★次の原稿は最接近前、OAA『天界』2003年六月号に掲載された火星記事です:

 

2003年の火星大接近

Great Appariton of Mars in 2003

 

OAA火星課『火星通信

  南 政 M. Minami,

    T. Nakajima

 村上 昌己 M. Murakami

 

 

1. 鳴呼、2003年」

 

 前世紀後半に活躍した火星観測者にとって、2003年の火星というのは特別な情緒的な響きをもつものであったと思う。火星の超大接近は79年周期で訪れるのであるが(1)、廿世紀の最大の最接近は1924年八月22日に起こったもので(最大δ=25.10" (2))、多分その頃から待ち望まれていたものである。ほぼ76年毎に現れるハレー彗星は人生の長さとほぼ同じ周期をもつという意味で出会いは話題になるが、この79年周期の大接近も人生で邂逅するのは一度あるかないかという稀代のものである。前回大接近の1924年にお生まれになった村山定男氏やオードゥアン・ドルフュス氏のような火星観測家にとっては特別の感慨を持つ大接近であろうと思う。

 1924年といえば、既に伝説的であるが、54歳のE. °M.アントニアディが活躍していた時期で、彼は1909年の大接近(最接近が九月18日、最大δ=24.03")からムードン天文台の83cm屈折で観測しているが、1924年大接近はもちろん待ち望んだものであったようで、後の集大成"La Planète Mars" (Hermann et Cie, Paris, 1930)では1909年の興味ある火星気象に関する記述は15項目ほどであるが、1924年には三倍の45項目ぐらい鏤(ちりば)められている。

 

2. 過去の大接近の幾つか

 

 アントニアディがムードンで初めて観測したのは1909年であった(正確には九月20日が最初で、またこの日には彼にとって空前絶後の秀逸なシーイングに三十分ほど出会っている)。一方、この1909年大接近はG.V.スキアパレッリが最後の観測を行なった年である。翌年ハレー彗星と共に彼はこの世を去った(実はスキアパレッリは1835年ハレー彗星と共に誕生している)。スキアパレッリの大接近は何といっても1877(最大δ=24.85")のもので、ブレナ天文台で火星観測を始め、40本の「運河」を記録し、また火星の地名を考えた接近であった。この大接近ではN.E.グリーンも質のよい火星図を作ったが、まだ、1867年のR.Aプロクターの旧地名採用である。また、アメリカではA.ホールが二つの衛星(ポボスとデイモス)を発見した年でもあり、日本では西南の役の年で、火星は「西郷星」として話題になった。

 1924年の79年前といえば、1845年になる。最大視直径が25.09"の超大接近で、19世紀では25"を越えた唯一の年である。この年ではO.M.ミッチェルが南極冠から分離する所謂ミッチェル山を発見したことが主な出来事であったろうか。

 W.ハーシェルが天王星を発見した1781年も実は火星の大接近の年に当たる。ただし、特異な大接近で最大視直径は23.71"にしかなっていない。ハーシェルは天王星の発見の日の朝に火星を見ていたようだが、夏には自転周期などを出している。18世紀で25秒角を越えたのは、1719(25.03")1766(25.08")であった。前者ではG.F.マラルディの活躍があるが、後者では不思議とめぼしいものは知られていない。ハーシェルがハリファックスからバースへ移った年で、まだオルガン奏者として天文学には興味を示していない。なお、2003年は1719年の284年回帰になる。

 もう一つ記念すべきは1672年の大接近であろう。最大視直径は24.55"であったが、Ch.ホイヘンスが南極冠を描いた年である。ホイヘンスが後にシュルティス・マイヨルと呼称される暗色模様を描いたのは1659年であるが、この年は大接近ではなく、最大視直径が17.15"としかならなかったし、南極冠は既に極小になっていたのである。

 一方、1924年より後の大接近は、1939(最大δ=24.13")1956(24.76")1971(24.91")1988(23.81")と続いたわけである。1939年は村山定男先生が初めて火星のスケッチを残された接近であり、不肖筆者達の内の二人(M.MnT.Nj)が生まれた年である。先のハーシェルの大接近の792年後の再来となっている。E.C.スライファーがフラグスタッフから南アに遠征し見事な写真を撮った年でもある。

 1956年は福井の足羽山天文台が出会った最初の大接近であるが、ノアキス大黄雲が現れた大接近として記録的である。なお、この1956年はスキアパレッリの1877年の79年後に当たる。

