巻頭エッセイ

 

ニューオーリンズのラフカディオ・ハーン

失われた世界:ハーンとパーシヴァル・ローヱル

 

ウィリアム・パトリック・シーハン 

(中 島  孝・仮訳)

CMO/ISMO #390 (25 October 2011)

 


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CMO

会報の読者の頭に何時も掠める主な事柄といくらか関わりはある事と思うのだが、大抵の皆さんがご存じのラフカデイオ・ハーン(1850-1904)についてCOM会報に少々執筆するよう南政次氏から要請を受けたので一筆したためることにした。ハーンは西洋において日本のあらゆる文物を広めるために多くの書物を書くという役割を背負ったが、パーシヴァル・ローヱルと個人的な関わりはあまり無かったことはよく知られているのだけれど、ハーンはローヱルがそうであったよりも日本文化について深い共感を抱いていた。もっとも、それはローヱルの日本熱そのものとローヱルの著した最もよく知られている『極東の魂』がハーンに超弩級の熱狂を与えたことに発している。(ローヱルの本を読んで「わたしは君に本を一冊進呈したい」と1889年に友人に便りを書いて「それは驚天動地させるような書物、神にふさわしいような本だ。今までに書かれた東洋に関する書物の中で一番だ。わたしは君にその本の一字一句を読んで欲しい。それは東洋についての分量はたいへん少ないが私の持っている書籍全部以上の内容だ。ひとりのアメリカ人が書いたんだよ!」と述べている。)結局、ハーンは日本では何でもアベコベで、多くの点で西洋とは逆だ、というローヱルの考えに夢中になったが、ローヱルは「さなぎの中で人間の魂がはためく」のをはっきりと認めた、とハーンは考えた。ハーンはローヱルを先達として熱心に従った。

 

  ラフカディオ・ハーンは国亡き人である。少なくとも居住国を持たない人であった。レウカス(レフカス)島で英国系アイルランド人の海運軍医と無学だが美しいギリシャ女性の間に生まれた。ハーンの父親は彼女が妊娠したことを知るとダブリンの親戚に二人の世話を頼み、単身カリブ海で新しい任務に就いた。幼いパトリック・ラフカディオ(この名前は出生地レフカスに由来する)7歳までに母親はギリシャに戻り、二人は再び顔を合わすことはなかった。それから厳格な大叔母の下で非情な躾を受ける立場に置かれた。彼女はイギリスの寄宿学校に彼を入れたのである。その学校の校庭で取っ組み合い中に片方の目を怪我し、視力を失った。次にフランスに転校させられた(そこでの級友にギー・モーパッサンがいた。) 彼が19歳になるとついに家族は金輪際パトリックの面倒を見ないと決め、シンシナティ在住の遠縁に追い払った。この街はオハイオ川に沿う、大半がドイツからの移民で賑っていた。この親類は当然のことのように彼には何の関わりも持とうとしなかったので、却ってその後彼は自由に振る舞うことができた。

F. フデリック・スターの伝記によればシンシナティにおいて、「ハーンはどこにも適応せず、家庭と呼べるところを日々捜し求めてきた。」社会的に足場のない彼はパーシヴァル・ローヱルに気持ちを寄せていた。ローヱル家の葛藤はハーン家とは異なっていたが、アイデンティティを捜し求める旅を通して答えを見出そうと、自分の生き方の方向に、少なくとも一時期、休みない不安に駆られることを経験しない人はいるだろうか。シンシナティにおいてハーンは、背丈はわずか5フィート3インチのやや小人のような体型で、丸くふくらんだ肥大した左眼と不自由な右目を持つ大人でしかなかった。シンシナティの「エンクワイアラー」に駆け出し記者として採用された。間もなく彼は邪悪で強欲な「ポーコポリス」として知られていた町の下部の泣き所を報道して一躍名を上げた。暇なときにはフランス文学に没頭し、当時、アメリカではどこでも禁忌だったが、アイルランド人の血の混ざった奴隷上がりの娘と結婚した。その結果「エグザミナー」紙は直ちに彼を解雇した。しかしながら彼がシンシナティを去る前にルイジアナの競争相手の新聞に連載記事を書くことを承諾した。この連載記事の報酬によって新しく設立されたニューオーリンズの「シテイ・アイテム」に拾われるまで自活することができた。

