どこを探したらよいのかの指針、どれほど漠然としていても構わないから、これまで知られていない惑星が天空の何百万もの星屑の間に潜んでいる可能性の高い天域を指し示す ‘道しるべ’ であった。”

 

  ローヱルは熱心にこのような道標を求めた。実際に、写真捜索を開始する間際に、彼は数学的な研究も始めており、天王星、海王星両方の黄経の剰余のプロットに基づいて、ハーシェルの図式解法を用いて、推定上の摂動源の方向を見つけるというものだった。19053月、彼はワシントンD.C.の海軍天文台公開暦局の局長ウォルター S. ハーシュマンに手紙を書いて、天王星と海王星の黄径の剰余を整然と整約するための“有能な計算者”の紹介を要請した。ハーシュマンが推薦したのはウィリアム F. カッリガンで、彼は勤務時間の総てを費やしてアメリカ暦表航海年鑑のために計算機をひたすら回し続けていたにもかかわらず、追加収入の獲得に熱心 (溢れる貪欲さ?) で、空き時間を余分の計算作業に割けるということで、ローヱルの申し出を引き受けた。残念ながら私がカッリガンについて調べがついた情報はごくわずかである (彼は1922年に亡くなっているが、何歳だったかは定かでない)“アメリカの悲劇”の作者セオドアドライサーが彼を小説に書けば格好の主人公となったろう。ホイトがそう呼んだように、彼は疑いなく“ローヱルの惑星Xの捜索の忘れられた大物”と呼ばれるに相応しく、そして彼の英雄的な努力には悲劇的な側面があり、何故ならば、本編で間もなく判るように、彼の仕事は最終的に全くの徒労であったことが明らかになるからである。(ホイト、惑星Xと冥王星、96)

 


 

  カッリガンが見い出したところでは、1780年から1820年の40年間に、グリニッジ天文台で151回、またパリ天文台で171回の天王星の観測が行われた。海王星については、1795年のミシェルラランドの、発見前の観測がわずかに2回あるだけで、その後は1846年の84日及び12日のジェームズチャリスの観測まで他の記録はない。カッリガンはこの仕事の端緒を開くに当たって、ガイダンスを求めてローヱルに質問した――“どのくらいの厳密度で剰余の計算を望むのか?これを聞くのは、もし最大限の精度が要求されるならば、観測結果からの再整約の必要性も視野に入れてのことだ” と。ローヱルの回答は残されていないが、恐らくできる限り厳密に計算を進めてくれとカッリガンに要求したことだろう、それでこそカッリガンだから。この計算作業はゆっくりと進んだ。カッリガンが最初の計算分をローヱルに送ったのは19058月で、添えられた手紙には、要求された仕事が、まあどれほど時間が掛かって骨の折れる作業になり得るかをローヱルは恐らく完全には正しく認識感謝していないだろう、と仄めかしてあった (ローヱル天文台資料、1905816)

 

   「いただいた手紙から判断しますと、あなたから依頼されて私が実施している仕事の規模を過小評価されている傾向がうかがえます。この計算を始める前にお送りした手紙でお知らせしましたように、指定された期間、すなわち1780年から1820年の間に実施された天王星の記録では、私が計算に使える294回の観測データがあります。それぞれの観測の比較に必要な計算を完全に仕上げるには平均して3時間少々かかります。これにはもちろん繰り返し確認計算と検算が含まれます。最初にまず192日間隔の天王星の完全な日心位置推算暦表を計算し、続いて96日間隔に補間します。この推算暦表から日心座標をそれぞれの観測日に内挿する。この補間は前方及び後方から実施されるので、結果の合致性が計算の正確さの保証となります。次に太陽の黄経、黄緯、そして動径ベクトルを、章動、黄道傾斜角とともにニューカムの太陽表から計算します;この計算については毎度繰り返し確認計算を実施します。これら二組の数量セット、すなわち天王星の座標と太陽の座標から天王星の距離が算出され、この距離は光行差の決定に使われます。そして光行差を補正した新時刻から太陽と天王星の位置を再計算して、その地心黄経と地心黄緯を求めます。グリニッジ天文台の観測の赤経、赤緯はカルリーニの太陽表から得られた黄道傾斜角を用いて整約されているため、これをニューカムの太陽表の黄道傾斜角に適合するよう補正計算の適用が必要です。日心位置から地心位置への変換にも繰り返し確認計算を実施しました。

