CMO ずれずれ艸 (南天・文臺)  その十八



詩人 (『火星通信』#139 (1993年十一月25日號) 「夜毎餘言」XL p1326掲載)

 

先達っての『月刊金曜日』で柄谷行人氏が、わが國では純文學が顧みられないのに反して、未だ韓國では本屋の片隅で若人達が詩集を貪り讀んでいる風景を知人から聞いて感慨を述べている。

 

三國(福井県三國町)の今の私の假の塒から遠くない處に、曾てM氏という詩人が五年程住んでいた。私も疎開中だったが、勿論私はほんの子供でM氏の存在など知る由もない。

扨て、このM氏の次の感慨はなかなか詩人らしい:「戰争中疎開先の福井駅で見かけた情景、あの殺人列車の窓口でもんぺ姿の一人の少女が何かに讀み耽ってゐるのをふと見かけた、その情景は忘れ難ひ」「少女の手にしてゐたのは堀辰雄の小説集であって、....あの混雜中そんな姿で、その少女が、それを讀んでゐるのを何か一寸見過ごし難ひやうな感じで眼に止めつつ、列車が動き出すのを見送った。」 實は、M氏はああいふ風に讀まれる堀辰雄に羨望すら感じる。

 

柄谷氏の感慨を重ねれば、もうこうした情景は平成の世の中では見ることはないし、企業戰士を乗せた都會のラッシュは昔の殺人列車と変わりないが、堀辰雄の出て來る幕はないということであろう。文學だけではあるまい。新しい意匠を凝らした“もの”の氾濫によって、我々の基本的であるべき営みがあらゆる方面で失われつつある。

 

ところで、M氏のことだが、北海の濱に流寓す、と言って居たぐらいだから、陰欝な天候の下、時々福井駅を経由して京阪等にも出掛けることもあった。却って次の様なスノッブなM氏の手紙を讀むと幾らかホッとする:

 

「・・・一寸用件ありて北白川に小川茂樹君を訪問、久しぶりにて閑談一泊しました。湯川博士にも吉川先生にも初對面の機を得、眉の明るくなるやうな氣持ちを覚えました。近頃は田舎暮しにて俊颯の氣に接することなく腰の屈まるやうな生活のミにて甚だ不本意なりしをこのやうな折節特に痛感します。仙台も追々騒然となるでせう。福井、石川兩縣も何やらここには書きつくし難き風評、空氣に満たされてゐます。・・・萬事は天運にまかせる覺悟なり。小生は福井にて様子を見てゐます。いつでも必要の處置をとるつもり、身命惜しからず。艸々。」

 

仙台というのは、宛先のK氏の所在地である。これは敗戰の年の六月の手紙で、京都へは五月に行っている。身命惜しからず、というのは海岸伝いに敵軍の進攻があるという風評があったからの由。

 

こんな心境では詩どころではないと思うが、M氏は敗戰を三國で迎える。

 

まことにこれ戰いやぶれし國のはて

波浪突堤を没し

飛沫しきりに白く揚がれども

四邊に人語を聞かず

ただ離々として....

 

實はこれは私が1991年の夏、近くの東尋坊に散歩していた時、折り返し點にM氏の詩碑があって、その中の數行である。毎日一行と思っていたが、最初の

 

天荒れて日暮れ

沖に扁舟を見ず

餘光散じ消へ

かの姿貧しき燈臺に

淡紅の瞳かなしく點じたり・・・・

 

すらなかなか覺えられなかった。この詩は可成り三國の當時の情景をうたい込んでいると思う。この燈臺は今でも馴染みだし、中ばの「帆檣半ば折れ/舷赤く錆たるは何の船ならむ/錨重く河口に投じ/・・・」という風景も九頭流河口の向こう岸の風景として私にも折れた帆檣や赤錆や錨と共に記憶があるのである。尚、散歩道は松林の中にあるが、當時或る傷心の婦人が松林を彷徨って救けられたという新聞の記事にM氏が心惹かれたと傳えられている。M氏も同じ處を彷徨ったからだとされる。