クリストファー・ベンフィーの Great Wave: gilded age misfits, Japanese eccentrics, and the opening of old Japan (訳本あり、南氏によって何度か紹介されているが、『グレート・ウエーヴ』として2007年に大橋悦子訳で小学館から出ている)はハーンについて次のように云っている。「彼の生活のパターンは、ある場所に到達することなのだが、彼が愛する事柄が消滅する寸前であるような場所に到着してしまうことであった。」 彼の時代のブルジョア文化の近代思想の複雑さ、あまりにきちんとした、また気取りすぎの、情緒的に貧乏な世界から後ずさりして自分自身の子供時代をほとんど完全に失っているハーンは、抑圧されない感性と想像力に富む経験を目指し、子供の能力を理想化し得る後期ビクトリア朝の風潮を信奉していた。これに関連して「未開の」即ち産業化されていない時代の人々、純朴で活気に満ち、社会に毒されていない魅力あるものと見られていた人々を理想化する傾向があった。ハーンは心理学者スタンレー・ホールの疑念、即ち「文明は根源においては必ず病的なもので、反動的に崩壊する」と云う疑念を共有していた。 T. J. ジャクソン・リアズがその著No Place of Grace: Antimodernism and Transformation of American Culture1880-1920で言及しているように、ハーンは、人々は「多くの点で子供族」である「おもちゃの国」として見ていた国、日本で自分の理想を捜し求めようとしたことは明らかであるが、彼は最初「優しい印象主義」と呼ばれていたものをニューオーリンズに応用してみた。

新参者のハーンにとって1877年のニューオーリンズは「香水と夢」の土地のように見えた。丁度後の「その実を食べると浮世の苦しみを忘れ楽しい夢を結ぶ国」と日本が思えたように。スターは問う:

「日本語を一言もしゃべれない報道記者が二三年もしない内にどうやって英語圏やヨーロッパ世界において日本文化の第一の解説者に納まったのか? より適切に云うと非日本人が、日本様式を取り入れた部外者でも日本人が自身をより良き自我像と賞賛する日本文学観をどのようにしてつくり出すことが出来ようか?

その答えは、ある程度ルイジアナに関する彼の初期の著作に探さなくてはならない。       

「ルイジアナに話を戻してみると、ハーンは正確な観察力を身につけていた。詳細に関する記述法とその細部の事柄が地域社会の文化のより大きな特性にどのように関連づけられるかを習得した。

 同様に重要なことは、互角でない戦いで悪に対して神を対抗させるマニ教の世界観を彼は明らかにした。温和で、審美的に豊かで女性的な、官能的ではかないクレオール文化は拝金主義のアングロ-サクソンの世界に徐々に消えていくことに対する彼の見解は明治時代の日本に伝わっていくだろう…..

 「要するに、ハーンはニューオーリンズで働いていた時に初めて培った考え方と手法を用いて明治日本のクレオール版を構築した・・・。 ハーンによる日本のポートレートの諸相は彼が来朝したときルイジアナ時代の成果や彼自身の苦悶した精神生活の産物を詰め込んだ鞄を手にしていた。その中身の大部分は日本人に受け入れられた。」

 

 今日でもニューオーリンズに旅行する人々は、手短かに言えば、スターの言葉だが「人間が一部品にすぎない現代社会から逃亡し、その終焉の直前に美とエロスの罪の少ない世界に楽しむことは許される。」 彼が探していた世界が彼の面前でまさに消え去ろうとするときハーンがつくった心像にまだ虜にされている。ハーンがクレッセント市に到着して直ぐ18871119日に書いた「At the Gate of the Tropics」からの次の文言が特徴を出している。

(一寸日付に注意して欲しい。他のところで何が起こっているか。ジョヴァンニ・スキアパレッリがまだミラノで火星を観察していた時期である。一方、パーシヴァル・ローヱルは大学院を卒業して「Grand Tour of Europe」から戻り、ステート・ストリートにある父親の事務所で働き始めようとしていた。)

 

