新・歳時記村 (10) 

鎌 倉 道


★☆春の彼岸も過ぎ、散歩道には沈丁花の薫りが濃厚に漂う様になった。うららかな一日、野芹を摘みに境川沿いの田地へと足を向けた。境川は横浜市と藤沢市の市境を流れている川で、下って江ノ島のそばの片瀬海岸で海へ注いでいる。横浜市泉区の古道案内図

(http://www.asajiro.com/izumiku/old_time/kodou/kodoumap/kodou_map.pdf)

の川に沿って「かまくらみち」と記されている道へと入る。鎌倉道の名称は、鎌倉から放射状に関東各地へ向かっている道に付けられ、鎌倉に幕府の置かれた時代の名残で近郊の所々にある。★☆此の道は小川に沿って緩くカーブして田園風景の中を辿っていて、昨秋散歩の途中に通過して情緒を感じたところであった。春になっては、土手には「ふきのとう」も顔を出し、散り行く梅にはメジロが群がって騒がしかった。道に沿って行くと立派な門構えの家があった。表札には「美濃口」とあり、横浜市の建てた「横浜市地域有形文化財指定」の看板が立っていて、江戸時代の18世紀後半(明和〜寛政年間)の俳人「美濃口春鴻」旧宅とあった。★☆説明書によると、美濃口家は下飯田の名主を代々勤めた家柄で、春鴻の晩年は相模俳壇の長老として大磯(藤沢と小田原の間の西湘地区にある町)の鴫立庵(しぎたちあん)の後見もしていたとのことで、美濃口春鴻関連文書が文化財の指定を受けてここに保存されている。鴫立庵は日本三大俳諧道場の一つ

(http://www.kanagawa-np.co.jp/furusato/town18.htm)

で、名称は、西行法師の歌(「こころなき身にもはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」)が由来の由。但し、大磯町には鴫立沢の地名はあるが、歌に詠まれた場所に関しては諸説あり確定していないという。

(http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/mezaki-tokue-saigyo.htm)

★☆折良く畑を耕す美濃口家ゆかりの老人と話をすることが出来た。やはり此の道は旧道が半里ほど昔のまま残っているところで、今は舗装され小川は渠になっているが風景は昔とあまり変わらないということであった。周囲を指差し、古には対岸の丘から戸塚にかけての広い土地が美濃口家のものであったと懐かしげに話された。小川のほとりに芽を吹き始めている柳の大木の由来を尋ねたところ、老人の子女が華道の稽古に使った花材を小川の土手に挿したものが根付いた柳で三十年ほどは経っているとのこと、柳色青々となる季節が楽しみである。最近、この道連日散歩兼ねて歩いて通っているが、昨日もこの道越しに丘側に白い花の咲く木を目にして寄り道をすると「しろもくれん」の大木が花盛りであった。           

村上 昌己 (Mk)      

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