 

先日近くの三國資料館でM氏の回顧展があった。達筆で全然讀めないが、パネルの活字表示でも舊漢字の量には驚いた。もっと學ばなくてはM氏の詩は讀めないのである。

 

ところで、M氏がこの三國の在で道すがら見かける老人が居た。既に身体は窶れ、聲を掛けるのも憚れたが、この人こそ、あの魯迅が是非所在を知りたく思っていたもと元仙台の先生であった。この三國に住む老人を魯迅は再び知ること無く亡くなり、老人も敗戦の直前七十二歳で亡くなったという(誰あろう、「「藤野先生その人であった。」)[文献その他は次の機會に....。]

 


續・詩人M氏 (『火星通信』#141 (1994年一月25日號)「夜毎餘言」XLII p1350掲載)

       

若手の詩人の登龍門に「H氏賞」というのがある。主催は日本現代詩人會で、1950年創設、既に四十三回を數え、定着しているが、當初はH氏とは佐藤春夫と噂された爲に、發起人の一人の村野四郎が本當のH氏に申し譯ないと、十年程經て、H氏賞は「平澤貞二郎」氏の好意に依る事を『日経』の文藝欄で明らかにした。H氏は元プロレタリア詩人で、然し、彈壓が厳しくなり詩作を斷念、“三國商會"を興し、更には1947年に“協栄産業株式會社”を設立して経営を手懸けた人である。60年代には東証に上場されている。先年亡くなるまで現役であった。三國商會というのは、出身が三國だからである。

 

詩人M氏は直接H氏と關係が無いが、H氏の實弟の畠中哲夫氏が詩人M氏と淺からぬ縁があり、私のM氏に關する知識は、畠中氏の『三好達治』と『詩人三好達治、越前三國のころ』という二冊の著書に拠っている(他に石原八束の『駱駝の瘤にまたがって−三好達治伝−』)。畠中氏も“協栄"の常務取締役や監査役を勤めた後退社したが、『四季』系の詩人であった。

 

三好達治氏(M氏)1944(昭和19)三月から1949(昭和24)二月迄五年間三國に流竄した。無縁の三國を選んだのは珍品堂主人・秦秀雄の勸め、栖の森田家西別荘は堂森芳夫(医師、元社會党の衆議院議員)の紹介だが、この寓居に三日にあけず押し掛けていたのが、畫家の小野忠弘と若き畠中哲夫であった。M氏の薫陶にも拘らず畠中氏は詩は書けず、詩人となったのはM氏の死後であった(M氏は1964年歿、狹心症から心筋梗塞)。

 

三國米ヶ脇の三好氏寓居跡は三國の濱から直ぐ北の小高い丘の上にあって、更に北には遠く東尋坊、南は九頭龍河口から三里濱の見渡せる絶好の地である。今はもうこの別荘は無く、昔の写真に見る藤棚が殘されているだけであるし、周りには餘計な建物が立ち並んで海の景色を制限しているが、當時の眺めは想像できる。五年も此處に居たというのは、矢張り海と夕陽に 惹附けられる何かが達治の中にはあったのであろうし、またそれが冬の壮絶な嵐を何度もこの断崖で切り抜けてのことというのにも興味を感じる。つい暮れにこの海濱から奥まった我が塒邊りでも寒風が吹き荒び參ったが、米ヶ脇ならさぞ更に凄いだろうと想像した。「北海波黒く/冰霰屡到る」「わが庭の石うつ霰/松こえて海にはせいる/」ならまだしも、冬風が吹きつのるとM氏の住居は「急行列車が墜道(トンネル)へ驅け込んだやうな騒音の中につつまれ」ると書いている。

 

