ローヱルの伊那谷で、第CMOかる

The 10th CMO Meeting

of the Planetary Observers

was held in Ina, Nagano, at the beginning of August 2002, organised by Toshiaki HIKI (Hk), Minowa, Nagano

(English)


 

今回の懇談會は長野県箕輪町の日岐敏明(Hk)氏のお世話で、天龍川に沿う伊那市及びその近邊で八月2日の夜から5日の午前に掛けて開かれた。土曜・日曜しか都合のつかない人が多く、やや慌ただしい處もあったが、火星が空に無いこともあり近年になく心愉しい會合になった。伊那谷は中央アルプスと南アルプスの三千メートル級の山稜に囲まれた處で諏訪湖からの天龍側が流れる景勝地である。筆者(Mn)は伊那谷が1889年ローヱルの通った道であることから、少し早く入り、Hk氏と少し下調べをしたが、2日の午後には伊舎堂(Id)氏が松本から塩尻に到着され、Hk氏の案内で駒ヶ根の西駒(木曽駒)に通じる山麓の公園に遊んだ。ローヱルのNOTOに出てくる宮田(みやだ)村で、昔は大田切川の天龍川への注ぎ口でぬかるんだところらしいが、これは木曽駒からの雪解け水の所爲で、いまはその上流でマルス・ウィスキーが作られる。

 

夜には先ず關東から阿久津(Ak)氏の車で、豪雨の爲にやや豫定より遅れたがAk氏と村上(Mk)氏、成田(Nr)氏が無事到着した。參加豫定であった常間地(Ts)氏はご母堂の急病の爲に參加を見合わせた。一方、名古屋駅で落ち合った岩崎(Iw)氏、森田(Mo)氏、尾代(Os)氏の一行も無事西田(Ns)氏の車でICに降りてきた。宿は伊那市のInternet常設の気持ちの良いホテルで、先ずは和室に屯して舊交を温め、午前3時頃まで交流、雜談に華が咲いた。

 

 3日は朝食後9時頃から矢張り和室で車座集會を始め、午前一杯主に2001年に絡むMnの講話をということになった。途中オジェ(Og)さんが到着された。この日は伊那の夏祭りの日で、混雜が豫想されたが、昼食をソースとんかつその他でいただいたあと、午後は隣村のHk氏の勤める南箕輪小学校へ移動し、圖書室の一角の會議コーナーをお借りし、ここで會議となった。

 

 

 

 

 


 

スピーカーはMk氏、Ns氏が2003年の火星について、また關連してAk氏、Id氏などが計劃を語った。これらの内容や模様については追って報告される。冷房は無かったが、風が入って気持ち好かった。

 

 

 

 

 

夜は伊那のローヱル街道では「ねぶた」も出るような踊りの行進が續いていたが、我々は懇親會を伊那料理をつつきながら持ち、その後、Hk氏宅に招かれ、御尊父の丁寧なお言葉を頂戴し、二次會となった。ここも冷房は要らず、畑を風が渡ってくる。OgさんはHk氏のお子さん達と英会話。Hk氏の21cm反射の鏡筒を拝見した。尚、日岐家の本家は少し離れたローエル街道沿いにあり、當時のご先祖は區長であったようである。

 

Mo氏は多分Mk氏よりもアルコールに強く、ホテルに帰ってからもAk氏とパソコンを挾んで、畫像やフィルターのことを長く話込んでいたようである。

 

4日はホテルを拂い、全員先ず箕輪の萱野高原に登った。ここは昔、Hk氏が佐伯恆夫先生を案内したところの由で、眺望がよく中央アルプスをバックに伊那谷の大半を眼下に収める。

 

 

 

萱野高原をあとにして、先ず下諏訪に出て、ローヱルの立ち寄った郵便局跡を訪ね、また兼ねてからHk氏が突き止めていた高級旅籠「ききゃうや」(桔梗屋)にお邪魔して、當主の兩角美さんから全員お話を聞いた(Hk氏と筆者は二度目)。桔梗屋の看板はローヱル天文臺に所藏される乾板に冩っているのである。対照上右の写真は一部をトリミングしたが、全體の構圖は優れたものである。

 

 

 

「ききゃうや」の看板は右のものの他、博物館にも一枚収められているそうで、少なくとも三枚存在する。

 

 

 

 

 

ここで一番遠いIw氏が下諏訪駅から塩尻に向かい、次いでId氏が上諏訪駅から特急で羽田へ、Ak氏、Nr氏も高速道路で東へ去った。

 

殘った組は、塩尻峠を越え、諏訪湖を見下ろす展望臺で休憩したあと、ローヱルの宿泊した塩尻の脇本陣(ここもHk氏が豫め探査)へ行き、當時の庭やお稲荷さんなど見たあと、いまの當主に招かれて上がり込みお話を拝聴することとなった。殘念ながら當時のゆかりの物は見つかっていないが、庭石は多分昔の配置のまま遺っている。ローヱルの訪問の前に脇本陣は火災にあっているらしく、殘った石も黒い。ここは川上家と言って、いまは塩尻辨當で有名なのだそうで、いずれMk氏の報告がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、塩尻駅でMo氏とOs氏を見送り、殘留のHk氏、Mk氏、Ns氏、Og氏とMnは萱野高原に引き返した。途中、夕食中にId氏から羽田に無事着いた由の電話連絡が入り、萱野高原の小屋でくつろいでいるとき、無事那覇空港着の連絡が届いた。多分Os氏は南紀に向けて未だ車中にあった頃と思う。

高原からは伊那の花火大會が見えた。部屋は蛾だらけになったが、戸は開放のまま眠った様である。

 

翌朝、中央アルプスも晴れ、北アルプスの槍も望遠鏡に入ってきた。ローヱルの通ったのは(下の写真で示すと)伊那谷の中央を走る樹木の並ぶ段丘沿いにある。ローヱルは下諏訪の方向の右から左へ飯島へと馬車で急いだわけである。天龍川は左手に見ることになるが、この邊りでは未だ渓谷の風格ではない。天龍峽などは左手奥である。

 


 

午前中に萱野高原を降り、Hk氏は學校へ、Mk氏とOg氏は飯田線「さわ」駅から北上、Ns氏は中央高速を南へ、Mnは北へそれぞれ別れた。Mk氏とオジェさんは諏訪湖などでゆっくりしたようである。Mnは更にローヱル行脚を續けたが、それはWebで紹介する。

 


 

以上、概略だが、有意義な愉しい會合であった。手厚くお世話いただいた日岐さんには特にお禮を申し上げ、參加の皆さんの勞にも感謝したい。

               (Mn)


 

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