CMO ずれずれ艸 (南天・文臺)  その十五


 E H COLLINSON (19031990)


 

 BAA(英國天文協会)火星課のエドワード・H・コリンソン氏が 昨年(1990)の九月26日に他界された。1903年十一月15日の生まれであるから、八十七歳を全うされたわけである。既にJBAA 1991 Feb 號(101 (1991) 12)にリチャード・マッキム(理査・麥肯)氏が追悼文を書かれているので、もう旧聞に属するが、初盆ということで、紹介する。

 

 私がコリンソン氏の名を初めて知ったのは(或いは少なくとも文章を読んだのは)、多分1954年五月の富山での OAA総会のときに入手したパンフレットに依っている。これは「火星 The planet Mars」という題で、コリンソン氏が1953年十月28日の BAA総集会(General Assembly のことか?)で講演されたものの、山本一清博士の翻訳で、B5判十四頁にギッシリ謄写印刷されている。当時、コリンソン氏は BAAの会長(プレジデント)であったから、このパンフレットは BAA会長の話をOAA会長が譯されたという、凄いものだったのである。私の手元にはまだこのパンフレットが残っているが、最早セピア色になっている。私が十五歳、高校一年の時だったのだから仕方ない。しかし、読み返してみると、山本一清先生の翻譯は滑らかで、流石上手だなぁと思うし、コリンソン氏の話も当時のものとしては新しい情報も要領良く網羅されており、シッカリと書かれているという感じである。ただ、私はこれで勉強したという記憶はない。日本でもいろいろ紹介書は出ていたから、これぐらいのことは知っていたのだと思う。尤も、読み返してみて、次の様な話の後半は、当時の私の脳にはない:「サバ湾の南はノアキスと言い、不規則で大きく明るい地方で、ヘラス及びアージルと呼ばれる二つの明るい地方の間にあります。1928年にはサバ湾ほどの暗黒な太い筋(又は帯)がノアキスの中央を横切って、サーペント海から東南方へ現われましたが、これは火星面上に起った最大変化の一つでした。これはフランスのアントニアヂ、英国のフィリップ師、ピーク氏その他本会の火星課の人々に観察されましたが、時は1928年の十二月でした。当時の火星課長であったスティヴンソン博士によれば、この暗帯は1864年のドースが見たもの、及び1897年にフィリップ師が見たものの再現で、決して季節的なものではなかったようです。・・・ 」(思わず、ドースの例のスケッチを調べてみた)。当時コリンソン氏50歳、山本一清氏65歳。山本先生の大変なエネルギーを感じる。

 

このパンフレットの奥付は1954年三月25日印刷発行、滋賀縣田上天文台出版、価50円となっている。譯は殆ど新仮名使いである(但し、ゐます、とか、せう=しょう、は残る)が、舊漢字は散見する。「シーイングが悪くなった途炭に」という当て字が一ヶ所あった。上で、アージルとはアルギュレのこと、サーペント海はマレ・セルペンテス、など当時はおかしな呼び方をしていたわけである。必ずしも英語読みではなく、英語ならアルギュレはアーガイアーであろう。

 

尚、富山の総会には勿論山本先生をはじめ、木邊先生、佐伯先生、村山先生たちがご出席であったが、山本先生以外の方はこの時初めての拝顔であった。山本先生には初めてでも最後でもなかった。佐伯先生には私の最初の頃の火星スケッチを見ていただいた。ソリス・ラクスの南のアムブロシアが濃化した頃で、好く見ているといわれた。村山先生は八ミリで参加者を撮っていた。富山OAAは津田さんがお世話になっているようであった。多分、このとき木邊さんさんの40cmカセグレインが富山に導入されたときだと思うが、私は餘り記憶がない。福井からは花山豪氏と一緒で、富山駅を降りたとき立山連峰が迫って見えた記憶があるが、Nj氏が一緒であったかどうかは覚えがない。

 

 扨て、コリンソン氏であるが、この講演をしたあたりはよく活動されていた様である。理査・麥肯氏によると、火星についてのこの講演は直ぐにspecial BAA reprint として紙価を高めたらしい。コリンソン氏はまたこの時期 RAS(英國天文学会)の仕事もしている。そして、1956年にMars SectionDirectorに就任する。彼の火星の初観測は1924年の大接近だそうだから、30年のキャリアーである。21歳の初観測では友人の20cmの反射を使ったらしい。ブライトンで休日行なったもので、九枚だけだったが、これが火星課への初の報告。1930年から1935年まではNacton, Ipswich Orwell Park 25cm Merz屈折を使って、火星や木星を観測した。ドームからの眺めはとても好いとこらしく、理査・麥肯氏に語ったところではこの時の作業が惑星に関しては最も成果があった様だ。1935年以後は BAA所有 の25cm With-Browning反射を借受し、Felixstoweの庭に設置していたようで、1980年代もう体力が無くなるまで、置かれていた。彼は流星観測の他、この望遠鏡で淡い変光星も観測していた由である(もともとNova Aquila 1918を、発見三日後から数ヶ月に亙り光度、色彩変化を観測したことがあり、生涯変光星には興味があった)。1938年結婚。1939年第二次世界大戦勃発。1941年六月から The Friends' War Victims Committeeのメンバーとして救護活動に従事した。職業が弁護士畑であったこととも関係する。