M氏が漂着して間もなく四月16日に、畠中氏は詩集『花筺』の校了稿を青磁社へ送るよう託され、翌朝速達にするため家に持って歸るが、これは畠中氏が第一番目の讀者になることを意味した。枕元に置いて眠ったが、作品が浮かんで寝附けなかった様だ。出版の際は「天上の花」の萩原愛子と一緒に畠中氏は『花筺』の奥附け用の印紙に捺印するのに夢中になった由。

 

『花筺』の多くは伊豆で出來たものだが、能の「花筺」(繼體帝は三國が出自)を採ったというのは三國流寓が最初から意圖されていたのかもしれない。

 

うつつを夢と觀ずれば

夢やうつつとなりなまし

あへなきうたの花がたみ

花ことごとく散りてのち

 

その後の『春の旅人』四章や、

 

春のあはれは わがかげの

ひそかにかよふ松林

松のちちれを ひろひつつ

はるかにひとを思ふかな

 

の『故郷の花』、或いは『砂の砦』等、『駱駝の瘤・・・・』の大半まで三國での仕事だが、河上徹太郎は「彼(M氏)が北陸の疎開先で歌った詩は、わが近代詩中に類のない蕭條たる響を蔵してゐて、その中に秘められた「内的生活」の面は端倪を許さない」と言っている。吉川幸次郎は『駱駝・・・・』以後が杜甫的で好む由。三郎さんを探すと、映画の吉村公三郎であろうが、この人は白線三本(第三高等學校)の頃のM氏が親切だったと書いているのを知るのみ。尚、戰時中のM氏には詩人として消えない汚點があり、それは國士的感激症のM氏がクーダラナイ軍國詩を數多書いていることで、全體的な評価は分かれるであろう。三國でも若干書いている可能性がある。

 

先の「詩人M氏」(p1326)には少しく改竄がある。堀辰雄は「堀辰雄君」である。クン呼び出来る人は多くないので謎掛け上削ってシマッタが、堀辰雄は東大國文、三好は佛文の同期で、鈴木信太郎の講義で相識ったそうだから、クンは當然である。もう少し引くと「はつきりいふと、私はその時堀君にいくらか羨望を感じた」。K氏への手紙の中の「閑談」は『全集』(筑摩)では「間談」である。「折節」は「折ふし」。K氏は仙臺の桑原武夫氏のこと、桑原は三高時代の同級生で、同じく同級の小川茂樹も貝塚茂樹の方が通りがよい。吉川先生は吉川幸次郎の事だと思うが、一級上に居た筈なのに初對面というのは吉川氏の方の性格に依るものかと思う。私の印象では吉川氏は一見氣難しそうな人であった。それに対し桑原氏は登山家らしく輕快で、喋りは磊落、歩きは颯爽としていた。貝塚氏は、丁度私の通勤路が貝塚邸の横を通るので時々お見掛けしたが、晩年であったせいか、のっそりという感じであった。然し、M氏の筆ではやや違う:「貝塚君は・・・箱入娘のやうな貴公子であつたが、キャッチ・ボールなどをやるとなかなかの猛球を投じて、私は唇を傷つけたことがあつた。桑原の方はからきしその方は不得手で、學才に似ず何をやらせてもただギクシャクとして不器用を極めてゐた。」桑原氏は親分肌で後に子分が多く出るのだが、自稱佻浮薄で、三高入學時、わざわざ年上の友人から古びた帽子を貰い受け、自分は新入生には見えまいと得意で出掛けたらしいが、中に和服で濃緑のソフト帽を戴いているのがいて、仰天脱帽したらしい。體操までその恰好でやっている。噂では、頭のサイズが大き過ぎて、御用達には在庫が無く、黙認ということであったらしい。このソフトが三好であった。折りも折り、六人の教授を馘首したことで、校長排斥の騒動が持ち上がり、桑原先生勇躍走りまわるのだが、一回生は校長の顔もよく識らない譯だから、上級生は焦れったがって、もっとモサを出せと要求され、K氏、ウチにはソフト帽がいると告げると、それはいい是非にというので、M氏に話し掛けた、これが交友の切っ掛けであったそうである。『新唐詩選』を取り持ったのもK氏であろうと思う。尚、湯川博士と會ったのは茂樹氏が秀樹氏の實兄という縁からであろう。

