巻頭論攷

 CMO/ISMOに寄せる冥王星覚え書

ウイリアム・P・シーハン

近内 令一 譯 

CMO/ISMO #438 (25 September 2015)


English



過ぎしこの夏

ローヱル天文台、すなわち85年もの昔にクライドトムボーがこの太陽系最遠の惑星 (いまや準惑星だが) を発見したその地で、ニューホライズンズ探査機の冥王星フライバイの興奮を体験する機会があった。2015715日水曜日、ニューホライズンズ探査機との無線連絡が回復したことを祝って、大型テントの中で、我々は現ローヱル天文台長ジェフホールや他の天文学者たち、そしてお偉いさん方と祝賀会を催した。実のところ、そのテント会場から文字通り石を投げて届く距離にあるドームこそ、クライドトムボーが自ら撮影した乾板上に遠い氷の世界の惑星の点像の移動を検出したその場所である。この盛大な祝賀会を私は決して忘れないだろう。

 


Snapshot made by New Horizons looking back at Pluto about 15 minutes after its closest approach on 14 July 2015

 

  この同じ日は、もう一つの目覚ましい出来事の記念日でもあった:マリナ-4号の火星フライバイの50周年記念日である。一日も違わずきっかり50年離れた二つの偉業宇宙船による他の惑星のまさしく初めての写真を送り返してきたマリナ-4号、そしてニューホライズンズは冥王星の画像を送り返して一連の仕事に一つのけじめをつけたそれぞれ太陽系探査の歴史の端緒と締めくくりを飾るのにふさわしい二つの離れ業であった。

 

  1965年に感じたことを私は思い返さずにはいられない。当時冥王星は途方もなく遠く、そして火星さえ信じ難く遠かった。まったくのところ、私は惑星の面白さに目覚め始めたばかりで、小さな天体望遠鏡で火星を初めて覗いたのは、その年の3月の遠日点接近期の衝の頃だったいまも覚えているのは『なんと小さな、いとも暖かな輝きの、ピンの頭ほどの光点!』(H.G.ウェルズの小説宇宙戦争の登場人物、天文学者のオギルビーの言葉を引用)。奇妙なことだが、私は失望を感じなかった。飽くことなく凝視したその眩しい光点は、確かに小さいものの、その予兆する意味合いが強烈だったのは、当時10才だった私が既にいっぱしのローヱル信者だったからである。マリナ-4号宇宙船は、天井扇風機のような形の太陽光発電パネルにフォルクスワーゲン車サイズのランプ傘を接合したような格好をしていても、当時の科学技術の最先端を具現していたわけで、折しもかの赤い惑星にもう少しのところまで迫っていた火星到達へ待ち切れない思いの10才の私。1965714/15マリナ―4号は火星最接近を果たし、表面から6,118マイル (9,846km) に位置した。(火星からの距離を大きく外した軌道を取ったのは明確な意図に基づく選択であり、表面に激突して火星土壌を地球の微生物で汚染する可能性を排除するためであった。) 宇宙船の送り返してきた画像はTV走査線が荒く、1965年の基準から見てさえもマシなものではなかった;良好な35mmカメラの単独写真でも、マリナ-4号の総ての写真画像セットの情報ビットの総計の25倍もの情報を含むことができただろう。さらに、この宇宙船の画像はどれも驚くほどコントラストが低かった;画像が暗鬱で霞んで見えたのは、設計者たちが、しばしば火星面を被うダストや霞や霧のことを勘定に入れていなかったからであるまあ、もっと些細な問題、たとえばカメラシステムの光漏れなどに起因する可能性もあったかもしれないが。ともあれ、画像は冴えないものであったとしても、火星の真実の地形学的、地質学的特徴の有様を初めて提供したことは間違いない:その眺めは、パーシヴァルローヱルその人を含むあらゆる世代の望遠鏡観測者たちの想像を占有していた火星の光景移り行く美しい雲と豊かな地形のグラデーションとはまったく異なるものだった。マリナ-4号が捉えた地形には総計三百はあろうかという夥しい数の衝突クレーターがあり、中でも古典的なアルベドー暗色模様シレーネスの海には直径120kmに達する大型のものがある (現在ではマリナ-の名を冠している)。天文学者たちのほとんどは火星上にクレーターを予想していなかったクライドトムボーを含む一、二名が予見していたに過ぎなかった;トムボーが1950年に主張したところでは、オアシスすなわち運河の交点に見られる円形の暗斑はクレーターであり、一方運河は火星表面の亀裂ではないかと。後年誰かが指摘したところでは、天文学者たちが何を火星面上に期待していたかよくわからないとのことであった。私にはよくわかる:彼らは月のように死んだ世界ではなく、地球に似た生きた惑星を火星に期待していたのだと。