    上記の概略から294回の観測の比較整約計算にはなんと大量の作業が必要かご理解頂けるでしょうか。昨日発送した計算結果は1781年から1790年一杯の期間に渡るもので、重さで2ポンド1オンス (約1㎏) あります」。

 

八か月後、ワシントンD.C.から何の知らせもないので、ローヱルはどうなっているんだとカッリガンに迫った。カッリガンの返答は、目の調子が非常によくない (眼精疲労?) ということだった。この時点ではローヱルはまだ明らかに気楽にこの計画をゆったりとしたやり方で進めて行こうと構えていたようで、カッリガンに書き送ったところでは“貴君の目のことは非常にお気の毒です。ですから私の依頼した仕事については全く貴君を急かすつもりはありません。従って、計算結果を時々お送りいただけるようお願いします…..御足労ですが、天王星、海王星双方の黄経の剰余を赤字で記入していただければ幸いです。”

 

 続く六か月の間、カッリガンの計算は (フラグスタッフからの不変面の乾板の束も同様に) ボストンのベイストリート53番地のローヱルのオフィスに散発的に届いた。ローヱル自身にとっても“X”捜索は必ずしも優先事項ではなかった。彼は6月に著書 火星とその運河 の原稿の仕上げの一筆を入れており、また10月にボストンのハンチントンホールを埋め尽くす聴衆に向けた火星と惑星の進化についての一連の講演の準備に追われていた (これらの講演はセンチュリーマガジンに連載され、後に単行本 生物の住としての火星 として出版された)。先に記したように、1906年の夏に彼はヨーロッパにいて、ツァイスの立体視比較測定器をじっくり調べてみたが、彼の期待に添えるものではなかった。彼はハンチントンの講演が終わる1906年の10月の遅くまで、カッリガンの最新の計算報告に対して礼状さえ送らなかった。そしてやっとカッリガンに仕事の報酬として228.75ドルの小切手を送り、“目を通す時間ができたら貴君の計算結果を嬉しく吟味したいと思います――今の今まで恐ろしく忙しくて失礼しました”と書き添えた。

 

  ローヱルとカッリガンは押し問答を繰り返しながら1908年になだれ込んだ。1908年の3月になってカッリガンはようやくうんざりするほど骨の折れる1780年から1820年までの天王星の剰余計算の仕事を仕上げた。ローヱルは先を急ぐのに熱心だった;彼はカッリガンに1820年から世紀替わりまでの計算の続行を要請し、同時により能率化した手法を採るよう忠告した。“総ての観測値を採用する必要はなくて、年毎の最良の観測記録のいくつかを選べばよい”と書き送っている。

 

  ローヱルはもちろん手一杯だった。1906-07年と同様忙しく、1907年の火星観測のレポート刊行、19081月のV. M. スライファーの分光観測による火星大気中の水蒸気の確認の公表、そしてローヱル学会の生物の住としての火星 出版記念講演の準備等に追われていた。また彼はオルバンクラーク アンド サンズ社と40吋屈折望遠鏡導入の交渉をしていて、これによって最終的に火星の運河の正当性が立証できると期待しており、そして6月には、ボストンの隣人すなわちコンスタンスサヴィッジキース と結婚して“長き独り身を捨て、遅き新郎となりぬ”。このカップルは夏の新婚旅行にヨーロッパに向けて出港した。ホイトが記すところでは、ローヱルが10月初旬にヨーロッパから戻ったときには、“海王星以遠の理論的探索の動きを何ら起こさなかった。明らかに、X捜索は急を要していなかった。”

 