前稿の短絡を続けると、M氏が敗戰を三國で迎えたというのも正確ではない。實は七月に小田原の舊居に帰っていて、玉音放送はそこで聞いている。然し八月22日には三國に戻った。尚、當時の三國のアドレスは坂井郡雄島村米ヶ脇で、まだ三國町には編入されていない。

 

1946年二月の桑原宛ての三國からの手紙の末尾に「當地への順路は/福井驛下車/三國港ゆき 電車にて終點まで、即ち/三國港終點下車、それよりは旅館「若夷(わかえびす)」をおたづね下さい。十五分行程の距離です。旅館にておきき下さればすぐ傍ゆゑ、これがわかりやすく候」とある。他へは「るす番もなき家ゆゑ」「御來駕の節はあらかじめ電報にて」等と書く事もあるのだが、この時はどうか、K氏は突然三國を訪問して留守で會えず、偶然畠中氏が應對して雄島に案内し、三國の文化人?相手に座談會を開いている。M氏は旅好きで出掛けることも多いが、1945年一月には小林秀雄が三國を訪れたのを始め、畠中氏も佐藤正彰や大山定一、伊吹武彦、吉村正一郎等の来訪を記憶している。

K氏への文中にみえる「若ゑびす」は 今も営業中で、當時と同じく朱塗りの欄干が海側に見える。下の海は淺い岩場で、泳げない私(Mn)は疎開中や夏休みはここで遊んでいた。小林秀雄も含めて先の朋友達の風貌は講演等で接しているのだが、M氏とは割りと近くに居たことがあるにも拘らず、ついぞ聲調すら知らず終いであった。もし、M氏が京都にでも移ればそんな機會はあったろうと思うのだが、結局東京へ出、そこで歿した。M氏には實際に京都に出る計畫があって、知恩院山内に仕事場まで決めていたのだが、ヒョンなことで見合わせとなった。年譜によれば家財を輸送中1948年六月28日の福井震災の折り驛で罹災したというのが外的な理由である。然しK氏宛て四月8日付で「東京へでるのはまづあきらめました」、四月18日付で「早く京都に出てしまひ度候」とあるのに対し、五月19日の生島遼一氏宛てには「僕はその後考へて見るのにやはり東京へ出たい氣がして京都へは一寸思案してゐます」とあるから震災でキッパリしたということであろう。「何ごともおつくう」とあるが、仙臺のK氏は東京の方がいいと言っていた様である。 

 

前稿での東尋坊の詩碑というのも正確でない。眞物の詩碑は矢張り東尋坊の通り道に別に建っているからである。1964年この漂泊の詩人が東京で亡くなって、文學碑の話が持ち上がった。落剥ぶれて三國に帰ってきたら死に水をとってほしいとM氏が堂森さんに洩らしているのを畠中氏は耳にしているし、「三國−わが心のふるさと」という一文もあることから當然なのだが、本人が生前妹さんに詩碑を作るなら三國にと遺言していることが發端であろう。然し、碑文にどの詩を採るかで紛糾した(『三國町百年史』による)。地元側の小野忠弘(画家)、則武三雄(詩人、荒川洋治氏の師匠)氏等は三國流寓中の

 

王ならば 宮居(みやゐ)の廊下(らう)

もの思ひ かくはわたらむ

わがゆくは 松のほそみち

海青し 蝶ひとつまふ・・・・

 

(『春の旅人』の「松徑」)を擧げたのだが、中央の石原八束氏や珍品堂から、詩碑は一柱しか在り得ないないのだから三好の代表作の「春の岬」にすべきという案が出て揉めるのである。結局、小林秀雄や河上徹太郎が後者の案を採り決着、

