CMO ずれずれ艸 (南天・文臺)  その廿


E M アントニアディ


 

Dr Richard J McKIM, Director of the BAA Mars Section, published his scrutinised study on the mysterious life of the famous E M ANTONIADI in JBAA 103 (1993) 164-170 (Part I) and ibid 219-227(Part II). The following is a rough summary of the interesting reports by McKIM for our members. We are grateful to Dr McKIM forhis kind sending us a copy par avion.

 

◇リチャード・マッキム(理査・麥肯)氏が E M・アントニアディについてかなり詳しく調査し、それをこの程 J BAA に“The life and times of E M Antoniadi, 18701944"と題して発表した[Part壱は103 (1993) pp 164170Part弐はpp 219227]。理査・麥肯氏はBAA (イギリス天文協会)やRAS (イギリス王立天文学会)の資料を調べられる立場にあり、そのほか曾てフラマリオンやアントニアディの觀測地Juvisy (ジュヴィジー)にも出向いていて、大変興味深い記述である。以下で、この報告の火星に関わるところを要約してみる。

 

ユジェーヌ・ミカエル・アントニアディ(Eugène Michael ANTONIADI)1870年参月1日にコンスタンチノープルで生まれたが、両親はギリシャ人である(もともとの洗礼名は Eugenios Mihail Antoniadis)。小さい頃のことは分からないらしいが1888年迄に7.5cm屈折をコンスタンチノープルやプリンキポ島で使っている痕跡がある。1890(20)BAAが創立されると、早速入会したが、1887年発足のSAF(フランス天文学会)には1891年に入会。BAAでは太陽課や木星課にも報告している様だが、火星課に属し1895年のBAA最初のMemoir (E W MAUNDER) にスケッチが四枚出たようである。それより前、1893(100年前!)にフランスへ出掛け、Juvisyでカミーユ・フラマリオン(Camille FLAMMARION) に会い、彼の天文台で雇われるが、Paris (パリ)に住んだ。Juvisy天文台の望遠鏡は24cm屈折である。アントニアディは能く働いた様で、1894年頃にはL'Astronomie (SAFの会誌)に繁く寄稿している。この頃は両者師弟として良好な関係にあった。

 

1896年ノルウェイでの皆既日食(曇り)BAAが遠征隊を送った際に、アントニアディもフラマリオンから派遣され、ここでBAAのメムバーと親しくなり、1896年にBAAMars SectionDirectorに招聘されるのである(SAF Commision de la Planète Marsが出来るのは1939年)。1898年には課長として初めてMemoirを出し、その時の彼のスケッチ数は最高で53であった。他にPB・モールスワースやW・ゲール、英国内ではTER・フィリップス、S・ヰリアムズ、HF・グリフィス等が観測している。麥肯氏の判断ではアントニアディのレポートは高度に分析的で、フラマリオンの図書館の利用で歴史的な問題処理でも勝れていて、他のMemoirsを圧しているという。アントニアディは語学が天性的に好く出来た由で、英語も仏語も完璧という。フィリップスへの葉書で、ニューヨーク・ヘラルドを読むかぎり、米語は英語を損なっていると云う意味のことを言っているらしい。 

 

次いで、麥肯氏は運河論争に話を進めて、アントニアディが割りと早くから運河反対論者であったとしたいらしいが、当時はアントニアディ自身多くの細線運河を描いているから、これは略す。尚、麥肯氏はアントニアディがJuvisyでローヱルに遇っていると考えている。英国ではBlackheath(グリニヂ天文台の近く)で、クロメリン(A  D  C CROMMERIN)と獅子座流星群(1899?)を観測したらしい。アントニアディの18961902年のスケッチはJuvisyに保存されているが、仏語で書かれているのでオリジナルではない。

 

1902年アントニアディはフラマリオンから去り、SAFも忽然と止めてしまう。表向きはBAAの火星課に専念するためとなっているらしいが、麥肯氏は内実は違うと考えている。何か衝突があったらしいことを裏付けているが、契約書ではフラマリオンにあまり非がないらしい。それにしても、アントニアディの様な人材がありながらSAFに火星課が出来ないのは不思議な話ではある。此の時期の E W MAUNDER夫人のモールスワース宛ての手紙は色々伝えていて、アントニアディが英国人になりたいと言っているとか、フランス人を如何に嫌っているか等々、語られているらしいのだが、実際はそうならなかった。アントニアディは英国が彼を受け入れてくれたことに感謝して、ギリシャ語で綴られたスケッチも含めて全てを死後はRASに遺贈したいと1901年には言っていたのだが、これも実現しなかった。アントニアディは1902年にギリシャ人と結婚したが、これはParisに於いてであって、結局1928年には仏国籍を取得するのである。ドルフュス氏によれば、アントニアディは仏文化の賛美者だったから、ということである。