  しかしながら一か月後、同じ著者が書き記すところでは、“彼は再び猛烈な勢いで惑星Xの研究に突入した。”何たる変化!? 19081111日、ケンブリッジでのアメリカ学芸アカデミーの会合で――数年後に彼自身の “超海王星惑星回想録” の概略を口演することになる同じ会場で――ローヱルは聴衆として、ウィリアム H. ピッカリングが、並走してやはり1905年から始めた海王星以遠の探索研究の概括を発表するのを聞いていた。つまり、天王星、海王星に続く三番目の新世代大惑星を発見するという栄誉の見込みは、フィリップ M. サドラーが述べるように “1846年この方、天文界の目の前に美味しいエサとしてぶらさがっていた” わけで、この疑似餌に喰らい付いたのはローヱル唯一人ではなかったということである。ルヴェリエやアダムスの骨の折れる計算作業を回避したくて、ピッカリングはジョンハーシェル卿の図式解法を適用することを決めた。彼がまず始めたのは、ルヴェリエの天王星に対する1873年の軌道理論からの剰余をプロットすることで――ある意味非常に手軽で骨折りの少ない作業だったのは、ルヴェリエ自身が剰余を提供してあったからである。(しかしながら注意すべきは、当時すでにルヴェリエの理論は時代遅れで、取って代わったガイヨとニューカムによって改訂された天王星の理論では、かなり異なる剰余のセットが与えられた。)

 


 

  ジョンハーシェル卿によれば、天王星の角速度は未知の惑星の重力による摂動力に比例して変化し、これが剰余に記録されるだろうということである。ピッカリングは超海王星惑星が存在するという前提で分析を開始し、基本的にはハーシェルの分析法をルヴェリエの剰余に適用して、天王星の要素平均距離、近日点及び離心率の補正に最も適合する線形及び正弦近似を剰余から求めるという方法を取った。もし目的が天王星の軌道要素を剰余から補正するということであれば、ハーシェルの方法は非常に満足の行くものだった。ピッカリングはしかしながら、これをさらに進めた:ガラス板に正弦曲線をインクで手描きして、それを剰余のデータプロット図の上に重ねて、補正されたグラフに対する “当てはまりのよさ” チェックを試み、次々と曲線適合性を吟味する――方法的にはフィリップサドラーが呼ぶところの “あまりにも主観的で、実質的にどんな曲線もでっち上げられる” やり方で、ピッカリング自身さえ後に認めたところでは非常に“ 大雑把な親指判定” であって、――未知の惑星の天王星に対する摂動が原因とピッカリングが信じた“ヘアピンターン” さえ検出された。この研究から彼は少なくとも一つの惑星の存在を演繹した。惑星“O”である (海王星Neptuneの頭文字Nの次のアルファベット文字ということでOと呼ぶことになったとのこと)。ピッカリングは1877年にトッドが使ったのと同じ剰余を用いたため――ルヴェリエの1873年の天王星の軌道理論のもの――ほとんど同じ結果を得たのはさして驚くに当たらない。“O”に対する円軌道の想定でピッカリングが推定したところでは、その平均距離51.9天文単位、公転周期373.5年、そして地球の2倍の質量であった。また彼が与えたそのおおよその位置は (1909.0年分点で) 赤経747分、赤緯+21.0度であった。これの示す位置は (実在したとして) 当時の双子座東部ということになる。たまたま冥王星は一星座先の牡牛座におり、はたまた海王星は双子座の中で、推定上の“O”の位置からさして遠くないところにいた。

 

  ピッカリングが彼の新惑星のこの位置をひねり出したのは1908年の早い時期で (テュレーン大学の資料にある彼の論文と計算記録から明らかである)、その公表は、ペルーのアレキパのハーバード大学天文台ボイデン支所の24インチブルース ダブレット写真儀による写真捜索が不成功に終わった後まで延期された。この同じ24インチ屈折機で1898年に撮られた乾板は、ピッカリングの最も名高い業績である土星の衛星フェーベの発見をもたらした。フェーベは写真的に発見された最初の他惑星の衛星であり――同時発見者には、12インチ屈折機を使用したマサチューセッツ州トーントンの有能なアマチュア望遠鏡製作者ジョエルメトカーフ師が名を連ねている。この時ピッカリングはこのゲームに誘う旨したためた書状をローヱル宛てに投函さえしている。ローヱルの返信 (19081116日付) は予想通り素っ気ないものだった。“私は総てのテーマを自分自身で調べていて、”と彼の長年のビーコンヒルのライバルに書き送り、“そしてまだ、何らかの視覚的探索に着手できるところまで進んでいません。私が定位置に就いたらお知らせしましょう。”と結んでいる。