 1971年はもう一人の筆者(M.Mk)が火星スケッチを残した最初の大接近であった。やはり史上空前の大黄雲の現れた大接近、マリナー九号がこの大黄雲に遭遇した年として記憶されているであろう。1971年の79年前というのは1892年で、W.H.ピッカリングが33cm屈折を使ってペルーのアレクィッパで集中した大接近(最大δ=24.80")であった。われら愛すべきP.ローヱルは既にピッカリングと文通はしていたが、まだこの年の年末に15cmクラーク屈折を持参しながら東京でウロウロしていたわけで、最終的に日本を去るのは1893年末、火星には1894年の接近(最大δ=21.72")から没頭することになる。

 1988年の大接近は最近のもので、誰にも記憶にも残っているであろう。しかし、最大δ24"にすら至っていなかったのである。

 

3. 2003年の最接近

 

明らかに、たとえ個人的に火星観測半世紀といったところで、上で見るように20世紀後半のわれわれは25秒角の火星に接してはいないのである。火星観測のベテランといわれた観測者で25秒角の火星を知らずにお亡くなりになっている方も多い。そういう意味でも2003年は待望されていたのである。来るべき2003年八月2710GMTの最接近が、しかも1924年のδの最大値を凌駕するということも早くから知られていたことである。実際には2万キロ強の差に過ぎないのであるが、スペース・シャトルの「似非宇宙」をはるかに越える。最大視直径は25.11"とされる。今回の「黄経衝」は火星の近日点を通過の直前(40時間)に起こる稀にみる機会(黄経衝は2818)なのである。

 実は火星の視直径は、ベルギーの計算家として名高いジャン・ミーウスの計算結果(3)によると、西暦紀元後2000年の間、2003年の値を越えることがなかったということが見て取れるのである。しかし、今後は2百年(205)ほどすると2208年に似たような接近が訪れるほか、その79年後の2287年には今回の接近を越えるという結果が出ている。今世紀中には2050年八月15日に25.02"2082年八月30日にはδ=25.06" となることが知られているが、2003年の場合を越えるものはない(4)

 ここ2千年の間に、大接近の彼我の距離が2003年のそれを越えることがなかったこと、然し、今後は更に近付くことがあり得るということをどう考えたらよいであろうか。彼我の距離が太古から縮まっているのであろうか。この点に関してALPO火星課のジェフ・ビーシュ氏がその友人と共にワシントンの米国海軍天文台のスーパーコンピュータで計算を敢行して面白い結果を出している(5)。もちろん、現在知られている太陽系の常数を使っての話で、例えばここ数千、数万年にわたって太陽系を擾乱したような「忘れられた現象」がなかったとして外挿するわけであるが、それによると九大惑星や月の摂動だけで、例えば79年ごとの最大視直径のピークの変動はジグザグをくり返しながらも大きな「うねり」をなし、現在を挟んでかなりの幅の期間で、いまその波形の上り坂にあるということなのである。定性的にこの「うねり」がむしろ軌道の安定性から推察される限り、かなりの過去に遡れば一旦「どん底」の位相を挟んだ上で、今回と同じような接近があったと考えるのも自然で、さらにもっと超大接近も可能であった(あろう)と考えられるのである。ビーシュ氏達は20万年ほどスーパーコンピュータを走らせたようであるが、ほぼ10万年周期の「うねり」が見つかり、視直径が26.2"ほどに接近する可能性もあるようである。逆に「どん底」になると24"角を越えない氷河期が続くことになる。要約すれば、いまの軌道や惑星常数を維持する範囲では、最大視直径はジグザグをくり返しながらピークは24"弱から26"強までの幅を往き来する可能性があり、現在はその「上り坂」にあるということになるのである。定性的には、われわれの知っている「有史」の範囲では、これは腑に落ちる話である。定量的にはかなりの変更を覚悟しなければならないが、ビーシュ氏達の計算では「氷河期」は25千年前前後に起こっており、その以前に今回と同じような接近は57千年前には可能であったとされ、また現在から2万5千年後には最高26.04"まで伸びるという結果である。

 使われる初期値は近代天文学が始まってからのものであり、桁数の精度が外挿にどこまで耐えるかどうかは難しいところであろうし、質量などについても精度の出ていない惑星もある以上、全体の精度は落ちるし、「失われた現象」によって数千年程度過去に擾乱があった場合は修復の機会も失われているわけであるから、細かな定量的な数値については信用がならないわけである。中野主一氏に伺ったところでは、初期値がここ2百年の観測を引きずっているとして、精度はせいぜい過去千年、未来千年程度ではないかということである。

 しかし、「上り坂」をみるには斯様な計算は大いに意味があり、いずれにしても、これら初期値について当分は劇的な変化はないとすれば、こうした興味深い議論が現実味を帯びて可能なのも「2003年ならでは」ということは間違いない。

