CMO
Ina Meeting Report
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The
Shiwojiri Toge and
the | ||
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村上
昌己 Masami
MURAKAMI | |
塩尻峠は分水嶺であるとの記述がローヱルの『能登』に見える。峠の東側に降った雨は諏訪湖から天龍川へ流れ出し、彼の通った経路のように浜松に出て太平洋に注ぐ。西側に降った雨は松本で梓川の水を合わせ犀川となり、長野では千曲川と合流して北行し信濃川となって日本海へ流れる。現代の日本人でもあらためて地図を眺めなければ判らないようなことを、明治の中頃に旅した異国の人間が記していることは大きな驚きであり、ローヱルの能登への旅行の興味の原点はどの様なものであったのかも考えさせられる。
明治22年(1889年)、能登の穴水からの帰路に、越中側から針ノ木峠を越えて信濃側へ出るという目論見は立山の険路に阻まれて立山下(リュウザンジタ)で断念、海岸沿いの往路を戻ったローヱルは、天龍川沿いに太平洋岸に出るべく長野から松本へ向かい、途中塩尻宿で一泊している。塩尻峠を越えずに辰野へ出て天龍峡谷へ入る事もできるが、下諏訪で郵便物を受け取るために少し遠廻りをして峠を越えて諏訪側へ下った。当時、鉄道は東京方面から岡谷まですでに開通して、絹織物輸出のシルクロードであったから、天龍へ戻ったのはローヱルの選択は新しいルートである。Hk氏の調べに依れば、ローヱル以後、天龍川下りをした外国人は数年で百人を超えているそうである。
今回の我々のルートは逆走だが、下諏訪で「桔梗屋」などに立ち寄ったあと、峠を越えて塩尻へと向かった。晴天だったが遠望が効かずローヱルの記述にある乗鞍岳も富士山は残念ながら見えなかった。塩尻宿は現在の塩尻市街から中山道を塩尻峠に登る途中にあり、現在でも古びた幕末の旅籠が重要文化財「小野家住宅」として
ローヱル
脇本陣跡は門もなく、先に下見を済ませているHk氏の案内でわれわれは庭に勝手に入って見学をしていたのだが、そこにご当主の川上睦水翁が現れた。訳を話し土蔵の中にローヱルゆかりの品物でもないかと訊ねるが、とんと要領を得ない。古いものは裏のお稲荷さんだ
川上翁はかなりの御高齢であるが、庭園に面した大きな家に一人住まいで、あとの話は家に上がってと勧められ座敷に全員案内された。こちらの訊ねることに関しては明確な回答はないのだが、自分のことを話し始めると止まらない。今は隠居だが塩尻の実業家だったとのことで、塩尻駅の駅弁は川上老の考案であるという。弁当の工夫の話や裁判の話なども伺ったが、手広く
余暇には探検旅行をするのが好きで、南米やボルネオに良く出掛けた様で、そういえば、稲荷社の横にあるプレハブ作りの建物には雑多なものが雑然と置いてあったが、老人の収集品の由。説明を聞くと、
その内一冊の豪華な本を取り出し、自費出版した写真集だという。内容はペルー旅行の写真で、海岸沿いのプレインカ遺跡から空中都市マチュピチュ、ナスカの地上絵まである。ライヒ女史にも逢っているというから驚きである。年に一度インカの仮装をして祭りが開かれるとのこと、そのビデオもあるが見て行くかと誘われたが、丁重にお断りした。ビデオは自分で撮影したフィルムから自宅で編集しているとのことで、土蔵の中はフィルムが沢山入っている事がここで判った。
川上家を辞去して、尾代氏と森田氏を見送りに塩尻駅へ向かったが、駅前の土産店のあるご主人は川上睦水翁の知り合いの由で、川上老人は塩尻の有名人であることを合点した。駅前では「お弁当、仕出し
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