 

  今にして思えば、明らかにローヱルは次のピッカリングの研究に恩義を負っている――すなわち翌年早くのハーバード大学天文台年報に発表された162頁の回想録 “海王星の彼方の惑星の捜索” であり――これを参考にしたとローヱルが認めるまでもないだろう。その時期から彼は自分自身で図式解法を試みようと決意し、ほとんど毎日のように新しいデータと剰余を催促する手紙でカッリガンを攻め立て始めた。ローヱル天文台の資料には多数の剰余のグラフが見つかる――天王星だけでなく、木星と土星のものも。あるグラフ上――ブヴァールの天文表からの木星の剰余がプロットされている――には、未知だったころの海王星との会合に対応する三つのピークが認められ、ローヱルをしてカッリガンに手紙で次のごとく勝ち誇らしめた (19081119) すなわち“木星の剰余からでも間違いなく海王星は見つかっていたぞ。”と。(実際のところ、ピッカリングが彼の “海王星の彼方の惑星の捜索” 回想録を出版したときにローヱルも悟ったであろうように、ピッカリングは既にこの方面を耕し尽くしていた。)

 

  明らかにローヱルは最初のうち、最大限の厳密さで計算を進めさせることの重要性を認識していた。カッリガンの時間が非常に掛かるが極めて厳密な計算に忍耐を示していたのはそういうことである。後に、しかしながらこれは変わり、ローヱルは剰余にあまり気を払わなくなった――そして私の思うところでは、少なくとも部分的には、これはピッカリングの天王星と海王星の剰余の図式解法分析の直接的な影響であって、ガイヨやローヱル自身のような研究者を驚きで立ちすくませ、剰余に記される新惑星の摂動の刻印は推定されてきたよりも遥かに顕著なのではと確信させたのだろう。

 

  ローヱルは下記のように初期の原稿に書いている (日付不明;しかしながら、恐らく1908年より後で、カッリガンがもはや用無しということで免職された頃。多分1909年で、ローヱルがピッカリングの論文を読んでから彼自身の図式分析を開始したあたり。論文の流れからは、天王星と未知の惑星の会合が1794/95年あたりに起こったと彼がまだ信じていたことが判る。)。:

 

  “ 現在扱っている観測と計算の剰余が正確であることを確認するのは最重要事項である。換算の現状を見る限り、ルヴェリエは自身で1873年まで整約計算を実施していて、ブヴァールの天文表のエラーを見い出したことからもよく判るように、その正確性を我々が疑う余地はない。1873年以降はグリニッジ天文台の計算陣によって整約が行われていて、その正確性は保証されていると考えてよいだろう。理論的な位置に関しては、他の惑星に関するエラーに影響されるだろう。木星と土星の影響に関して言えば、現在の軌道理論は明らかにほとんど完璧である。海王星については理論的な摂動の計算が実施されてきており、ルヴェリエの1873年の理論、そしてニューカムの1900年の理論の双方からの結果が得られている…… 両者からの計算結果の相違は、海王星に仮定された対太陽質量の違いによるもので、ルヴェリエでは1/18907、ニューカムのそれは1/19300であった….  “これの影響は今回の観測された剰余の図表に見て取れる。仮定された天王星の軌道離心率と近点の変化による相違も直ちに推論できる。これらは、1790年から1820年までの間に観測された剰余の曲線に目に付くほどの影響は及ぼさないが、その後は偏位是正の方向に転じて1900年近くに至る…. { 偏位是正の方向:すなわち剰余は減少していく} これはニューカムが上記軌道要素を、自らの1900年の理論を観測に合わせる目的で改変したからである。{ へぇ、そうなんだー….. } そして見て取れるのは、この改変が1785-1787年までの剰余曲線中の小さな落ち込みや、1810年までの曲線中の上昇を台なしにしてはいないということだ。――観測された剰余は依然として天王星と未知の惑星との1794.5年あたりでの会合を指し示している。それ故、そのような天体が存在するという我々の推論は理に適ったものと断言できる。”

 (この稿続く)




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