Ten Years AGO (3) - CMO #004 (10 March 1986) and #005 (25 March 1986) -


 (この号から、南氏は観測のため1986年二月末から台北に滞在し、『火星通信』の編集・発送は淺田正氏 よっておこなわれた)

 

火星は1986年三月には朝方の「へびつかい座」南部にあって巡行中だった。9 Marに「へびつかい座」θ星付近で西矩を迎えて、日の出時に南中するようになった。視直径も7秒角から月末には9秒角まで伸びて、十分観測出来る時期になっていたが、赤緯が低く観測は難しかったようだ。Ls132°から146°に変化して北半球の夏が酣(たけなわ)という季節だった。火星面中央緯度はこの期間に南へと移っていって、南極域が見えるようになってきていた。

 CMO4号には最接近以後の観測の注目点について示されている。この接近では南極冠の縮小に伴う現象を捉える事が出来る良い機会だったので、Novus Monsの極冠からの分離、極冠の偏芯の様子、促進波のチェックのための濃度測定などが観測対象として挙げられた。また黄雲の発生時期も後半の期間に入っていたので、その注意もある。「LtE」には各地の惑星観測者からの反応が返信として載せられている。栗栖茂氏(洲本市)のセルフポートレートが英文の説明と共に面白い。観測レポートは「OAA MARS SECTION」として第5号から始まっている。この時期に台湾に渡られた南氏は、蔡章獻先生の御好意で台北市立圓山天文臺の25cm屈折を使わせて頂けるようになり、連続観測を始められた。国内では阪部氏(宇治市)と安達氏(大津市)の三月中旬までの観測報告があった。まだ観測内容には見るべきものはなかったようだが、南極雲の張り出しの経度的に不均一なのが捉えられている。前号にも紹介したように、観測レポートは台北の南氏がまとめ られ、『火星通信』の編集・出版は浅田正氏が受け持たれることになった。また第5号には「惑星写真の撮影についてのアンケート」用紙が同封された。

 この時期には佐伯恒夫氏の「火星観測の50年」が連載されたが、最近の『火星通信No172 (1996年二月25日号)には、氏の訃報があった。当時はご高齢といえお元気で、『天界』の編集をされていたことを思えば、十年という歳月の経過を改めて感じさせる。

 また、この時期にはハレー彗星が折から接近中で,二月上旬の近日点通過を終えて朝方の「やぎ座」から「いて座」に移動中だった。筆者も幾度かハレー彗星の観測に出かけたのを覚えている。その中でも三月16日の明け方に山中湖で見た姿が印象深い。関東では大雪の後で写真撮影の三脚の下は30cmもの積雪であった。しかし傍に0等級で見えていた火星を認識した記憶がない。まだ筆者が『火星通信』に参加する前のことなので無理からぬ事かもしれないが不思議なことである。このところ地球に接近している百武彗星(C/1996B2)はハレー彗星以来の明るい肉眼彗星となっているが、あれから十年経ったのかと思うとこちらも感慨深いものがある。

村上 昌己 (Mk)


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