 

4. こんにちの火星観測

 

 さて、火星観測の立場から考えると、大接近が大きな意味を保っていたのは過去のことである。先に見たように、それぞれの大接近にはそれぞれ特徴的な観測が伴っているが、例を一つあげれば1877年以降懸案となる「運河」を始め微細構造の検出の問題が附き纏った。これには大接近が有利であることはいうまでもない。ローヱル天文台などは典型的であるが、1956年にはフラグスタフで11000葉、ブルームフォンテインで37000葉の火星像を得ているのに対し、1948年の小接近では1000葉、1933年に至っては500葉しか得ていない。もちろん撮影条件そのものが小接近では不利なのであるが、力の入れように隔たりのあることは明白で、ひとえに運河検出の問題が引っ掛かっている。小接近の時は、ローヱルやピクの像を合わせても、観測期間は40日に満たず、火星の全領域の像すら得られない場合があるのである。季節を測るLsの幅でいえば、20°に満たないというお粗末な結果である。

 こんにちの火星観測ではもはや微細構造の検出が主眼とはなっていない。火星の観測は簡単にいえば火星の季節の観測であって、地勢はそれに関わるものとして大まかにしか関心が持たれない。暗色模様は下地として確信されているが、微細は気象には関係がなく、その形を変えても、それは気象の影響に依るものであって、興味を持たれるのは気象のほうである。もはや明色模様だけでなく暗色模様も気象や季節の指標に過ぎないのである。 

 火星が日照の季節を蒙るのは、地球と同様に火星の自転軸が公転面から傾いているからであって、南北極冠の交代に代表される変化が基軸となる。対象となる大規模な現象には昨年発生したような全球的に拡がる大黄雲から、朝夕に見られる靄や霧の様子、山岳雲の日変化・季節変化まで様々な現象を捉えなければならない。

 季節を見るには大接近の時をのみ追跡しても全体を把握できないことは明らかである。2003年の場合を採っても、視直径が14秒角(小接近最大値)を上回る期間はλ=200°Lsからλ=293°Lsあたりまでであって、火星一年の1/4に過ぎない。端的な例をあげるなら、大接近の時は南極冠とそれに纏わる現象を観察するには適しているが、北極冠とその動向、その影響に関わる気象を観察するのはまったく不可能なのである。

 こうした推移は、マリナーやヴァイキングの探査によって齎された結果によるところが多い。これらの探査が齎したものは火星表面の詳細というようなことではなくて、火星が地球のような緑豊かな、或いは色彩豊かな惑星ではないことを徹底的に示したことが大きいのである。気圧も予想以上に低く、水の働きは予想以下、更には表面色彩が短波長(青色)光を欠いていることなどが新鮮な火星像を齎したのである。地球との類推で設定されたような「火星暦日」など殆ど意味がないことが分かった上で、火星独特の季節が問題になる、という点が新しいのである。

 巷間では、探査船が火星の表面に近付いたり、表面に下り立ったりして、模様や活動について詳しい様相を伝えたからには、もはや地上からの観測は意味がない、趣味の域を出ないというような言説がみられないことはないが、これは上に述べたような大接近しか顧みなかったという態度とさほどの径庭がない。むしろ、火星表面の固定的な情報が整備され、土台が整うことによって、われわれの観測に幅と意味が出てくるとさえ言えるのである。われわれの内二人(M.MnT.Nj)が眼視による連続観測に一層の力を入れ始めたのはマリナー六&七号が火星を目指している頃からであって、今までの砂上楼閣のような得手勝手な観測に別れを告げることができると感じたからであった。逆にもし、探査船が今までの眼視による模様を写し出したと感じた人がいればそれは不遜であるというべきで、期待されたのはそういうことではなく、探査船が齎す無機質な成果に頼って、つまりより確かな基盤に立って、これからわれわれが目を有機的に凝らすことができるようになろうということであった。それは望遠鏡の強化に似たものであろうと思ったわけである。それまでの観測者といえどもいちいちスキアパレッリ以前に戻って始めたわけではない。スキアパレッリの結果もアントニアディの成果も脳内で消化し、ローヱル天文台やピク・ドュ・ミディの結果を踏まえた上で観測していたわけである。更には日本の観測者であれば諸先輩の優れた結果を諳んじるぐらいに通暁していたわけであろう。そこに探査船の結果が厚く付け加わったということになる。したがって、こうした新しい情報がわれわれをdiscourageさせるわけがないのであるが、眼視観測に終焉が齎されたかのような言説をなす輩が出たのは意外であった。

