創刊30周年記念寄稿

1986年『火星通信』創刊の頃

浅田

CMO/ISMO #443 (25 January 2016)


English



火星通信』=CMOの創刊30周年で記事を書かせていただくことになった。南さんと私は一回り以上歳が離れていて、私が京大生であったころは既に南さんは数理解析研にお勤めであった。宇宙物理教室と数理研とはワン・ブロックしか離れておらず、南さんの研究室へ週一回お邪魔してウンゼルトの『現代天文学』(小平桂一訳、岩波書店)を二人で輪読して貰ったこともあった。南さんは宇宙物理の屋上の15cm(五藤光学製)もお使いであったから、こちらでもお会いしている筈である。私が学生の頃は「京大天文同好会」というのが出来ていて、木曽福島で合宿があったときは南さんもお誘いに乗って参加されたこともある。1986年の『火星通信』発刊のころは私が大学院を出て、就職2年目ぐらいであった。

既に30年昔のことだから、当時のことはうまく思い出せないので、その頃南さんからいただいたお手紙を読み返してみた。19851220日付けのお手紙には

「『火星通信』を1月から出したいと思っています。最初の23号は私がワープロとコンピュータを駆使して出しますが、3月から浅田さんに、印刷(ゼロックス)発送をお願いしたいとおもいます。如何でしょうか。(後略)」

とあった。当時、同じ機種のワープロを南さんと私が所有し、私はPC-9801の一太郎(フロッピーディスク版)でも送付先のタックシールを印刷していたように記憶している。最初から私が印刷していたのかと思っていたが、南さんが台湾に行かれてから私が印刷も引き受けたことが分かる。また、1986124日付けのお便りには

「扨て、『火星通信』の方ようやく第1号出来ました。大体同封の名簿の人達に送ります。「切手」を浅田君のところへ送るように書いていますが、どれだけ集まりますやら心細いところ。一応すぐ第2号を作り、これはコピーしたものをゴソッと浅田君の方へ送りますから君の方から発送願いたく、従って早目にアドレス(同封の)をワープロ化しておいていただきたく思います。(後略)

とある。南さんによると、第1号が出来上がったのは1986123日であったらしく、24日には大半を発送し、25日には特別に村山定男さんや、長谷川一郎さん、佐藤健さんなどに送られたらしい。なお、第1号の発行日付は25 January 1986となっていて、25日は伝統的な発行日になった。しかし、1986年は火星接近の年であったので、当分の間、一ヶ月に2回発行するということになり、第2号は10 February 1986の日付であり、以後、25 February 198610 March 198625 March 198610 April 1986、・・・・と続くわけである。発送は第2号から私が担当したのであるが、第5(25 March 1986)などをみるとLtEの英訳部、OAA Mars Sectionなどの項では南さんの使われないフォントで英文が綴られており、この頃には私が台湾から速達で郵送されてくる南さんの手書き原稿 (当時はインターネットが一般的に使えず、メールも一部の人しか使っていなかった)を打ちこんでいたものと思われる。南さんの原稿は字が崩してあるので判読には少々苦労したのを憶えている。また、半月ごとの発行だから、やっと発送が終わったと思ったら、すぐに次の原稿が送られてくるような状態であった。ただ、編集上行詰めで苦労しないように、第2号から私の作った「文献紹介」が連載するように作られており、第3号から佐伯恒夫さんの講演録「火星観測の50年」を分載したので、頁合わせには助かった。これは19851117日の「北陸アマチュア天文研究発表会」(於:福井大学)の招待講演で、講演録は私の金沢の友人 中嶋秀夫(Hideo Nakashima)さんが録音から起こしたものである。

 

