資 料 整 理 その二


 6月の三国訪問では、南氏の遺された火星観測資料の中で、90冊のスケッチブックになっていた南氏の観測(19682018)をロ-ウェル天文台のパットナム・コレクションへ収めるために整理をした。1973年の一冊だけは、福井市自然史博物館別館のシレーン・プラネットに展示用に別に収められている。これもいずれはローウェル天文台に送られることになると思われる。発送は8月の下旬になった。

 


 

 823日から西田氏の夏休みを利用して、二回目の資料整理のために三国を訪れた。前回の時に火星課に寄せられた各氏からの観測報告や来信、またCMOのバックナンバーなど、南氏の私物ではないものを、西田氏の天文台に移動して整理することにしていたためである。

 資料の保管に関しては、東亜天文学会本部にも相談をしたが、各課に寄せられた観測資料の保存は、これまでも本部ではおこなっていないとのお返事があり、散逸を防ぐために今回の処置となっている。

 村上は23日の午後二時過ぎに芦原温泉駅に着いて、西田氏の出迎えを受け西田天文台へ移動して翌日からの行動計画を話し合った。24日には三国のお宅で搬出するものの仕分けと移動をすることとして、25日には西田天文台で、整理作業をすることとなった。

 


 

 24日には中島孝先生と三国駅で九時半に待ち合わせて三人で三国のお宅へ向かった。

先ずは、既に存在が確認されていた1954/55年接近時のスケッチと観測ノート(19546月~12月、12月~19553)の突き合わせをした。これは南先生が高校生の時の接近で、スケッチのナンバーと観測ノートの内容が一致するのを確認した。スケッチはB7版くらいの大きさの用紙でナンバーだけが記されていて、日時など他のデータの記入は一部のものだけであった。ノートの記事の内容に関しては、当時からお付き合いのあった中島先生に査読していただいて、一致することを確認している。その他にも1968年までの間を埋める1958196019631965, 1967年の各接近の観測もあると思われるが今回は見つからなかった。

 


 

 始めに15冊ほどにファイリングされている観測者からの報告の運び出しをした。次には、私は1956年からの暦表の整理、これは山本天文台から送られていた米暦のコピーで、今のAlmanacの前身にあたる資料である。他に水路部発行の天体位置表のコピーもあった。これは「天文年鑑」執筆時に出版社から送られてきたものであろう。他にも佐伯恒夫氏からの手書きの暦のコピーや、浅田正氏からのものと思われる、コンピューター出力用紙のものもあった。西田氏は『火星通信』バックナンバーの運び出しにあたった。発行号毎に袋に収められていたが膨大な量で、段ボール箱で幾箱にもなった。西田氏は自宅との間を何往復かして資料の移動にあたった。

 奥様の手作りの昼食を頂いて整理作業は続けられた。確認にお立ち会いくださった中島先生は16時過ぎに退去されたが、我々は作業を続けて、天界のバックナンバーなど雑誌類。火星課宛の来信。写真・ネガなどの画像資料が搬出された。18時前には我々も退去して、西田天文台へと向かった。この日運び込まれた段ボール箱で、天文台の一階は足の踏み場もなくなっていた。片付けは明日とのことで、夕食には福井名物「おろしそば」を頂く事として外出した。

 


 

 25日も朝九時過ぎからの作業で、資料の分類とファイリングをした。時系列に並べ直して棚への収納が主な作業となった。『火星通信』のバックナンバーもバラバラになっているものが多数あり、整理収納には時間が掛かりそうであった。お昼過ぎまで作業をすすめたが、村上が帰宅する列車に乗る時刻が近くなって作業終了となった。昼食後に、芦原温泉駅15:24発の特急「しらさぎ」で帰路についた。

 

 今回は運び出すことが出来た資料は、全体の半分ほどで、残りは内容を確認しながらの作業になるかと思われ、なお数回の三国訪問を予定している。

 

 パットナム・コレクションへは、佐伯氏研磨の20cm反射鏡を組み込んだ西村製作所製作の経緯台も寄贈されることとなった。此の望遠鏡は南氏が大津の官舎での観測に使用していたものである。

南氏は19825月から、村上が譲り受けた199812月まで、此の望遠鏡を使用されている。現物は現在は村上宅にあり、発送準備中である。

 

 

村上昌己 記


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