「ニューオーリンズの最初の居印象を記述するのは簡単なことではない」とハーンは書いている。 「何故ならば地球の上にあるどの街ともじっさいに似ていないのにそれでも何百にも當たる街の記憶を思い出させるからである。それはイタリーやスペインの下町や英國とかドイツの街のあるいは地中海や熱帯地方の港の面影をもっている。幅の広い威圧的な門を持ったキャナル通りはロンドンのオックスフォード通りやリージェント通りの思い出を与えるし、ルアーヴルやマルセーユの記憶がオールド・フレンチ・クォーターからも得られるし、ジャックソン広場には幾つかの建物があって、それはスペイン系のアメリカ人の旅行のだれかにはニューオーリンズが外国人に与える魅惑の力は街自体の熱帯的な美しさよりもこの特異な性格に依るものと思い出させる、と私は想像する。旅行者がやってくるときはいつでも彼はクレッセント市では彼の家の記憶を幾つか見つけるかもしれない--彼の父祖の地の思い出--彼の愛している何かの記憶を見つけるに違いない。」

既に1884-85年の夏までにハーンは残念なことに彼がそれまで愉しんだニューオーリンズがミシシッピー河畔の苔で蔽われた樫の間に匂う散歩で愉しんできたニューオーリンズが素早く消えつつあった。その年World’s Industrial and Cotton Centennial Expositionが行われ、ハーンは電気の明かりが百万の月が一時にゆっくりと明るくなったの眺めた。偉大な産業の前兆であったのだが、ベンフィーが書いていることによると、ハーンにとっては終わりの始まりであった。ハーンがニューオーリンズに来たのは、正確に風変わりなもの、奇妙なもの,見知らぬもの、エキッゾチックなもの、奇怪なものの敬愛に依っていた。かれはクレッセント・シテイを離れマーチニックへ行こうとしたが、そこで彼が望んだものはまだもっと本物のクレオールの世界を発見しよう望んだからである。これはローヱルの本に出会う前のことで、彼が日本に最終的なゴールを見つける先驅となった。(ローヱルに関しては日本に逆に幻滅し、火星に向かったのである。)

 

 

   われわれの大抵の大切にしている光景の一部が郷愁の中では泥まみれになってしまうのだろうか?  

ハーンは結局日本では、小児のような「優美さと単純さ」の「純粋な民族」の世界が劇的終末に近づきつつあることを知る事になる運命にあった。事実、ハーンの死後一年も経たないうちに、大抵の西洋の観察者にはこれが明らかになったのである。つまりそれは旅順港でロシアが日本に惨敗したことにショックを感じたということで、もはや日本は「小児」の国ではなく、教育的にも都市化したエリートによって成り立っている国であり、国際的に西側の実力のライヴァルとなるような道をいち早く進んでいたということである。

ローヱルの火星もまたハーンの日本(あるいはニュー・オーリンズ)の様におなじくロマンティックな衣をはぎ取られることになる。ローヱルの火星も充分に致命的に消滅しかかっている運命にあった。その海は既に枯れ果てて、充分に砂漠化の進んだ状態にあった。ローヱルの火星人は火星全面にわたって彼らにとっても絶望的な運河網を敷き詰めることによって自分たちの生存に固執していた。ローヱルが指摘していることだが、その居留民をわれわれの知己とするに充分値するような人達であった。これは丁度、ハーンがニューオーリンズで「有色のクレオール」を発見したときのようなもので、両方とも、稚児みたいな、女性的なそして中世の日本人のように芸術的な人種を想定している。

 ハーンもローヱルもエキゾティックな世界、郷愁や後悔や喪失の世紀末の世界、を探したのである。つまりはニューオーリンズ、日本、そして火星であった。 

   「私はニューオーリンズの美しさを熱狂的に語ってきた。しかし、今はその崩壊を、苦しさをこらえて語らなければならない」とハーンは書いている。「 街はゆっくりではあるが、確実に消滅しつつあり、黴が生えつつあり、 崩壊しつつある。」

   「一時は『十日物語』の熱烈な絵に似つかわしい贅沢なロマンティックな裏庭を形作っていたような庭も雑草が生え、その真ん中の古風な観覧の家も黴が生え、崩壊しつつあるように、この優雅で古風な街もルイジアナの瓦解したパラダイスの真ん中で黴びている。同様に南部の古い町が黴びてきている。その繁栄の根源は綿や米や砂糖の農園主の途方もない富の中で養われることにあったのだが、その富も消えてしまったのからである。」

