巻頭論攷

火星の新年:2016

ウィリアムシーハン

近内令一譯

CMO/ISMO #442 (10 January 2016)


English



  2016年は、かの赤い惑星の研究者や観測者たちにとって抵抗しがたい興味で溢れ返る年となるに違いない。

 

  火星上ではといえば、かって水で満たされた湖水であった直径154kmのゲイル・クレーター内にひょうきんな外観のキュリオシティ自走探査機が着陸して3年経つが、相変わらず元気に走り回って火星面の新たな発見を成し続けている。最近ではキュリオシティは高さ5000mあまりの中央丘シャープ山に登っている最中で、珪酸塩質の堆積岩を探しており、これが見つかれば湖が干上がった後でさえも続いたであろう水の連続的作用の証拠となる。

 


Mount sharp on Mars

 

  一方地球ベースの観測者たちは平均よりも良い条件の衝を期待できることになる。すでに本稿を執筆している時点で (20151218) 視直径4秒角の火星像は表面模様を示し始めている。1月初旬には像径は6秒角に達し、そして417日にはさそり座の球状星団M80の東で逆行ループを描き始める (57日にはこの星団からわずか1.3度角以内に迫る)。衝が起こるのは522日で、火星は18.6秒角径の円盤像を見せる。この大きな視直径は遠く南に寄った火星の赤緯で少々割りを食うが、その代わりといってはなんだが8月下旬には文字通りのライヴァルであるアンタレースの近傍を通過する眼視で文字通り目を惹く壮観となることだろう。82227日には火星はアンタレースの2度角以内に迫り (軍神の惑星の明るさはサソリの心臓の星を1.4等級凌駕する)、このとき球状星団M4のすぐ近くで輝くことにもなる。

 

  筆者は現在フラグスタッフにフルタイムの居を定めようと調整中であるがこの衝を新装改修成ったローヱル天文台の60cmクラーク屈折機で観測したいと考えている;この屈折機はローヱルその人が生涯の最後に観測した1916年接近期にも使用された望遠鏡であり、そのときの衝は210日で、火星像は最大でも14秒角を超えることはなかった。ローヱルは過労で、意気消沈して落ち込んでおりとりわけ惑星X”すなわち超海王星惑星の発見の失敗が応えた;この未知の惑星の発見は彼の晩年の強迫観念となっており、19159月に出版された彼の有名な著書超海王星惑星回想録のテーマであった19161112日日曜日の夜遅く、彼は強い発作に見舞われてまもなく死去した。

 

  ローヱル没後百周年記念には多くの行事が催される;たとえば9月か10月にローヱル天文台で開催される会議 (北アリゾナ大学と共催) には完全な会議議事録の作成が予定されている。筆者はローヱルの生きた最後の年について書き上げようと望んでいる;これに含まれるのは19162月衝の接近期の彼の観測だけでなく、彼のカナダ及び合衆国北西部での講演旅行、また彼の興味深い論文諸世界の創始、そして彼の辛抱強いガリレオ衛星及び木星の小さな第五衛星アマルテアの観測 致命的な大発作に襲われる前の晩、彼はEarl. C. スライファーとともにアマルテアを観測していた等々である。アマルテアの軌道長軸の前進は年間900度に達するので、この小さな衛星はそれ自身が周回する巨大な楕円体惑星の重力ポテンシャルを調べる絶好の探針の役割を果たすローヱルがアマルテアの観測を試みたのは、以前に土星の内部構造を探るために輪の微細な空隙を観測した経験があったからである。天啓の如く見事な研究であったが、残念なことに彼にはその結論を見届けるまで生き延びることはかなわなかった。

 

  かくしてアマルテアは偶然にも、百年前にパーシヴァル・ローヱルが死去する直前に最後に研究した太陽系内の天体ということになった。ローヱルの死後、輝く巨大惑星の近傍のこの悪名高きまで微かな暗い小衛星を、クラーク屈折機で見たものがいないというのもむべなるかなしかしこの由緒ある屈折機の対物玉が磨き直されて輝きを取り戻し、機械系も改善されたいま、今年はぜひともこの望遠鏡でアマルテアを再び目に捉えてみたいものだ。

 

  アマルテアを発見したのはもちろんかのE. E. バーナードで、189299日にリック天文台の91cm屈折望遠鏡を用いての成果である。明らかになったところでは、この発見の二か月後、もはや国際的に認知された著名人となっていたバーナードはサンフランシスコで講演している。何らかの理由で彼はこのとき、1892年版のアメリカ暦表航海年鑑を携えていた。これこそは、彼が木星の第五衛星を発見した魔法のような魅惑の宵に彼の手許にあったに違いない一巻である。判明したところではこのとき、パーシヴァル・ローヱルもまたサンフランシスコにいてパレスホテルに滞在しており、彼の四度目の (そして最後の) 極東への航海のために東京に向けて出港する直前であった。(この船旅には、よく知られているように、15cmのクラーク屈折機を帯同した;これは後年、ローヱルの天文台の候補地のシーイング条件をテストするために使用され、フラグスタッフの選定に寄与した望遠鏡である。)

 


Palace Hotel in SF (where Lowell stayed)

 

  昨秋私が医療の仕事から引退したとき、ワシントン D. C.の合衆国海軍天文台を退役した天文学者のリチャード・シュミットはお祝いにととんでもなく素晴らしい贈り物をくれた:バーナードその人がアマルテアを発見したその夜に手許にあったそのアメリカ暦表航海年鑑の現物である (発見当夜のバーナード自身の書き込みがされている!)。表紙には彼自身の“Barnard 1891”の記銘が、そして次の頁には紛うことなくパーシヴァル・ローヱルの手になる自身の名前と、ボストンの住所と、そして東京への転送先が記されているではないか!これらの記銘は、惑星天文学の二大巨人すでに一人は名高く、いま一人はほどなく世に広く知られることになるの邂逅の証明の記録である。

 

  もしかしたら、と私は思うのだが、1916111112日の夜、ローヱルとE. C. スライファーが巨大な木星の眩しい光芒に呑みこまれそうなほどすぐ近くの視野に彼らの小衛星の獲物を追跡していたそのとき、ローヱルは遥か23年の昔にアマルテアの発見者とサンフランシスコで相見えたことをチラッと回想したであろうか。

 

  ローヱルが回想しようとしまいと私は彼らの邂逅を想像せざるを得ず、かってまさしくE. E. バーナードとパーシヴァル・ローヱルがともに手にしたであろうアメリカ暦表航海年鑑の現物を私も手にするとき、思わず私の背筋には震えが走る。

 

――ウィリアム・シーハン、20151218




日本語版ファサードに戻る / 『火星通信』シリーズ3の頁に戻る