CMO Ina Meeting Report (3)

 

The Shiwojiri Toge

and the Inn at Shiwojiri

 

 

村上 昌己 Masami MURAKAMI

 

 塩尻峠は分水嶺であるとの記述がローヱルの『能登』に見える。峠の東側に降った雨は諏訪湖から天龍川へ流れ出し、彼の通った経路のように浜松に出て太平洋に注ぐ。西側に降った雨は松本で梓川の水を合わせ犀川となり、長野では千曲川と合流して北行し信濃川となって日本海へ流れる。現代の日本人でもあらためて地図を眺めなければ判らないようなことを、明治の中頃に旅した異国の人間が記していることは大きな驚きであり、ローヱルの能登への旅行の興味の原点はどの様なものであったのかも考えさせられる。

 

 明治22(1889)、能登の穴水からの帰路に、越中側から針ノ木峠を越えて信濃側へ出るという目論見は立山の険路に阻まれて立山下(リュウザンジタ)で断念、海岸沿いの往路を戻ったローヱルは、天龍川沿いに太平洋岸に出るべく長野から松本へ向かい、途中塩尻宿で一泊している。塩尻峠を越えずに辰野へ出て天龍峡谷へ入る事もできるが、下諏訪で郵便物を受け取るために少し遠廻りをして峠を越えて諏訪側へ下った。当時、鉄道は東京方面から岡谷まですでに開通して、絹織物輸出のシルクロードであったから、天龍へ戻ったのはローヱルの選択は新しいルートである。Hk氏の調べに依れば、ローヱル以後、天龍川下りをした外国人は数年で百人を超えているそうである。

 

 今回の我々のルートは逆走だが、下諏訪で「桔梗屋」などに立ち寄ったあと、峠を越えて塩尻へと向かった。晴天だったが遠望が効かずローヱルの記述にある乗鞍岳も富士山は残念ながら見えなかった。塩尻宿は現在の塩尻市街から中山道を塩尻峠に登る途中にあり、現在でも古びた幕末の旅籠が重要文化財「小野家住宅」として 残っている。この塩尻宿の本陣、脇本陣跡はともに表示がされていて、街道に面している。ローヱルは此処の脇本陣に宿泊したわけである。この宿に外国製の調度品があったこと、宿の息子が英語を話せたことなどが記述されている。脇本陣跡(本陣跡のとなり)には、当時の建物は保存されていないが、「川上氏庭園」として当時の枯山水の庭が土蔵と共に残っている。

 

ローヱル が宿ったより以前にこのあたりは火災にあっているようで、庭だけは原型のまま残ったようだが、それがいまも伝わっているわけである。庭石はどれも黒ずんでいる。天保十年(1839)とほのかに庭石表面(手前の大きな石)に刻まれているので、その頃の庭園であろうということである。

 

 脇本陣跡は門もなく、先に下見を済ませているHk氏の案内でわれわれは庭に勝手に入って見学をしていたのだが、そこにご当主の川上睦水翁が現れた。訳を話し土蔵の中にローヱルゆかりの品物でもないかと訊ねるが、とんと要領を得ない。古いものは裏のお稲荷さんだ といって土蔵の裏へ案内された。朽ちそうな建物で、中は真っ暗だが、個人の家の稲荷社としては大きなもので、社前の常夜灯の石灯籠の碑文も江戸時代の年号(明和3年、1766)が刻まれている。「正一位川上稲荷」とあり伏見由来の由緒正しい社で、今でも日を決めて御祭礼を行っているとのことである 。ローヱルと英語で会話したという川上源一の名も鳥居等に見られる。この人は後に衆議院議員になるが、身上を潰したと現川上翁は仰有る。

 

 川上翁はかなりの御高齢であるが、庭園に面した大きな家に一人住まいで、あとの話は家に上がってと勧められ座敷に全員案内された。こちらの訊ねることに関しては明確な回答はないのだが、自分のことを話し始めると止まらない。今は隠居だが塩尻の実業家だったとのことで、塩尻駅の駅弁は川上老の考案であるという。弁当の工夫の話や裁判の話なども伺ったが、手広く 飲食関係の事業をしていたとの話だった。教育関係の業績もあるようで、額に入った現役の頃の賞状や肖像画もあった。

 余暇には探検旅行をするのが好きで、南米やボルネオに良く出掛けた様で、そういえば、稲荷社の横にあるプレハブ作りの建物には雑多なものが雑然と置いてあったが、老人の収集品の由。説明を聞くと、 ボルネオの蝶だのアマゾンの古代魚などだそうで、座敷に案内されたときも「テングザル」の写真のパネルを出されて説明があった。写真撮影も趣味で、机の上には桐箱入りの「ゴールドペンタックス」一眼レフがあり、ありがたく拝見した。

その内一冊の豪華な本を取り出し、自費出版した写真集だという。内容はペルー旅行の写真で、海岸沿いのプレインカ遺跡から空中都市マチュピチュ、ナスカの地上絵まである。ライヒ女史にも逢っているというから驚きである。年に一度インカの仮装をして祭りが開かれるとのこと、そのビデオもあるが見て行くかと誘われたが、丁重にお断りした。ビデオは自分で撮影したフィルムから自宅で編集しているとのことで、土蔵の中はフィルムが沢山入っている事がここで判った。

 

 川上家を辞去して、尾代氏と森田氏を見送りに塩尻駅へ向かったが、駅前の土産店のあるご主人は川上睦水翁の知り合いの由で、川上老人は塩尻の有名人であることを合点した。駅前では「お弁当、仕出し ()カワカミ」と書いた軽トラを見付けた。想い出のある駅弁「とり釜飯」が川上家であるとは知らなかったが、あいにくこのときは売り切れで賞味は適わなかった。代わりに川上家の隣にあった造り酒屋の清酒「笑亀」を土産店の酒専門店(Mars Whiskyはない)で購入して萱野高原へと向かった。

 


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