 卑近な例を挙げよう。1999年四月26日、27(λ=130°Ls)に筆者達の一人(M.Mk)は朝方のマレ・アキダリウムの西北部、バルティアにコンパクトな明るい朝雲が伴っていることを検出し、このことで五月234日に福井市自然史博物館で開かれた『火星通信』定例懇談会の席上、他の観測者の記録と比較したものである。同じ白雲は意識も記述にもばらつきがあるものの岩崎徹氏、伊舎堂弘氏、比嘉保信氏、森田行雄氏などの観測に捉えられていることが分かったのであるが、5月の中旬になって、HSTの4月27日の画像がプレスリリースされるに及び、これがバルティアの台風であったこと、その台風の眼まで詳細に捉えられており、われわれが見た白雲の正体がより近しいものとして立ち現れたのである。はるかに鮮明ではるかにディテールに富むが、同時にわれわれの観測の地歩を示していたわけである。HSTの画像はその日だけのものであったが、われわれの収集していた現象はその日前後の様子を伝えるものとなっており、台風の消長を時空的に幅広く考察することができた。これだけに留まらなかった。五月の下旬(λ=146°Ls)には福井で二日に亘り再びマレ・アキダリウムの朝霧の奇妙な動きが捉えられた他、六月29(λ=162°Ls)〜七月9(λ=168°Ls) には先のメンバーに阿久津富夫氏を加えた人たちがこれらの現象をよく観察し、特に七月4(λ=165°Ls)には沖縄の伊舎堂氏と比嘉氏がマレ・アキダリウムの北に黄塵混じりの白雲が朝から内部深く回転しているのを連続的に突き止めている、8(λ=167°Ls)には福井でマレ・アキダリウムの北部に食い込んでいる白雲を追うことができた、など、こうした気象現象はそれぞれ規模や成因において違いが見られるものの、HSTの一観測があったお陰で、マレ・アキダリウム低地におけるこの季節の白雲現象の活気と幅が、どの程度のものか、また時空に於いてどれだけの拡がりのあるものであったかなど、自ずと明らかになり、われらの観測のリアルなperspectiveが得られることになったのである。

 更にいえば、HSTMGSなどは時間割り当てや設計デザイン故にワンポイント、ワンフレーズの観測になりがちで、連続観測には向かないわけであるから、われわれの観測と相補的なのである。2001年時の前代未聞の大黄雲発生では、HSTの遅れた像はそれなりに興味があるが、プロフェッショナルはIAUCNoticeを出すことすらできなかったのである。

 もう一点、地上からの観測は一種のリモートセンシングである点で優れたところもあるということは忘れてはならない。火星表面に百葉箱を幾つか置いてもそれは次元の異なる話であって、気象衛星が描き出すものの代役にはならないということと同じである。地球上に於いて、穀物収穫や公害波及の検出に関して地上調査よりリモートセンシングがはるかに大きな役割をなしていることは言を待たない。

 

5. 2003年の火星

 

 以上、季節の観測という観点からは大接近だけでなく、いずれの接近も必要であるということを説いたが、もちろん大接近の賄う季節も重要であり、また大接近は新しい観測者の血を誘うという意味でも重要である。そこで、2003年の火星の状況をさらに概観しながら特徴に触れておこう。

 火星観測でもう一つ問題になるのは火星の高度で、大接近のときには火星は天の赤道より南にあり、北半球のわれわれの眼から高度が低く見える。ただし、最接近時は2001年の低さより10度ほどは改善される。「(黄経)西矩」はすでに四月18(λ=170°Ls)に起こり、δ8.5"になっていたから、条件としては整ってきている。五月初めには「やぎ座」に進み南中高度はかなり回復する。光度もマイナスになり、視直径も10秒角を上回って小口径での観測が可能となった筈である。

 六月、七月と「みずがめ座」を順行し七月末日に「留」となり、以後はフォーマルハウトの北で逆行に移ってループを描きながら地球に近づいてくる。視直径δも急速に増加して、六月中旬に15秒角、七月中旬に20秒角に達する。梅雨の晴れ間の早朝には南中している姿を見ることができる。

 八月、九月が上述のように最接近期であり、最接近の頃には夜半に南中して、水平高度は北緯35°地点では40度に達する。再びδ20秒角を切るのは十月初めで、大きな火星を七十日間ほど楽しめることとなる。

