CMO ずれずれ艸 (南天・文臺)  その十七


アルカディアのアマテラス


 

◆人によっては傳説や神話が妙に自然科学的でなければならないと信じているらしい。さざれ石が巌に成るなどというのは明らかに反自然的であるが、これが科学的に可能であるからとして有り難がるお人もおる。暗喩と謂えども我々サザレ石が巌に組み込まれるのは真っ平御免だが、自然科学を出されるのも迷惑であるというものである。

 

敗戦前だと思うが、アマテラスの「天の岩屋」への雲隠れは、あれは皆既日食で、紀元前何年に日本の何処そこを通過した日全蝕に同定される等とこれも真しやかに喧伝されたものらしい。恥ずかしい哉、こうした体制派の御用天文学者は関西に見られた。皇國史觀は考古学などの科学を否定しながら、一方で恰も神話を科学的歴史の様に扱おうとしたのである。

 

 こんにちでは、『日本書紀』や『古事記』の神話は考古学だけでなく、遍く文化人類学や心理学の範疇でも魅力的かつ挑戦的、広角的に扱われている。レヴィ=ストロースがスサノオをアメリカ・インディアンの神話も含めて多くの世界に散らばる「母離れ」の出来ない何百という傳説人物の一人として分類したことなどは著名な例であるし、現在では、イザナキ・イザナミの「な見たまいそ」の黄泉下りは、ギリシア神話のオルペウス・エウリュディケの冥界下りと極めて類似し、起源は多分同じであろうという点は広く認められている。

 

実は、アマテラスの岩戸籠もりにも全く類似する話がアルカディアArcadiaに知られていることが、既に三品彰英氏や吉田敦彦氏、大林太良氏等によって指摘されている。私は論文に直接当たった譯ではないから、そちらの紹介は出来ないが、アルカディアに伝わる外伝を紹介して読者の判断に任せたい。

 

その前に、予備知識としてデーメーテールDemeter (以下デメテルとする)について述べて置きたいが、この豊穣の女神はローマ神話でケレス Ceresとして変換されているので周知であろう。巷間の希猟・羅馬神話は大抵オウィディウスOvidiusの『変身物語 (Metamorphoses)』を下敷きにしているので、詳しくはこの『変身物語』(岩波文庫所収)を参照すれば好い。ケレスは行方不明の娘プロセルピナを探し回る。実際は、プロセルピナはプルトンに奪われ、冥界に居るのだが、ケレスは知らず、失意のまま尋ね探して彷徨うのである。ユピテルの仲介でプロセルピナは戻されるが、冥府の食物を既に摂っていた(エウリュディケやイザナミと同じ)という理由で、完全には戻されず、半年は母のもとにあるが、後の半年はプルトンの下に居なければいけないとなっている。

 

元のギリシア神話では(ユピテルがゼウスと称せられるごとく)ケレスはデメテルと呼ばれ、プロセルピナはペルセポネPersephoneと呼称される。プルトンはハデスに対応しよう。オウィディウスでは物語は浪漫的だが、もとの神話はもっとドロドロしたものである。ペルセポネはローマ神話ではコレーとしてかよわき乙女であるが、ギリシアでは時に矢張り恐い冥界の女王である。デメテルもデーがダー (ガー大地)、メテルはマテルでもあり母、従って大地の母、つまり豊穣の女神なのであるが、時としてデメテル・エリニュスとして怒りの女神になる。エリニュスはErinnysとして火星面の地名として採用されているが、もともとは怒気とか復讐を指し、女神としては灰色の髪の古い神である。同じく火星面のエウメニデス(エウメニス達)は一応善意の女達だが、これは反語的で、仲間である。どちらもマレ・シレーヌム(セレイネスの海)の近くというのは意味深長で、セイレン達(セレイネス)も周知の様に単なる女神でなく、実際、生まれ方もエリニュス達(エリニュエス)と同じである(傷口の血の雫から生まれる)。また、デメテルの放浪はギリシア神話では辛酸を極めるが、象徴として黒衣を纏う女神とされる。ただ、ことの顛末はギリシアでは幾らかよく、ペルセポネは一年の三分の一だけ冥界のハデスのもとに留まるだけでよいとなっている。春になるとデメテルのもとに還る。

 

この話でもう一神重要なのはポセイドン(羅馬神話ではネプトゥーヌス)である。ポセイドンはもともとダーの夫で大地の神だったらしいが、アムピトリーテーとの結婚によって(火星通信#116 p1030) 海神となった。ときに雄羊、後にギリシアに馬が移畜されてから雄馬になってあらわれる。ポセイドンはハデスやデメテルとおなじくゼウスの兄弟である。

 

