追 悼 


 

ぶ     

              中 島 孝   (福井市、福井県)

   太平洋戦争直後、朝鮮半島北部から引き上げ、父の郷里福井県清水村に寄留する事になったが、三男坊の父と農業に全く未経験の商家の娘だった母にとっては定住の地ではなかった。 その後3年を分教場巡りをし居住地が代わるたびに、うろ覚えの土地の福井弁を貶されながら、一家は福井市に転住して、分教場しか知らない私には巨大な規模に見えた湊小学校に転校し3年後、福井市光陽中学校に入学することになった。1952(昭和27)年4月、級友のH君と友達になり、下校を共にした。 二人とも天文に興味があった。クラブ活動〈当時は部活とは称しなかった〉のサイエンスクラブで天文ができるらしい、部長は花山さんという人だと探った。二人で三年生の教室に恐るおそる出かけていったが花山さんらしき人が数人の級友に囲まれて談笑しているところに近づくことはできなかった。後日、再度挑戦したが不発に終わった。と、そのうちH君は明道中学へ転校していった。一人ではとても、と断念し、来年こそは、と念じた。そして、二年生になった。サイエンスクラブの部長は南 政次という人だとわかった。見覚えのある人だった。湊小学校時代のとても背の高い南さんの姿だった。ある日の放課後、偶々図書室に入るとちょうど南さんが書見中だった。他をおいてはない、今だと決意した。福井弁はまだ怪しかったが、おずおずと入会を申し出た。南さんは、あの独特の人を魅了する笑みを浮かべて招き入れてくれた。やった!と心の中で叫んだ。爾来60年、南 政次さんに兄事することになるとは・・・感無慮である!

   サイエンスクラブのたまり場は理科室で(部室などはまだなかった)、アカデミックな南カラーの活動が行われた。晴天の日なら昼食後、中庭に五藤光学製の口径5.6cmのウラノス号をセットして黒点観測を実施した。太陽が顔を出せば必ず観測記録に記した。黒点の動きが投影図上に経緯度によって日々ズレていくことで太陽が気体であることが実感させられた。生徒会活動ではクラブの編成替えがあってサイエンスクラブは天文部に独立・改称された。後年、10年位経ってから太陽黒点の長期観測で天文部は表彰されたようだ。

   夜間観測は、当時の福井市は中心部から少し離れると光害(この言葉も当時はまだなかった)もほとんど無く澄みきった空で天の川が迫ってくるようだった。肉眼でも銀河の細部まで見え、田園の只中にある校庭に設置された小口径のウラノス号は、私たちの期待に十分応えてくれた。星図を頼りに星雲星団を探訪した。思い出深い宇宙の散策だった。 南さんの導きでヘラクレス座の球状星団M13やアンドロメダ座の大星雲(銀河)M31などを堪能できた。 観測途中で曇りになると理科室に戻り、南さんのレクチャーが始まる。いつもホットな話柄を用意され、長けた話術で私たちを熱中させた。仮眠のときはお守りの軍用毛布を愛用した。朝鮮半島から引き上げの時プサン(釜山)で連合軍から支給されたものである。理科室の戸袋の中に観測用具と一緒に仕舞っておいたのだが魔法の絨毯のように何処かへ消え失せてしまった。

   1954年と1956年は火星観測史上のエポックメーキングだった。それまで火星面上の常識と見なされていた事柄が新知見に取って代わる時代の始まりだった。極冠溶解の問題、地形の変形の問題、季節毎の地形の濃淡の問題、カナルの問題、 黄雲の問題等それぞれが独立した現象と捉えがちだった。そこに気象という補助線を引くとほぼ一括りに議論できると明察したのは南さんが初めてだったのではないか。 1986年からCMO/ISMOという月刊の通信誌を日英語で組み、論壇(Conference)を設け、世界に発信して、火星表面の現象に學の位置づけを与えるべく観測と考察を進めてきた。足羽山の博物館の夜の住人になっていた。精緻なデータを積み重ねながら望遠鏡で火星との対話を楽しみ、その上で物理学者の視点に立ちデータの解析・統合を行い、議論を展開していくのが南さんのスタンスではないかと思う。地形が個々に変化したり動いたりするのではなく有機的な気象現象だと喝破したのは南さんだろう。大黄雲の発生や移動も台風やハリケーンとは異なるメカニズムであると提唱された。連続した長期にわたるRemote sensor(遠隔の地球からの)火星の気象観測は小・中口径の器械を操作して十分参加できる点がアマチュアの存在理由である。 

  生業のために行うプロフェッショナルと違ってアマチュアのラテン語の綴りの中に”アモール”というコアが入っている。愛でる、慈しむ、という意味だ。金銭を抜きにして例えれば、プロの庭師でなくても、ガーデニングを楽しみ愛でる、という関わり方ができる。このようなピュアな愉悦エンジョイメントがある。

 

   われわれはここに南 政次先生を偲び、南 知子夫人とご家族に哀悼の意を捧げます。

 

 (33日 来信)

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

  南さんの思い出

浅田 正 (宗像市、福岡県)

南さんに初めてお目にかかったのは、私が大学に入学した1973年の秋だったと思います。宇宙物理学教室の屋上に五藤光学の15cm屈折望遠鏡があって、惑星の写真を撮りたいと天文同好会に入っていた私は、火星のスケッチをとりに来た南さんに大黄雲のことをいろいろ教えていただきました。1973年にはソリス湖に大黄雲が発生したのでした。