春の岬たびのをはりのどり

うきつつとほくなりにけるかも

 

という太平洋の伊豆での歌が裏日本の東尋坊に刻まれることになり、自然石に遺墨が使われ、奥まって今も健在である。秀雄氏の「三好達治詩碑」という柱石も入口に立っている。徹太郎氏が建立のとき現場で挨拶している写真を見たことがある。1968年のことで、早いが、揉めた所爲で三國出身の高見順の文學碑より一年遅い。高見氏の病歿もM氏と相前後の筈である。こちらは川端康成の墨跡で、場所は東尋坊よりも寧ろM氏舊居跡に近い「荒磯」にたつ。

 

では東尋坊の「荒天薄暮」(『故郷の花』)の詩碑は何ダということになるが、『百年史』には記載がなく、最近のことで、町長の名が入っているから詩碑でなく廣告塔かもしれない。然し豪華で大きな黒御影に刻まれて、活字体で幾らか讀みやすい。矢張りヨソの詩ではネというのが燻っていたのかもしれない。關係者が死に絶えて、詩碑は一ヶ所というのを解釈し直したかもしれない(正確には寓居跡にもう一碑ある)が、實は1973年に石原や桑原、生島、それに天狗湯主人等がつるんで、發哺の裏山に第二詩碑を建てたそうだから、不文律は無くなっている譯である。

 

私自身は「春の岬」でよかったのだと思う。あれは第一詩集『測量船』の巻頭を飾るものだし、『全集』のトップにも來る。矢張りM氏の原點を指し、唯一の詩碑ならこれだろうと思う。M氏は幼年學校や陸軍士官學校で回り道をしているので、詩人としても出發は遅く、この詩は二十七歳(まだ東大生)の時の作であるが、初期に属する。太郎次郎の「雪」も同じ頃で、最初から老成の風格があるのである。似非詩碑に「荒天薄暮」が新しく選ばれた事情は知らないが、詩碑としては敗戰悲傷など不向きである様に思う。私には體驗上重なるところがあり感慨はあるが、それでも私の様な敗戰肯定派には違和感がある。

 

M氏は眞性右翼であったという譯ではない。戰争詩については渡辺一夫が窘めたとき、M氏は愧じて俯きながら何か呟いて抗弁していないし、大岡信や谷川俊太郎等は戰争協力詩ではないと理解を示している様である。M氏は左翼嫌いではなく、迷ったこともあり、三高生の時、河上肇邸前では帽子を脱いでお辞儀をして通っていたらしいから、小林秀雄ほども右翼でなく無ョでも無かった譯だ。後日談に、M氏が詩人として確立してから、河上肇氏が本屋で三好詩集をたまたま見付け、以来愛讀精讀されたらしいが、ながくM氏を自分と同年輩の詩人と思っていた由である。肇翁も漢詩、自由詩、短歌等詩賦詠歌を熟し、M氏は「河上肇さんの詩歌」という愛すべき一文を残している。『全集』7巻。引用の詩歌を見れば愛すべきは肇翁なのだろうが、三好氏に愛着があるからであろう。長い詩はさておき、M氏は河上の獄中の作であろう「大いなる饅頭蒸してほほばりて茶をのむ時もやがてくるらむ」を初めとする饅頭の歌を七首も擧げていることは蓋しである。M氏は決して甘党ではないところが肝腎である。ただ、河上が「なべて物みな終あり戰もいつしかやまむ耐えつつ待たな」と詠んでいた頃の作とM氏が註釋するとき、どんな氣持ちなのかと訝ってしまう。

 

M氏の戰争詩は「詩としては低く、何にしても三好達治に似合わない」と中野重治が言っている。中野とは敗戰直後堂森邸で再會、以後親しかった。中野は、M氏が「いつも必ず聰明ではありえなかったということ」と断じている。實際全般的にはM氏は聰明で勉強家であった。