  その日私の中のひとかけらが死んだ。火星そしてローヱルの仮説の数々は私にはとても大切なものだった。天体の爆撃に叩かれ、生命のない、月のような世界として火星を見ることはショックだった。

  現実が我々の夢に劣っていた一つの実例であった。

  50年後、ニューホライズンズの接近とともに冥王星 (そしてカロン) が小さな光の点から一つの世界へと大きさを増してくるにつれて、また前と同じ辛い思いをするのか、と心配になってきた。

 

遠い発射台の噴煙

  幸運にも私がニューホライズンズ宇宙船のケープカナベラルからの発射を見ることができた場所はバナナ河の西岸で、41号発射台から6マイル。発射台に堂々と立つ強力なアトラスV 551ロケットは、この距離では束の間の陽光に暫し輝く小さな指のように見えた。発射は二回延期された;一日は高空の厚い雲で、別な日にはメリーランド州のゴダード宇宙飛行センターの冬の荒天による停電で。三度目の日にカナベラル岬の風は収まったが、千切れ雲が頭上を通過し、さらに遅れること緊張の2時間の後、ロケットがなんとか縫って通過できそうなほどに雲の切れ間の青空が広がってきた。


そしてついに、ほぼ午後2時、固定装置が跳ねのけられ、秒読みが開始された―“発射時刻まで、1098….321その瞬間に遥かな地平線に一吹きの噴煙が見えて、続いてオレンジ色の炎の閃光が走った。ロケットは倒立した巨大なロウソク―—下向きの頭から炎を吐き出しそしてゆっくりと、威風堂々と発射台から上昇し、渦巻き絡み付く豪煙とともに東方に向けて大空に円弧を描き、広い大西洋上空を横切って行った。

ほんの一分間ほどでニューホライズンズは厚い雲の彼方に消えて行った。込み上げる感情が私を圧倒し、涙が眼に溢れた。いま出発を見送った特使が向かう世界はなんと遠かったことか、さして遠くない昔には私が子供だった1960年代、月への到達レースに熱中し、マリナ-4号の成果に打ちひしがれた日々冥王星はSF作家のイマジネーションを搔き立てることさえできないほど遠く思えた。そしていま、信じがたい事だが、パーシヴァルローヱルが夢に描いた氷の世界に我々は辿り着こうとしている。

  そう、私は歴史が作られるその場に立ち会うことができ、実感できた特権は、1492年の昔にスペインのパロスの港から新世界発見の野心に溢れて船出したニーニャ号、ピンタ号及びサンタマリア号の出港を見送ったスペイン人たちの特権に匹敵するだろう。コロンブス船団の三隻は大西洋の横断に二か月を要した (まあ、カナリア諸島で丸一か月の準備調整滞在があったものの)。ニューホライズンズ探査機は時速61,000kmというかって発射されたロケットのうちの最高スピードまで加速され、コロンブス船団の大西洋横断航路を数分間で過ぎ行き、そしてわずか9時間で月の軌道を越えて行った。途中木星フライバイによる重力アシストでさらに追加加速を得て、速度は66,000kmに上昇した。それでもなお太陽系の広大さのスケールは並外れていて、冥王星に到達するのに9年半を要し、その遠さ故、電波信号が高速で伝わっても地球に返ってくるのに4時間半かかった。

 

邂逅の週

  まるで地獄から飛び出した蝙蝠のようにぐんぐん上昇して雲を突き抜けて行ったニューホライズンズの発射を私が眺めたとき、冥王星とランデブーするその時期、すなわち20157月は遥かな先のことに思えた。この宇宙船の打ち上げを目撃して興奮感動したのは間違いないが、冥王星までの長い航続時間のうちには色々具合の悪い事が起きても不思議はないな、とも思えたものだった。