その後私は大学院に進んで、花山天文台に出入りするようになりました。南さんも当初はザルトリウスの18cmでスケッチをとるはずだったのですが、ツァイスの45cmも覗きに来て、「これは良く見える」とおっしゃっていました。

1986年には「火星通信」を始めるので手伝ってくれと言われました。世界中の火星観測者の成果や意見交換の場を提供するということでしたが、ご自身の考え方や見方を発信するという目的もあったのだと思います。

ただ、ご自身は台湾で観測をするとおっしゃるので、1回目は切り貼りの仕方や印刷・製本を教えていただきました。そして2回目からは、航空便で送られてくる南さんの原稿を、私が一太郎で入力して印刷し、切り貼りして、コピー機で印刷して製本し、世界中に送っていました。これを2週間に1回やるのですから、大変でした。南さんの筆跡が達筆すぎて、どうしても読めない漢字があったりしました。私が家族とアメリカへ留学するまで5年ほど、この作業を担当しました。

2004年にビル・シーハン氏が来日されました。その折、長崎→宗像→佐治→三国→飛騨→伊那→親不知→穴水と私の車でお連れしました。(初めての道なのでカーナビだよりでした) なんとか穴水に着いたときはほっとしました。

2016年から、ハワイの望遠鏡を日本から操作して木星を撮影していますが、空いてる時間は火星も撮影させてもらい、南さんに画像を送ると、たまにはほめてもらえるので、やる気が出ました。

昨年の年末にいただいたメール(お歳暮のお礼状)でもお元気そうだったので、こんなに早くお亡くなりになるとは、思ってもみませんでした。

南さんには本当にお世話になりました。ご冥福を心よりお祈りいたします。

(212日 来信)

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

常間地ひとみ / 常盤 優 (横浜市、神奈川県)

南さんのご逝去のお知らせを受け、寂しさを禁じえずにおります。東亜天文学会誌『天界』に寄稿したことがきっかけで知り合うことになり、太陽観測しか知らなかった門外漢の私に火星観測の御指南をいただきました。『火星通信』の会合にお邪魔させていただいたこともありましたが、結局ご期待に添えず皆様のお仲間に入ることはかないませんでした。

現在は俳句結社「炎環」の同人として作家活動をしています。201711月に句集『いきものの息』を紅書房から出版いたしましたが、このご報告すらしなかったことを後悔しております。本当に申し訳ありませんでした。火星の話題が上がるたびに、福井の話が上がるたびに、思い出していたのですが、すでに私はお役に立てなかった過去のひとであろうと、遠慮していたのです。

南さんの強い思いの詰まった『火星通信』は火星観測の歴史に残る貴重な文献です。そのほんの一端にかかわることができましたことを心よりうれしく思っております。

ありがとうございました。

(214日 来信)

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

拝啓 南 政次 様

比嘉 保信 (那覇市、沖縄県)

南先生に初めてお会いしたのは1998年お正月の福井での会合でした。「火星通信」に登場する足羽山、足羽川、福井市自然史博物館、九頭竜川がとても身近に感じられました。

 CMOに入会した時、眼視観測(スケッチ)かビデオ撮影のいずれかで迷っていました。スケッチを試みましたが役立つようになるには2~3回の火星接近を経験しないと駄目だと判断しビデオ撮影一本に絞りました。赤外線監視カメラCi-20R流行りの頃でモニター上の火星模様は素人の私にも理解(少なくとも眼視で見るより)できました。

 ある時、火星面の朝方に全体の1/3を蔽う程の明るさが見られ時間の経過と共に縮小していく様子が観られました。これが黄雲か?と思ったのですが、送られてきた「火星通信」で広大な朝霧であったとの解説でした。「火星通信」の観測解説は良く解らなかったのですが、全体の内容はとても面白く手にするのを待ち遠しく感じていました。毎号解説される火星模様の名称は馴染みがなく、「天文年鑑」にある南先生の火星図と何時も首っ引きで、接近を何回か迎えて火星観測は火星の気象観測であると理解しました。気象衛星から地球の雲を見るように・・・。

 それまでは表面模様を気にしていましたが、雲の明るさや変化にも注意するようになりました。火星朝方の朝霧下に観るシュルティス・マイヨルは、なだらかな淺葱色と称する魅力的な色で、木星のフェスト-ン色を思い出させます。

 「火星通信」で一番の楽しみは南先生の「夜毎餘言」でした。的確に芯を突く辛辣な表現は読んでいて惑々するものがありました。

 火星観測で重要な事は火星通信で何度も説かれていた、経度を合わせた40分観測であることを学習しました。まだ、身についていませんが忘れることはありません。

 ある夜、暗闇の地面に光るものが見えていて軽い気持ちでガラスか何かに光が反射して見えているのではないか、と言ったところ、そんな好い加減(適当)な事では駄目だと諭されました。そうであろうではなく、そうである事を証明しなければならないと。その時初めてほんとうの科学者の一面を目のあたりにしました。因みに光っていた物は缶タブでしたが、後々この思いは考古学(私的)の広田遺跡出土・貝符製作や平田遺跡出土・鉄石英細形管玉の穿孔技術解明に大きく影響しました。

 この先、自らの実視観測と世界的な観測を統合したものから、信頼のおける解析をされる南先生のような方が現れるのでしょうか?  

(219日 来信)


日本語版ファサードに戻る / 『火星通信』シリーズ3 の頁に戻る