この點で『諷詠十二月』はおもしろい。1942年の版だから例の戰争詩の頃と重なるが、こちらは後で捨てた章(これも問題だが)を除き、癖はあるが聰明ぶりである。話題は多岐であるが、酒楽(さかほがい)で始まる「一月」でも神楽歌や催馬楽や萬葉を愛で、その「古樸單純、悲哀咏嘆の間にも沈毅の風を失はず、無用の修飾や思はせぶりの姿態の絶えて見えないのを喜ぶ」のに対し、時代が下ると詩心に推移が見られるというのが第一の主題である。實朝の勇健の風の間にも非傷感愴の弱々とした詠嘆が内に見られると言うが如きがその例である。「匠氣」というものもやや否定的に扱っている(「三月」) 。プロフェッショナルな心といったところか。「内に恃むところが篤く、外に耀かすところの少ない詩風は、一度人の心にふれるや、いつまでも永く厭かれる時がない」のに対し、匠氣はそれと掛け離れた處にある云々。この手で當然新古今的技巧主義も槍玉に擧がり、定家の歌も分類されてしまう。實に多様な詩歌が採られているが、「十一月」では江戸末期の香川景樹が分類される。

M氏によれば景樹の評判の秀歌にも「簡樸明確な詩歌のレアリテ」が喪失していて、ただ「機知に富みこしらへごとを設けた作が頗る多い」という。景樹一首「大かたはうとき物なるおほ空もすむ月ゆゑにむつまじきかな」について、これは奇妙な歌だとする。「作者自らが、平生頭上の天空などとは別個に切離された生活を営んでゐる、その日常生活のありやうを別段意にもとめず、問はず語りにこのやうに物語ってゐるのである。當時の歌人が如何に自然の現實から隔離し、人工的文學世界の、第二次的現實世界に平素移り住んでゐたかが、かかる一首の歌詠からも推測されるのである」と断じる。然し、景樹はその第二次現實世界で比類の無い風趣風韻を確立しているとして例えば「浮雲は影もとどめぬ大空の風に殘りてふるしぐれかな」は「蓋し一世の名吟」とする。(引用は『全集』本に據ったので、舊假名だが、講談社學術文庫本は引用詩歌以外は新仮名遣いで、殆どルビが打ってあり、字も大き目で讀みやすいので、一度ご覧頂きたい。)

 

(少なくとも私には)M氏の謎は多い。彼の幼年期や生い立ちについて、私の不勉強もあるが、まだまだ調べる必要がある様に思う。母や海のことである。またM氏は自稱大阪は新地の不良の出身というのだが、これも何とはなく重要である様に思う。佐藤春夫と不和になって、佐藤家の門口で「バカヤロー」と怒鳴りに來るものだから、春夫大人も負けじとM家の玄關先に駆け參じて怒鳴り返したというのは有名な話だが、三國でも畠中青年が三國の愚聯隊に痛め附けられて森田別荘に現われたら、自分が加勢するから仕返しに引っ返せと言ったという話もある。1936年もう一人の不良中原中也が河上徹太郎の紹介で『四季』に入って來るが、中也は病弱年少の立原道造を集中的にイジメるので、三好が中也を怒鳴りつけたという話もある(堀辰雄でさへ中也の道造イジメについては小言を書いている由)。中也が鬼籍に入り、前夫人から中原中也賞の申し出があったが、『四季』では第一回は立原道造に與えてしまう。第二回があったのかどうか知らない。M氏は中也賞について腰巻きから選考文まで書いているが、別の處で中也の怒聲はまだ耳に殘っていると書き、また、「彼は語彙と技法に乏しい」とも言っている。(Nj氏が中也ファンなので)少々公平に仲間の河上徹太郎の言葉を引けば、中也の「現代」が三十年経って漸く「現代」になり人氣がある、のに対し、達治にはそういう現代性はないが、「永遠性」があり、現代語が紊(みだ)れるから達治の詩の端正に人氣があるということになる。

