CMOずれずれ艸 (南天・文臺)

               その九


Ten Years Ago 地下道


 

◆二度目の臺北滞在は1988年の大接近のときであったから、今年で丁度十年になる。一度目の1986年の十ヶ月は中央研究院(Academia Sinica)の招聘であったから、通勤は東の郊外の南港ヘ、連続講義は南の郊外の國立臺灣大學(臺大)へという慌ただしく疲れる滞在であったが、1988年の半年は私費であったから、氣楽で臺大に(宿舎も)お世話になっただけであった。dutyはないから、臺大の物理系教室で數回話しただけだと思うが、それが木曜日だったこと、特に十一月3日の下午、確かに話したという記憶があるのである。たまたま、その日が何の日だか、日本では休日であるから、記憶があるのと、特に印象深い出來事に出喰わしたからである。

 そのことを述べる前に、臺北の地下の横断歩道について觸れよう。臺北は歩道橋も多いのであるが、道路は廣いから、地下聨絡道が大きな交叉點には這っている。歩道橋は何處も日本と變わらないが、地下聨絡道は天國から地獄まである。

私が1986年に王永川さんの案内で最初に體験した地下道は多分中山北路を潜って士林へ出るだけの道だったと思うが、階段を降りるなり、兩側には華やかに高中生など若者を相手にした様な色んな出店が並んでいて、それは楽しい雰囲気に出喰わした。壁には大きなポスターが貼ってあり、私は本田美奈子という歌手を初めて知った。中森明菜もあった。この地下道はのぼって出てからも、同じ様な店が並び、地下道は前奏に過ぎない。

私は結局この士林(スーリン)界隈が最後まで氣に入っていた。大抵のものはここで間に合い、眼鏡のことは前に書いた通り、實は布團などもここの市場で買った。200元の風呂屋もここ、私の大好きな廣東粥や基隆天麩羅はここの常設の屋臺であった。今も使っている目覚時計もここ。すべて、私には最初に潜った地下聨絡道の倹しく華やいだ雰囲氣と無縁でない。

こうした夜店に占據された地下道は臺北には何箇所もある様で、何處かで何回か經験した。然し、これ等とは違った寂れた感じの地下道も多い。1986年の徳惠街から圓山天文臺へ行くのにも二ヶ所通るが、ここでは夜店は見たことがない。1988年の夜歸りに208路線バスに乗って臺大横の「公舘」という處の南端で降りるのが常道だったが、そこから宿舎へ行くには基隆路へ出なければならない。それには地下道を一つ潜らなければならないのである。この地下道は決して道幅が狭くないが、だから却って、天井が今にも落ちそうで、實際に傷みがきつい。しかも、人通りは殆どない。甚だ淋しく、甚だ氣味悪かった。手抜き工事の話はしょっちゅう聞いていたし、もし、いま地震でもあって、ここに埋もれたら、間違いなく永久に私は行方不明であろうと思ったものである。自然早足になるが、自然この道を避ける様になった。そこで、巴士を一つ手前で捨てる。不思議なことに少しずれるだけで公舘は賑やかなのである。そこから舟山路へ入るか、臺大のキャンパスを横切るようなルートが殘っている。前者にも思い出があるし、後者は昼夜別なく記憶があるから、混乱するが、正門から入って裏口から出て宿舎に向かう。尤も出口は夜遅いと閉まって仕舞う所もあって、これはこれで一つの話になるぐらい苦勞する。

思えば臺大の邊りは士林同様あれこれと想い出が多い。前に書いたようにH先生(故黄振麟先生)に鍵を拾って頂いたのもこの近くの喫茶店だし、張麗霞さんにヴェトナム料理を初めて紹介されたのもここだし、施明信さんに中國風喫茶に招待されたのも、この邊り、トレイを引っ繰り返して恐縮した自助餐も臺大の正面であった。

実は臺大正門近くの羅斯福路(ローズベルト通り)には地下聨絡道がある。この邊りは學生相手かどうか、士林とは違った趣ではあったが、賑やかに夜店が出ていた。書籍なども出ていた様に思う。ただ、空が晴れている時は私は世間と無縁になるので夜店の様子の變化など、尾代孝哉君の方が詳しいと思う。私の乏しい經験からすると總じて夜店は何處であろうと一定の掟(おきて)かルールがあって、時間交替が差配されていたのではないかと思う。夜店は當然昼は出ないが、夜でも雙城街などでは或る時刻が來ると、夜店が交替していた様に思う。