 


ニューホライズンズのフライバイの週のビル・シーハン () とイーウェン・ホイテカー (当年90)

 

この探査が上手く行く確率が私には定かではないし、この宇宙船が冥王星カロン系に到達したときにどのような成果を得られるのか明確なアイデアもなかった。まあ、もし私が尋ねられたならば間違いなく、冥王星は、海王星の大きな月であるトリトンのような惑星だろうと推定する、と答えたであろう;その世界はほとんどの期間中昏睡状態で、風の深いため息も滞っているが、時折間欠泉のような噴出現象を起こして束の間の大気に包まれ、公転軌道上の20年間 (一周248年のうちの) は海王星よりも太陽に近い軌道をささっとかすめて行く。

 


フライバイ直前の2015713日の冥王星

  ニューホライズンズ宇宙船の冥王星への最接近は20157141140UTに起こり、冥王星表面から12,500km以内を通過した。続いて14分後、宇宙船はカロンに最接近した。この冥王星の大きな月はこのとき、ニューホライズンズから見てまさしく冥王星の反対側28,800kmの彼方にあった。

 

  このフライバイは完璧な成功で、我々は依然としてその後2か月以上に渡って宇宙船からのデータのダウンロードを受信し続けている (この受信はさらに一年間続く)。最新の画像群は先週届いたばかりである。この計画の主任研究員アランスターンの要約するところは、フライバイ直後に発した三語に尽きる:“俺たちはやったぜ!” マリナ-4号の落胆に比べて、冥王星は我々の期待を凌駕し、歓喜を与えてくれた。自然は我々が思っているよりも遥かに創意に富んでいる。クライドトムボーによって1930年に発見されたときには、それは太陽系の辺境で瞬く光のシミに過ぎなかった;今や我々の知るところでは、冥王星は見たこともないほど美しく、複雑な世界である。誰かが夢に描くことができたどんな光景とも遠く異なり、そして根本的な謎は、その表面が驚くほど新鮮で若々しいということである (とりわけ、非公式に“トムボー地方”と名付けられた広大な平地はその特徴が顕著である)。アランスターンが先週インタビューで述べたところでは、遠くパーシヴァルローヱルその人の惑星世界の進化についての解説の復唱が成された:

  “地質学的な進化過程には熱が必要であり、そこに謎が残る。誕生から四十億年経過したこれらの小さな惑星たちが、どうやってその熱源エンジンを駆動させ続けることができるのか、についての適切なモデルは本当にないのである。惑星が小さくなるほど質量あたりの表面積比率は大きくなる。その意味するところは、小さな惑星は内部に熱を長く保てないということであり、最終的には完全に冷え込む。”

  “テーブルの上の大きなコーヒーカップの前に置いてある小さな紙コップのコーヒーを彼が手振りで指し示して、こっちの小さい方が早く冷めるだろうと。近隣の巨大惑星の潮汐力下で、冥王星のような惑星、我々の月の1/6の質量で、我々の太陽系の外縁を巡っているような惑星は、遥かな太古から死んだままのはずである。”(そしてもちろんこれが誰もが予想する姿である。)

  別のモデルがニューホライズンズの到着前に提唱したところでは、窒素の存在量と大気の熱慣性によって様々なケースが起こり得るということが示された。あるシナリオでは二つの極冠が存在し、別の筋書きでは、両極のどちらか一つに大型の極冠ができることが予想された。そしてメタンの存在も考慮する必要がある―メタンは二酸化炭素よりも効率的な温室効果をもたらす気体である。現在総じて我々が言えるところは、冥王星の複雑さ―そして冥王星上の特定の地域で表面の刷新が顕著なことは―この惑星の軌道の形状及び軌道傾斜の特異さから演繹されるところと、大筋で一致しているということである。

  来年になってニューホライズンズ宇宙船からさらに多くのデータがダウンロードされてくれば、さらに多くの詳細な分析が実施されることは間違いないが、いまのところはNASAが発表するまたとないフライバイの画像の数々を心ゆくまで楽しむことで十分としようではないか。



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