 

アントニアディの謎の一つは、Juvisyでは給料を貰っていたが、それ以後どの様に稼いでいたか分からない点らしい。後のムードン(Meudon)でも給料は支払われていなかった由。稼げたのは建築法を知っていたからとか、絵を描いたという話もあるらしいが、麥肯氏は否定的である。聖ソフィア回教寺院のスケッチや水彩画の本をギリシャ語で出していたり(1907)、肖像画などのアルバイトがあったかもしれないが、これ等だけでは不十分であろう、というわけである。 

 

1909年は火星の大接近であったが、此の年アントニアディはフラマリオンと文通を再開し、彼の望遠鏡も使う。麥肯氏はこの頃までにアントニアディは運河を完全否定したと考えている。1909年はアントニアディがムードンの83cm大屈折La Grande Lunnette (J BAAOct 1993號の表紙)を自由に使える様になった年でもある。1909年九月20日がこの望遠鏡を使った最初の夜で、しかもその後経験しなかった(La Planète Mars の何処かに書いてあったと思う)程の最高のシーイングが得られた。麥肯氏はJ BAA 20 (1909) 80fからこの日のスケッチを引用しているが、実は同じ圖柄はLa Planète Mars にも出ていて、馴染みなのだが、タッチが違い、前者の方は生硬で、本の方の有名なアントニアディ調には遥かに及ばない。それに改竄もある。このことは周知のことで、私は本のスケッチの方はデッサンの本職がブラッシか何かで描き直したものと思っていたが、麥肯氏はそういう考え方はしない様である。尚、それまではJuvisyの屈折か Parisの自宅の22cmカルヴァー反射で觀測していた。

 

この年、ムードンでの像に関してアントニアディとローヱルとの手紙のやりとりがあり、これについては省くが、お互い可成り慇懃に書きあっているらしいが、一旦第三者に書くときはお互いの敵手を襤褸糞に書いていたらしい。ただ一つだけ、W SHEEHAN 氏が指摘していることらしいが、1909年十一月15日付のアントニアディからローヱル宛ての手紙の中に、アマゾニスを十秒から十二秒間シーイングの好いとき見て描いたという模様が添えられていて、これが麥肯氏の挿圖でみると、マリナー9號やヴァイキングの影像と見事に同定出来ると云える。アントニアディの手紙からの説明を引用すると“The soil appeared covered with a maze of knotted, irregular, chequered streaks and spots... ”という風である。麥肯氏はアントニアディに軍配を上げているのだが、しかし、引用のEE・バーナード宛ての手紙から察するところでは、暗色縞と高低差の関係については、アントニアディのは矢張り古い考え方であろうと思う。

 

1911年も彼はムードンで觀測する。兩年とも黄雲の觀測がある。1911年には色彩スケッチもしている由。尚、シーイングのアントニアディ尺度は1909年のL'Astronomieかららしい。他に、火星と関係がないが、1910年にはハレー彗星を“大屈折”で見ている。但し、核は見えない。1912年にはビーズ状の金環食が Parisの郊外を通り、St Germain (サン・ジェルマン)の森で、夫人やクロメリン一家と眺めた。

 

1913年頃から身体の不調もあり、人付きあいが悪くなったらしい。1914年と1916年はParis22cm反射で觀測したらしいが、スケッチは殆ど無い。“大屈折”は修繕中であった。第一次大戦中は報告の残務整理をし、最も良質のMemoirを此の時機に残しているそうである。大戦酣(たけなわ)の1917 (47) の九月に火星課を率いることを辞め、BAAも退会している。一応十五年のサイクルは熟した譯ではある。結構な重荷であったらしい。拝受の觀測やスケッチはBAAに残そうとしたらしいが、麥肯氏等には残念なことに、秘書が謝絶した様である。次期ディレクターはH・トムソンであった。アントニアディが天文に関しては何も書かない状態が1924年まで続く。1923年には RASの評議員も辞めている。

 