 その臺大正門近くの地下道も昼は何もなく、普通の聨絡道である。然し、夕方になって夜店が並ぶのだろうと思われた。1988年十一月3日、講義を終えたのは下午3時すぎであったと思う。それから、Cさんの部屋で雜談した。普通なら自分の部屋に戻るのだが、妙な具合に、部屋は数學教室に與えられていて、數ブロック奥である。多分自ら面倒に思って、雜談して物理學系からそのまま、夕食を済ませて天文臺に向かう心算であったのだと思う。尤も、どれだけ雜談していたか覚えがないが、夕食には早いなぁと思いながら、ぶらりと正門へ向かったのを覚えている。對岸のレストランへ入るつもりで地下道を降りていったのであるが、當然未だ夜店などは出ていない。ただ、通路の終わり近くの傍らに、小さいお河童の女の子が座っているのが見えた。きちんと正挫し、深々と頭を下げている。私は譯が分からなかったが、通り縋りに、彼女の前に、丁度「ままごと」のように紙人形が數體置いてあるのが見えた。顔を地面に向けたまま、女の子の顔は見えなかったことが却ってインパクトとなって、階段を上がって雜踏のなかに入った途端、私は慌てたのである。

依然譯が分からなかったが、ポケットの小銭を確かめると、踵を返した。女の子は同じ姿勢で俯いていた。私は小銭を全部横に置いたが、中國語は出來ないし、品物を頂くのが禮儀かと思ったが、彼女の愛用であるかもしれないし、品薄であったから、そのままにした。彼女は音は聞いていたであろうが、身じろぎもしなかった。再びそそくさと雜踏の中に戻って、私は別のポケットにもっと多くの小銭があることに氣附いて恥じたが、もう降りて行く勇氣はなかった。

もし、彼女が顔を見せていたら、あのような鮮烈な印象は殘らなかったに違いない。紙人形の謎も強烈であった。夜店の始まるほんの數十分の間の出來事であったのだろうが、それ以前に同じ時間帯に通ったかもしれないが、その後同じ時間帯にあの地下道に入る勇氣はなかった。あれは賢い"ままごと"であったのだろうか、或いはもっと深刻なことであったのであろうか。言葉の不自由な外國人には荷が重すぎるし、他の臺灣人を信じるより他なかった。

 誇り高い臺灣人は物乞いをしない、所謂おごられることすら潔しとしない、というのが私の持論である。別に誉めている譯ではなく、物乞いなら先進國のロンドンで私は盛んに經験した。一寸そこのパブで一杯やりたいが、足りないので惠んでくれないかというのから、ネクタイを絞めたりゅうとした紳士から札入れを忘れて、地下鉄に乗れない、ついては拝借できないか、というのなど様々出喰わしている。その都度神の惠みや神のご加護に浴しているのだが、寧ろこちらの方が氣詰まりがない。あの國は、例えばコヴェントガードゥンのオペラでも、王室のご加護で幾らいくらの補助を頂いたなどとコーラスがあって、拍手が湧くぐらいだから、物乞いで何もかも成り立っている様なものである(最近はエージェンシー化=独立行政法人化でそうでもなくなったようだが)

臺灣人は物乞いする暇があったら、働くだろうし、商賣をするだろう。夜店がその証左である。資本や店構えなど問題でない。臺大横に凄く品數の揃った瀬戸物屋が毎晩たった。少々の店構えでは入り切れないぐらいに並ぶのである。毎晩であった。毎晩同じ物が同じ處に並んでいる風であった。然し、深夜、これらの瀬戸物は皿一枚まで仕舞われ、すっかり邊りは歩道に復歸するのである。昼は何事もなく歩道である。夕方、また皿や茶碗が一つひとつ丁寧に並べられる。流石地下道ではなかったが、地下には入り切れない品數だったからであろう。

 

これを書いているのは十年後である。寧ろ私は様變わりを想像して、感慨に耽っている。夜店の瀬戸物屋の一帯は大學の敷地に戻されている筈で、今はあの勤勉な店はあそこでは見られないだろう。地下道も變遷したであろう。氣掛かりなのはあの少女だが、もう娘さんだろうが、あの特異點は私に中でどのようにも収斂しないので困ってしまう。

 

士林に話を戻すと、1986年のとき例の基隆天麩羅屋には兩親を手傳っている可愛い坊やがいた。彼がどういう役割をしていたか忘れたが(粉を塗していたか)、彼が居ないと些か寂しかった。1988年のときは珠にしか出掛けなかったが、例の坊やが大きくえらく成長していて、親しみが半減した記憶がある。動作もてきぱきとして親父さんの替わりをしていた。もう顔も覚えていないが、あれから十年である。さぞかし働き者の若者に成長して、多分他の仕事に從事しているであろうと想像するのである。然し、地下道のあの顔を地面に伏せた儘の少女は私の中では成長しない。

 


南 政 火星通信』#208 (25 October 1998 issue) p2340所載


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