 初期の号を若干紹介すると、第1号の第1頁には頁一杯にこの年の最接近日16 July 1986 at 11h GMT (φ=5°Sδ=23.2”)の火星面概略図が出ている。グリッド図で、既にM線、N線が描かれている。グリッドは南さんが数理研の大型コンピュータで描いたもので、以後この体裁を採っている。第2頁には佐伯恒夫火星課長の巻頭言があり、1954年の佐伯氏のスケッチが二枚出ている。第3頁には南さんの「チョット一言」と編輯態勢紹介で、浅田正、南政次、中島孝の三名が事にあたっているとある。第4頁からLtECMOで使う「記号、略号について」、第67頁には2 Janから最接近までの視直径の変化に合わせてのグリッド図が8枚嵌め込まれている。署名が無いが、南さんの作ったものである。最後の第8頁はRemarks & Reports by the secretaryと編集後記で、Secretaryとあるのは、当時南さんはOAA火星課の幹事であったからである。この1986年シーズン、南さんは大津の20cm反射で8 December 1985から観測を開始されたようだが、福井市自然史博物館天文台の新20cm屈折での観測は元旦の朝だった由。

 第2(10 Feb 1986)には1954年の佐伯さんと村山定男さんのスケッチが4枚ずつコピーで入り、メインは南さんの「1954年の火星と今年の火星」という記事である。1954年の観測紹介では南アのW. S. FINSENの名などが見える。私の文献紹介は第2号からはじまる。

なぜ、1954年かというと、1986年接近とは双子のようであるからである。ひょっとすると何故1986年からCMOを発刊するというのは、南さんにとって火星の1517(32)周期を終えて、新しくということにあったのかも知れない。

3(25 Feb 1986)のメインは南さんの「南極冠の測定について」(On the determination of the polar cap)で、幾何学的な図式で説明がある。これらの数式は以後も同じ観点からつかわれる。例としてはマリナー6号の30 July 1969 at ω=018°Wの遠隔写真が使われている。この第3号から前述のように佐伯氏の回顧録が連載された。

 

 南さんは1986225日に大阪空港から発たれ、台北の圓山天文台に移られた。國立臺灣大學での講義と観測で滞在は10ヶ月に及び、帰国されたのは1226日であった。1986年末までに『火星通信』は23号発行され、第24号の10 January 1987年新年号の「お知らせ」には南さんの「長い間ご不便をおかけしましたが、お蔭さまで1226日に無事 台北より帰国しました。12日には浅田正氏にもお逢いし、相談した結果、暫くは1986 apparitionの『通信』として同じ形式で細々続けて行くことになりました。・・・」とあり、以後、宗像市在住の私は「事務局」、福井の南・中島さんの組は「編集部」と名乗っていたように思う。

 

南さんのお留守中の私の企画は惑星撮影に関するアンケート(5)に関係するものが幾つかあり、創刊一周年にあたる25 January 1987付の第25号にはアンケートの集計のIを出している。IIIII10 Feb 1987の第26号及び25 Feb 1987の第27号、と続き、これはVIIまで書いたと記憶している。また「惑星写真の実際: Taking pictures of the greater planets 」という連載も行い、第26号には(9)として、沼澤茂美さん執筆の記事を掲載している。

一方、帰国後OAA Mars Sectionのコーナーは京都で南さんが書いているが、台北市立天文台では張麗霞(Le-Hsia CHANG)さんが孤軍で一月前半40葉のスケッチ(25号に報告)、後半21葉のスケッチ(26号に報告)と活躍されている。

この第26号のLtEにはドン・パーカーさんからの25 January 1987付の以下のような文面が掲載された: 

“Dear Dr. Asada, Thank you so much for sending me the 23 issues of the OAA Communications in Mars Observations. They are most informative and could not have arrived at a better time!  Jeff Beish, the other ALPO Mars recorders and I were becoming depressed over the sad state of planetary astronomy when your excellent publications arrived. They show that there is still fine Mars research being done. The observations described will help us considerably in writing our 1986 apparition report.  We would like to continue cooperating with the OAA and will send you a number of our photos, drawings and polar cap micrometer measurements within 2~3 months. In the meantime, I have enclosed a few issues of our ‘Martian Chronicles’ ・・・