  「私の考えるところ、戦争の憎悪が燃え尽き消え去ったときや、没落した農園主の子孫が、伝統を思い出すように彼らの不幸を思い出すとき、あるいは丁度ラグナロク(神々の黄昏)の火からスカンディナヴィアのエッダの新しい世界が作られたように、新しい社会のシステムが古い灰から起こってくるとき、そのときは古い農園をふたたび肥沃に成らせよう、そして原綿の世界が綺麗に取り払われ、あれら南部の街の命も復活しよう。 しかし、新しい南部は古い南部と同じようにはならないだろう。苔むしたように崩壊しつつある あのようなかつての大邸宅はもう決して再建されることはない。古い・・・農園はもう南部人ではない合衆国のあらゆる農民に区分けされてしまうだろうからである。そしてニューオーリンズの外国風の美しさも決して蘇ることはないであろう。新しい南部は恐らく古い南部より遙かに金持ちになるかも知れないが、しかし、そこには貴族性はなくなり、束縛のない贅沢な生活もなく、気違いじみた贅沢な快楽の追求もなくなるであろう。古い南部のもてなしも瀕死の状態で、先祖が蓄えた薄羽蜻蛉のようなロマンスの痕跡も残さないだろう。崩壊の時期というのは私にとっては南部の歴史のロマンティックな時代の終焉としか思えない。」

 

 そこでまた、『極東の魂』の中で、ローヱルが喚起したのは「美は滅ぶ」という同じ考え方である。どういう美かというと、美しく、稚児のような人種の美で、それはもっと強靭な、かつ世慣れた、西洋人によって打ち負かされようとしていた。

 「丁度、朝が確実に午後になるように、確実にこれら極東の人種は、もし変わることがないならば、西洋の先進国の前で消滅する運命にあった。彼らを地球の表面から消え失せさせるがいい、そうすればわれわれの惑星は結局のところ日暮れを迎える居住民の所有となるであろう。・・・彼らの涅槃は既に実現しつつある。既に、涅槃は極東アジアを経帷子に包み込んで仕舞っていた、彼らの日々の経帷子はしかし夜明けであった。あたかも丁度それは彼らの住処に「日の昇る土地」とか「閑かな朝の土地」(朝鮮のこと)といった名前を予言的に与え続けるのに似ている。

   結局、ローヱルはMars as the Abode of Life を同じ様な哀調で結んでいる。  「そのような存在 にはより哀しい運命が付きまとう。つまり、宇宙的観点からはそれは直ぐに消え失せるということである。 火星上の生命の最終的な子孫というのは最早詳しく調べたり会話をしたりすべきものではなくなるだろう。それは研究あるいは追想する望みを越えて足早に衰退してしまっているだろう。 このようにわれわれにはそれは長続きをしないという事実から却って新しい魅惑を呈するのである。なぜならば、現在の状態に運び込んだ過程は苦い終末に行き着くであろうし、それは火星の生命体が消滅する最後の輝きまでということになる、からである。あの惑星が乾ききってしまうことは確かなことで、それは表面が最早どの生命体も維持できないというところまで続くのである。ゆっくりとしかし着実に時間がその存在を絶やすのであろう。  最後の残り火がこのように燃え尽きるとき、この惑星は死の世界の一つを宇宙に投げつけるのである。こうして進化してきたものも永遠に終焉するのである。」

 

   過去や遠くのもの、エキゾチックなものに対して感傷的になったりロマンティックになったりするのは人間に深く刻まれた傾向である---そしてわれわれから離れエキゾティックになってしまう。事実、われわれが知っているように、火星人は消滅したのではない、これまでも存在しなかったのである。われわれが郷愁を持った漠然とした眼差しで想像する他の世界はしばしばわれわれの子供時代の想像力のように理想化され、金ぴかのもので、心の中にのみ存在し,他の何ものでもない消え失せるものの集合体である。そして長続きのしなかったものの目映い活気は生命の活気そのものであり、それは苛酷なまでにわれわれから離れ、束の間だけ把握できるといった種類のものである。

     


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