達治は秀雄も語感が悪いと言っていた。鎌倉の借家住まいの頃、秀雄と『悪の華』の共譯を試みたが、直ぐ駄目になったそうで、相手が頑固でネというのがM氏の言である。この頃のM氏の随筆集は『夜沈々』『風蕭々』で、何れも中國の詩に典據があるのだが、うるさい家主(佐藤信衛)に當附けの「家賃家賃」「貸せ少々」の寓意だという笑話がある。

 

話は逸れたが、序でに逸れると、石原氏が直接K氏から伺った話として、K氏が發哺にM氏を案内した時、K氏は新婚で同伴だったらしいが、旅篭に着くや否や「三好は三人で一緒に風呂へ入ろう、といってどうしてもきけへんねン... (K氏)という妙なところがあったらしい。畠中哲夫の日誌に依れば、1944年十二月17日に達治、愛子兩名に芦原の宿に招かれて、したたか飲んだらしいが、「午前二時頃芦原の湯に三人で浸った」由。發哺と三國の両方に詩碑が出来たというのも可笑しなものである。

 

M氏は二度東京を選んでいる。このことは誰も議論していないが、私には興味深い謎である。三高→東大は少なくないし、三高時代に詩は書いていなくて、佛文志向であったから、矢張り東大の陣容が良かったのであろうし、桑原武夫にしても小川茂樹にしても京大二世で抹香臭いことは確かである。

ところで1959年の『藝術新潮』にM氏は「詩壇の新人賞にH氏賞といふものがある。あの賞を出してゐられる匿名のH氏の令弟と同道で小野さんはある日ひょっこり私を訪ねて下さつた」で始まる一文で、小野忠弘氏について書いている。『全集』九巻。この画家かつ彫刻家は東北出身だが三國に居ついて長い。M氏は「内部に潜水服を着込んでゐるやう」とか附ヒゲをつけるとヒットラー總統そっくりなどと親しく形容している。私はこのビエンナーレ招待作家の作品を二三知るだけで、拝顔の栄には浴していないのでピンとこないが、この文の終りは次の様である:「... 沈潜の後に、一つ弾みをつけて、捲きかへし的に急遽ある日、小野さんがひょっくり東京に居を移して來そうな氣も私にはする。どうだらう、小野さん、おしりを上げて來ませんか。」案外東京とはこういうことかもしれない。然し、小野氏はお尻を上げなかった様で、今もこの塒から道路に出れば下の畑の中にアトリエが見える。多分M氏の書く通り三國は「小野さんにとつて申分ない環境のやうにも思へる」通りだったのであろう。同じ文でM氏曰く「九頭龍川はかつぷくのいい長江である。川ぞひの三國の町は、古風に落ちついた、家なみのゆかしい港町である。私も數年その地に住みついて、思出として味わひかへしてみて、ただいまもたいそう懐かしい。」

「長江に舟を泛べて」などのM氏の長江はみな九頭龍川と考えれば良い。高濱虚子が三國の森田愛子の「愛居」で運座を開いたとき、達治は三句投じて二つ入り、虚子に「なかなかうまいじゃないか」と言われたのが自慢としているが、その一句は

 

蘆枯れて江を横ぎる舟もなし

 

である。これは嘱目で、「長江は即ち九頭龍川」、「愛居」からは「九頭龍川の洋々として海に入らんとする」ところが見えたのである。

 

達治の東京での絶筆詩は「春の落葉」である。その絶唱

 

... きりきりと春の落葉は

やまず降る やまず降る 三角州を浮べ

大河は海に下りてゆく

 

にはこの長江のイメージと松林が重なるとする畠中氏の讀み方に同感である。    

南政次(vzv03210@nifty.com)1994年正月随想

 


「ずれずれ艸」Indexに戻る

CMO-HPに戻る