1924年の火星大接近には然しムードンに復帰する。そして無給ながら、1941年までムードンかパリ天文台で火星を觀測したようである。スケッチは多くL'Astronomieに出た。J BAAには1929年に手紙が一回出たきりである。この頃は火星に関してはJ BAAの時代ではなく、ジャマイカのピカリング(W H PICKERING)Popular Astronomy (1914年から1930年迄全四十四號)の時代で、報告はこちらに行っていたらしい。アントニアディのスケッチは1926年のレポートに出ている。1927年にはレジョン・ドヌールを貰い、その前の年には2500FFの賞金付きの賞を仏アカデミーから頂戴した。仏国籍を獲ったのはこれらの受賞の直後である。

 

La Planète Mars"1930 (60) 80FHermann et Cieから出版された。最初から成功であったが、J BAA等には批判が出た。麥肯氏は黄雲に興味があって、p182 31 décembre 1924 のスケッチを取り上げる。これはノドゥス・ゴルディ以外雲に全球的に覆われている姿だが、麥肯氏はアントニアディがタルシスの山という考えを持たなかったし、クレーターなど表面の凸凹に関して像を持っていなかったという意味の指摘をしている(と思う)。ただ、そういう想像圖はあるらしく、L'Astronomieからの挿画の引用がある。一方、彼はvegetationの信者である。1934年には『エジプト天文学』と“La Planète Mercure et la Rotation des satellites"を出版している。フィリプスの勧誘で、アントニアディは1935(65)になってBAAに再入会する。

 

アントニアディの觀測方法については、彼の觀測野帖が見つからないので詳しくは分からないらしいが、ドラジェスコやドゥ・ヴォークルールに麥肯氏が訊いたところでは、アントニアディはアイピースの処では火星を部分スケッチし、後で大きな円に描き直していた様である。後者の情報では、ブラッシとインディアン・インクの使用には完璧な技術を有っていた様である。麥肯氏はアントニアディのノートは、手紙と同様、手書きで神経質過ぎるくらい小綺麗に仕上がっていたと想像している。

 

30年代は惑星熱は冷めていたらしい。ローヱルは1916年に死んでいるが、運河は彼と共に死んだ譯ではなく、特に美国ではそうであった。1935年に当時のBAA火星課長のウォーターフィールド(R L WATERFIELD)宛てに可成り辛辣に皮肉っているようである(麥肯氏はunduly severe と言っている)。しかし、アントニアディはテラモのチェルルリ(V CERULLI) の葉書を引用しながら皮肉っているので、もともとはチェルルリかもしれない。ドルフュス氏の話では、アントニアディはムードンでは“気難しい”男として通っていたらしい。

 

30年代の後半まだ天文上の考察があるらしいが、大戦が1939年から始まり、減少する様である。通信も英仏間すら1940年の六月14日のParis占領以来難しくなるが、最後の手紙の中には、ナチスにはまだ勝てるという気持ちがあるらしく、機知に富んだものがある(B M Peek宛て)。麥肯氏は戦後世代だから、戦争中の都会の苦しさは引用で描写するより仕方がないが、“灯火管制にも拘らず”アントニアディはムードンで觀測する。彼の最後の火星觀測は1941 (71歳)で、麥肯氏の感想ではこの時まだ眼はまだ以前の様にkeenであった。1943年にドゥ・ヴォークルールがアントニアディをソルボンヌの研究室(フールニエやドルフュスが居る)に招くが、辞退する。彼はドイツの降伏(1944年八月25)を知らず、1944年二月10日に病院で死んだ。麥肯氏は死亡診断書まで調べたが、死因は不明、住所も間違っていたそうである。多分、これまでの手紙の暗示から心臓病ではないかとしている。健康については廿歳代から 不安を述べていて、強健では無かった様である。葬儀は四ヶ日後ギリシャ正教会で行なわれた。    

 

死後 SAFの代表が自宅を訪れたが、天文関係のドキュメントは何も発見されなかった。ドルフュス教授は、多分戦争中にアントニアディ自身が全ての記録をdestroyしたのであろうと推測している。

理査・麥肯氏はアントニアディに関して、meticulous(小心翼々)という単語を少なくとも二度使っている。後々の間違いに関して慎重であった、ということであろう。麥肯氏は、最後をアントニアディのバーナードに宛てた1916年の文面で締め括っているので、われわれもそれに倣おう:“・・・・・my only ambition is to defend the truth and write nothing susceptible of being overthrown. When we feel sure that our work will remain, that our representations of the heavenly bodies are accurate, and that we have honestly given to Caesar what belongs to Caesar, then we may quit this world with the satisfaction of accomplished duty.”     

       南 政


『火星通信』#139 (1993年十一月25日號) p1311掲載)


 

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