これを受けて、第33(25 May 1987)p.0261から「D. C. パーカー氏の火星写真(1986)の紹介」Some Martian Surface Features Appeared on the D. C. Parker’s Photos Taken in 1986の連載が南さんの手で始まった。ゼロックス印刷では写真を再現できない以上、DataFilm、それにRemarksを和文英文併記でそれぞれ文章を箱に入れる形で進行した。白黒はTP2415B像はED200からViolet像を抽出したものである。一回につき誌面上10駒程度しかレヴュー出来ないから、これは長く続いた。XV番目が第48(25 March 1988)p0414にあり、これが最後である。ここ迄で67駒見たことになる。割付原稿のワープロ・タイプは南さん自身がやられたと思う。第42号には「D. C. パーカー氏のカラー写真(1986)」として彼から送られてきたスライドを評価している。解説は一頁半書かれている。これも南さんの手になる。このスライドについては第42号のLtEにパーカーさんが触れている:

”Dear Masatsugu, Thank you for your letter of 6 November.・・・I have also enclosed copies of a number of slides from 1986. While most of these were taken at roughly the same times as the black-and-white photos, perhaps you can obtain more information from them. I really appreciate your analysis of my photos --- You have picked out some details which Jeff and I overlooked! ・・・Again, thank you for sending us the Communications. Jeff and I are looking forward to working with you in 1988.”

なお、第33号のLtEには412日付けでBAARichard McKIM氏の文面が記録されている:

”Dear Dr. Asada, Thank you for your sending the BAA Mars Group your excellent OAA Mars Section Communications. These are of great value because of the longitude difference between Japan and the UK. I would welcome to any further copies.・・・I was fortunate to accompany Prof. Jean Dragesco on his trip to the famous Pic du Midi Observatory for two weeks in July last. We had half an hour of perfect seeing with 42-inch (1.06 metre) Cassegrain telescope there on 15th July, with the Solis Lacus central. It was most extraordinary sight. ・・・Looking forward to much cooperation, I remain yours sincerely.”

 

ところで、25 July 1987発行の第36号の「事務局から」には「今回は、京都で南さんと協同で作業する事になりました」とあり、私が花山天文台に滞在している機会だったとわかる。この号のLtEにはBAARichard BAUM氏のお便りが入っており、冒頭で次のように書かれている:

 “Dear Dr. Asada, Thank you very much for the copies of the OAA Mars Bulletin ・・・. The clear excellence of Japanese Mars Observers is demonstrated in your bulletins which I avow owe much to your own enthusiasm and skill as much as to your colleagues. It seems to me that a growing “Brotherhood of Mars Observers” is coming into being and it is good we can exchange our results in so harmonious a manner. It has been my fervent wish such continues and grows. ・・・1987623日付け)。 

37号は25 August 1987日付けだから、月一回の発行になっているが、第38号は15 September 1987日付けとして、中日を採ったようである。10月、11月も同じ。

 

1986年の南さんの眼視スケッチ数は結局998葉に及んだ。198710月発行の第39(15 October 1987)LtE (p330)には1986年にピク・ドュ・ミディ山頂の105cm鏡で素晴らしいソリス・ラクス辺りの画像を撮り評判になったJean DRAGESCO(先のMcKIM氏の文面にあったお方)から南さんに宛てて以下のように始まる便りが届いている:

“Je suis un de vos grands admirateurs: 998 dessins de Mars! Vous avez battu les records du prof. Miyamoto qui fut de mes amis・・・

40号も15 November 1987であったが、12月には再び月二回に戻したようである。

41(10 December 1987)にはドラジェスコ氏絡みで当時SAF内で起こった問題(事の始めは、ピクの天文台側が1988年での氏の使用を断ったこと)についてドラジェスコさんの憤りや弁明が読めるので「歴史的」である。この号のLtEには他に沼澤さんのT-Max 100についての説明もある。古い話である。

42号は25 December 1987発行だが、1988年接近の『火星通信』第一号になっている。気運として1988年大接近が始まったわけである。南さんはまだδ4秒角を越えたばかりだが、13 December 1987から観測を開始された由、この号のOAA Mars Sectionに書かれている(大津にて、20cm反射使用)。ドン・パーカーさんの消息も書かれていて、”According to a private communication from Don Parker, he already finished his first Mars observation of this apparition: When he was observing Mercury, ‘the seeing suddenly became excellent, as often happens around the sunrise’, and so he took occasion to see Mars and ‘was able to discern some details --- especially an orographic cloud over Elysium’.”