さて、アルカディアの傳説というのは、必ずしも何処にでも出ているものではないが、実はパウサニアスが傳えている(紀元後二世紀後半)。パウサニアスの『ギリシア案内記』については既に『火星通信#125 p1130 に引用してあるが、岩波文庫本は抄譯で、原本の巻1(アッティカ)2(コリント、アルゴリス)10(フォキス)しか譯されていない。アルカディアは第8巻にある。そこで、必要な部分を J G FRAZER の英譯本(Pausanias's Description of Greece)から重譯する。巻825章のDemeter Fury (怒りのデメテル、デメテル・エリニュスの英語版と思われる)に次の語句がみえる:“デメテルが娘を探しての放浪中、ポセイドンは彼女に恋慕し付け狙っていた、と言われる。そこで、彼女は雌馬に変身し、オンキウスの雌馬の群れのなかに姿を隠した。然し、ポセイドンは偽装を見破り、同様に雄馬の姿をとり、野望を遂げた(英語ではデメテルをエンジョイしたとある)のである。デメテルは最初怒ったが、次第に落ち着き、ラドン(Ladon)川で水浴することを願った、と言われる。この為、女神は二つの異名をもつことになった:一つは彼女の憤怒の為で、アルカディア人は思わず激怒することをerinueinと呼んでいたので、Fury  (Erinys) という名、また彼女はラドンで水浴した(lousasthai)ので、Lusia という名である。”

 

ラドンは Ladon Vallesとして火星ではマレ・エリュトゥラエウムの近くの谷に名付けられている。アルカディアで一番美しい川として、パウサニアスから採られたのである。同じ傳説ではデメテルはポセイドンによって、知られざる娘とアリオンArion という雄馬を生むが、後者は有名で神話に何ヶ所か出てくる。火星では (150°W, 75°N)に付けられている。

 

扨て、肝腎なところは42(黒いデメテル)にある。この章は“もう一つの山、エラウシス山はピガリアから約三十ファーロング(スタディオン?)の距離にあるが、その山にデメテル・ザ・ブラックに属する聖なる洞穴がある”で始まる。尚、ピガリア人達は、デメテルは馬を生んだのではなく、アルカディア人達がthe Mistressと呼ぶ娘を生んだとしている様である。続けて、この傳説に拠れば“後にデメテルはポセイドンに腹をたて、またプロセピナの掠奪を哀しんで、黒い衣服を着け、この岩屋に入り、長くそこに独りで閉じ籠もった”のであった。その結果“地上のすべての果実は”枯れ果て、人間どもは飢餓から朽ち果てようとする。これには説明が無いが、デメテルは豊穣の女神として暗黙の了解があり、その岩屋籠もりによって、地上の動植物は恩恵を被らなくなる譯である。

 

先の研究者たちは、デメテルとアマテラス(天照大神)との対照を、岩屋籠もりの類似だけでなく、女神の不在によって、飢饉と混乱が招来される点も似ていることを指摘したのである。それだけではない、デメテルの岩戸隠れは、ゼウスの間諜のパンによって通報されるが、ゼウスは“デメテルのところにthe Fatesを送り、デメテルはthe Fatesに耳を傾け、遂に怒りを飲み込んで、悲しみからも開放された”となっており、このところはアメノウズメの存在を彷彿とさせるのである。The Fates (運命の女神)というのは辞書によれば、クロト、ラケシス、アトロポスの三神で、普通モイライ(モイラ達)と呼称される。モイライは未だ抽象的で、アメノウズメとは距離があるが、デメテル神話にはいろいろなversionsがあり、笑わない黒衣装のデメテルはイアンベ、ないしパウボによって慰められるという話が幾つかある様である。賢いイアンベが巫山戯たり揶揄したりしてデメテルの心を和ませるというのや、パウボがアメノウズメと殆ど同じ事をして、デメテルの笑いを誘うという様な話はよく知られている。道化師あるいはもっと強くトリックスターの意義みたいなものがこの二つの話にはみられ、対応は著しいのである。

 

更に、ポセイドンはスサノオに対応する。海神であることのほか、姉弟の関係にあり、馬という点でも符合する。アマテラスが岩屋に隠れるのは直接には、スサノオが馬の生皮を剥いで機屋に投げ込むという狼藉に腹をたてたことによる。他に、デメテルとトリプトモレスの関係は、アマテラスとホノニニギとのそれに類似しているという面白い指摘もあるが、ここでは最早省略する。

 

以上の話は、とても本居宣長さんなどに通じる話ではないのであるが、こうした神話の構造が多元的に発生するとは思えないし、人種は高々地球上に分布するだけだし、その一応多岐にわたる人種間同士といえども思想伝達は不可能では有り得ないので、ある原初的な神話が大陸の騎馬民族によって、東西両端に伝播された、という風に考えるのはあながち不自然ではないだろうと思う(馬の起源は不知道だが、普通言われる様に西から東へかも知れない。尚、日本では馬は外来である。ウマという発音はマという大陸語を踏襲したもの)。こうした仮説にモダニズム的証明を期待することは今では不可能だろうが、時流に乗って我が国をのみ照らす大神等という日食史観等より、はるかに客観性があると思う。

       南 政


『火星通信』#136 (1993年八月25日號) 「夜毎餘言」XXXVII p1273掲載)


 

「ずれずれ艸」Indexに戻る

CMO-HPに戻る