 

 扨て、戦後の火星課を1956年から1979年まで主宰するが、レポートは1956年度から1978年度迄書いている由である。1973年七十歳で仕事からは引退した様である。ご夫妻は Snape Music Festivalsには欠かさず出掛けていた様だが、奥さんは1979年他界された。なお、子供さんは二人、お孫さんは七人の由。

 

 私は、先の「火星」の原文を調べて読んだことはないし、報告もいちいち当たってはいない。ただ1969年、1971年あたりのJBAAのレポートのコピーを持っているくらいである。1969年には観測者の欄に“E. H. Collinson, Ipswich, 25cm Spec”とあるが、1971年のレポートは、彼自身の執筆ながら、彼の名は観測者名簿に見当らない。代わって、J H Rogers氏等が登場する。理査・麥肯氏はまだ登場しない (鏡をspecという記述の仕方はBAAで使われていた)

 

 1979年に BAAの火星課が消失し、地球型惑星課の一部門になってしまったが、理査・麥肯氏によると(彼自身もこの措置には反対の様だが)、コリンソン氏も必ずしも賛成でなかったようだ。当時人材が不足したからであろうが、1980年のレポートからは理査・麥肯氏(当時弱冠20歳台前半)が立派なものを書いている。彼の活躍は久しいので、早晩火星課も復活しよう。

 

 コリンソン氏は写真にも興味があったから、レンズのコレクションを持っていたらしいが、早くに BAAに寄贈している。死の一年前には観測機械や文献もすべて協会に委託した。彼の死は BAA百年祭の一ヵ月前であった。亡くなったとき、 BAAの会員としては三番目の古参であったようだ。BAAには観測器などを会に寄付し、後輩が使うという伝統がある。

 

 尚、 BAAの火星課では火星面を三つの領域と極地方に分ける習わしだが、これは先の山本譯「火星」によると1941年来の伝統で、P M RYVES(コリンソン氏の前のディレクター)の考案らしい。即ち、RegionT: Ω 250W010WRegionU: 010W130WRegionV:130W250W。山本氏は第一地域・・・ と譯されていられる。

  

In J BAA 101 (1991) 12, Richard McKIM gave a memorial address in honour of Edward Howard COLLINSON who was the former Director of the BAA Mars Section and died on 26 September 1990, just before the 1990 opposition of Mars. In the Far East we have a tradition to think of the deceased in mid-August every year (BON festival) and hence I write here a bit from my personal memory.

 

 It was in 1954 when I was fifteen years of age that I first heard the name of E H COLLINSON. On the occasion of my attendance at a General Meeting of the OAA held in May 1954 at Toyama, I came across a mimeographed copy of a translation of a good introduction to Mars entitled The planet Mars, the writer of which was nobody else but E H COLLINSON: The lecture was the one originally given on 28 October 1953 in a general meeting of the BAA. Issei YAMAMOTO, the founder of the OAA & the OAA President at that time, must have readily recognised the excellency of the article: I YAMAMOTO himself translated it into Japanese and published it in a form of pamphlet to be available to the OAA members. I (MINAMI) still keep the pamphlet, and am sure that it was a good summary of the update knowledge on Mars at that time. By the way, 1954 was the year when the planet approached upto 21.9 arcsecs, and I first obtained a total of 170 drawings of the Martian surfaces. Dr Issei YAMAMOTO passed away in 1959.

 

 E H COLLINSON was President of the BAA when he delivered the lecture. He then led the BAA Mars Section as the Director from 1956 through 1979. He wrote Section Reports at each of the Mars apparitions from 1956 to 1978. At the perihelic opposition in 1971, he had more than 50 members who contributed observations.

 

 According to McKIM's obituary notice, E H COLLINSON was born on 15 November 1903, and hence he enjoyed longevity of 87 years. He joined the BAA in 1920, and was its third-oldest member when he passed. He contributed Mars observations to the BAA first in 1924, the year of the closest opposition of the present century. Though he became less active in the 1980's, he thus experienced five perihelic oppositions of Mars through his happy life.   

 


南 政 次 『火星通信』#108 (1991年八月25日號) p927掲載)


 

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