 

さて、南さんは早くから再び1988年には圓山天文台で観測したい意向を持たれていた。最初の1986年当時は私はまだ独身であり、自由になる時間は十分あった。しかし、1987年には結婚し(於:金澤、南さん媒酌人)、1988年には長女を授かったので、時間的な心配もあったが、今度の南さんの渡航はワープロ持参で航空機に乗るから手書き原稿ではなくなるということで、幾らか助かるかと考えた。

1988512日かに、私が東京出張からの帰路、新幹線の京都駅で下車して南さんとプラットフォームで落合い、ベンチに腰掛けて最後の打ち合わせをした。そのとき第51号の割り付け原稿を手渡されたように覚えている。

もともとCMOは最初から和文英文併記を目的とした。日本人の観測や手記を海外の観測者にも分かって貰えるようにと短くても英文での紹介を付ける、という趣旨であった。こうした試みに佐藤健さんは早くから賛同され、激励されたことに南さんは特別に感謝しておいでだが、まだ『火星通信』がグローバルな感覚の若手観測者を十分に発掘・育成するところまでは至っていないのは悔しいところであろうとおもう。1988年の大接近では宮崎勲さんが貴重な存在となり、その活躍は海外にも知れ渡ったけれども、まだCMOの観測方法の普及自身は機器の進歩ほどには速くない。

 

閑話休題:南さんは事実198861日に懸案のワープロをぶら下げて機上の人となり、再び台北に向かわれた。622日に『火星通信』第54号の必要原稿を圓山天文台の図書室で打ち上げられた由だが、以後、台北から私のところへの国際郵便の発送には毎回足が無いため苦労されたようだ。この時は王永川氏に願ったようだが、日は遅れたらしい。この年の火星の最接近は922(衝は28)であった。第58(25 August 1988)には最接近後の火星の動態としてグリッド図が2Jan(δ=9.5”)まで出ている。1124日に第64(25 November 1988)を完成し、南さんは半年間圓山天文台で観測を続け、516葉のスケッチを熟され、1130日に台北を離れ、京都に無事帰着された。その間『火星通信』については私と連絡を取りながら定期的に関わり、第65(10 December 1988)には11月後半のOAAの観測報告と11月後半の黄雲騒ぎの要約を執筆し、南さんの台北最後の日のことなども書かれている。前夜は蔡台長と陳氏(PK)の三人で士林の屋台で懐かしい広東粥などを食べたとある。重い観測資料などを携えて台北離陸の日は國立臺灣大學の張國龍教授に最後まで見送って貰った由である。

 

1989年の正月初めには福井市立自然史博物館に南政次さんはじめ中島孝さん、阿久津富夫さん、宮崎勲さん、熊森照明さんなどの皆さんが参集し、私も中島秀夫氏と共に参加した。

私はこの年も三人組として『火星通信』の発行に携わったが、私が単独で最も力を入れたのは「1988年火星面観測リスト」の作成で、第74号に1895点、第79(10 Nov 1989)1422点を網羅したことである。NumberCode名、DateωφLsδιApparatusRemarksの順で記載した。また、1988年のLtEはずっと割愛していたので、1989年にLtEスペシャルとして、1988年のLtEをまとめて打ち込み、五回ほどに分けて連載もした。

 第86(25 April 1989)1990接近の第一号でもあった。第94(10 October 1990)LtE欄には村上昌己氏が「中島孝氏からお手紙を、浅田正氏からはお手紙と『火星通信』の86号よりのバックナンバーを送っていただきました。ざっとですが読ませていただきまして、火星観測と『火星通信』にかける皆さまの熱意と気合が伝わってくる気持ちがしました。・・・」と書かれ、次いで1986年から火星を見ていること、1988年にはNikon10cm屈折でスケッチ、写真とも可成り成功したことや現像処理のことなども触れられている(29 Aug 1988 at 15:24GMTにはNovus MonsTP上に分離した)。この第94号の末尾の「お知らせ」には中島孝さんが、私が翌年のアメリカ留学に伴い、宗像の事務局を福井に移すという予告を行っている。主な会計処理も私の口座から中島さんの新口座に移す旨の通告が出ている。第97(25 Nov 1990)の末尾(p834)には中島孝さんの半頁にわたる挨拶があり、事務局を中島さんがシー・エム・オー・フクイを管理することで、新しい口座番号の発表があった。かくして第979899号の末尾にはシー・エム・オー・フクイの口座番号が記載されるようになり、第100(1 January 1991)の新年のオープニングには南政次さんと中島孝さんの名前が並ぶだけで、私の名前はやっと消えた次第であった。この号の最後には中島さんのコーナーがあり、会計関連やお知らせ、カンパしていただいたかたのお名前などが記されている。このコーナーは常設を基本としたかと思う。

 かなりあとになるが、第171号 (25 January 1996)は創刊10年記念号で、珍しく表紙と裏表紙はカラー印刷でパーカーさんの1995年の画像が使用された。このときは私に代わって西田昭徳さんが編集部に入ったようで、三人組に戻った。

 

 ドン・パーカー(DPk)さんは南さんと同い歳ということもあり、南さんは特別意識されていたのではないかと思う。リチャード・マッキム(RMk)さんは若いが、歴史のあるBAAだから南さんは意識されていた。ときどき喧嘩を吹っ掛けるということも見られたから、マッキムさんには南さんは怖い存在ではなかったかと思う。この両名にはそれぞれ 唐那・派克、理査・麥肯という漢字名を付けて使っていたぐらいであるから特別なのであろう。

私は木星にも興味があったから、パーカーさんの画像には火星であれ木星であれ注目していた。

私が『火星通信』事務局の仕事を中島さんにバトンタッチして19919月にアメリカのコーネル大学(1865年設立、アイビーリーグの一角)Peter GIERASCH教授のもとに留学したのだが、その際に、是非ドン・パーカー(唐那・派克)さんにはお会いしたいと思っていた。

Cornell大学にはカール・セーガン博士がまだ存命で、惑星物理学ではGIERASCHが火星の黄雲の理論や惑星の大気構造に関して先駆的な仕事をされたかたで、最近2014年にはカイパー賞をもらっている。

 


アメリカ滞在半年過ぎた19923月に、フロリダ旅行が叶った。Cornell大学のあるイサカの町はニューヨーク州で、カナダとの国境にも近く雪が降っていたが、フロリダはもう初夏のようであった。家族の希望で先ずディズニーワールドへ行き、次いでケープ・ケネディのロケット発射基地を見学し、そのあとマイアミでドン・パーカーさんとその友達にお会いすることができた。当時は冷却CCDカメラがようやく普及し始めたころで、パーカーさんは当時評判のSpectrasource Lynxx Cooled CCD Cameraの使い手として第一人者であった。運河沿いのパーカーさんの自宅を訪問し、CCDでの撮影のミソを幾らか教わった。当時53歳の大きい体躯のパーカーさんはお元気そうで闊達に見えた。

 


一段落して、パーカーさんの天文仲間と食事に出かけた。ビーシュ(JBs)氏やヘルナンデス(CHr)氏もおられたと記憶している。たまたま私の家内の誕生日だったので、サプライズでケーキを用意していただいたのを思い出す。帰りにパーカーさんの運転の車でホテルまで送っていただいたが、彼が、同乗していた誰かとおしゃべりに夢中になっていて、曲がる角を見過ごして直進してしまったことがあったのも愉快な思い出である。

私はまだ、理査・麥肯さんにはお会いしたことがない。南さんは2009年にパリで逢われたようである。

 

『火星通信』30年のうち、私が直接お手伝いさせていただいたのは、最初の5年ほどであったが、私にとっても良い経験になったし、今でも時々懐かしく思い出している。南さんの健康が許す限り、『火星通信』が今後も続いて行くことを切に期待している。