 九月29日には「留」となり逆行から順行へ移り、さしものクロマニヨン人以来の大接近も終盤へと向かう。南中も夜半前となり、日没時からの観測となる。十月末にはδ15秒角を下回り、十二月中旬には10秒角以下となるが、赤緯が高くなり南中高度は上がっていく。十二月末日には「うお座」で「東矩」となり、視直径δは九秒角を切って本年を終わる。順行を続ける火星はさらに赤緯を上げて、年を越しても暫くは日没後の西空に沈み残る。ベテランの観測者達はδが4秒角以下になってしまう2004年五月末日頃までは観測は続けているであろう。

 火星の季節は次のように推移する:五月1λ=177°Ls、六月1λ=195°Ls、七月1λ=213°Ls、八月1λ=232°Ls、九月1λ=252°Ls、十月1λ=271°Ls、十一月1λ=290°Ls ・・・。註1に述べたようにλ180°Lsが北半球の秋分にあたるのであるが、今年の火星は南半球側が傾いて見えるので、南半球の季節をあてることが多い。λ180°Lsは南半球の春分である。5月上旬にその春分が南半球を訪れ、視直径も10秒角を越える。λ=270°Ls(南半球の夏至)になるのが最接近過ぎの九月末日で、今年の火星は視直径の大きな時期には南半球の初夏から盛夏の姿を見せることがわかる。年末にはλ325°Lsに達して、節気は南半球の初秋の「処暑」になっている。南極冠の消長はこの季節に従う。λ180°Ls頃までには南極を覆っている極雲も晴れ上がり、最大径の南極冠が見えるようになる。λ=190°Lsころからは中央部に翳りが見られ、λ=200°Ls頃からは内部に亀裂が確認されるようになる。目安としては六月10日頃から、δ=に14"近い。λ210°Ls頃までは偏心せずに縮小して行くが、λ230°Lsを過ぎる頃から周辺部の融解が不均一になっていき、ミッチェル山(Novus Mons)は融け残り、半島形を呈してくる。八月上旬が目安、δ23"を越えている。λ250°Lsを過ぎるとミッチェル山(75°S320°W)が極冠から分離してくる。衝がλ=250°Lsであるからよい目安である上、δも最高である。その後も融解が進み縮小して行くが、λ240°Ls頃までには南極冠は中心が南極から偏芯して(86°S 030°W)、中央経度によって見え方が違うようになる。λ=240°Lsは八月13日に来る。δ=24.2"

 同じく黄雲も季節的な要素がある。いわゆる南半球の大黄雲は南半球の夏至270°Ls)前後に発生した例が多く知られている。例を挙げれば、1956年の大黄雲はλ=250°Lsで、1971年の場合はλ=260°Ls1973年はλ=300°Lsであった。1977年のヴァイキングの観測ではλ=205°Lsλ=268°Lsでの発生が確認されている。今年の接近はこの時期を含む季節の観測となるから、黄雲発生の監視は重要な課題である。前接近の2001年六月の大黄雲はλ184°Lsでの発生で、季節的に特異な状況での活動であったが、『火星通信』ではこれは23期太陽のX線フレア爆発(2001年4月2日)と連繋したものであると考えている(6)

 黄雲現象は発生初期の観測が重要で、その前駆現象を捉えた発生前の観測は黄雲発生のメカニズムを考察する上でより価値があるものである。しかも朝方を注視しなければならない(この点午後2時しか見ないMGSは設計上難点を抱える)

 1988年接近との違いは、最大視直径だけでなく、季節に於いて今回とは当然ずれている。1988年の最接近は九月22日であったが、このとき季節はλ=276°Lsであった。今回最接近時はλ=249°Lsであるから、かなりの違いである。したがって、たとえば2003年の場合、λ=240°Lsが上に例証したようにδ24.2"であるのに対し、1988年にはδ=16.2"(七月26)であったから、こうして両接近は大接近でも得られる情報量に違いがあるのである。その前の1971年の場合は最接近時λ=233°Lsで、λ=240°Lsは最接近後に起こっている。

 

6. 連続観測と定点観測

 

 Watchというのは微妙は変動を監視するということであって、日没をウォッチするとは言うが、starをウォッチするとは言わない。単純な恒星は原則的には何も変化しないからである。Star-gazingというに過ぎない。しかし、火星はwatchする対象である。前述したように模様も変化することに於いて俎上に上がるし、季節の変化の観測は火星観測の大前提である。

 変化を捉えるには同様な条件の観測を並べて比較することが肝要で、季節(λ)、中央緯度(φ)、中央子午線経度(ω)が重要な要素となる。

 火星の自転周期が1.03日であり、翌日同時刻に観測すると西経に関して10°Wほど中央経度が少ない火星面を見ることができる。また10°火星が自転するには約41分かかることから、下記の例のように連日40分ごと同時刻に観測を続けるとほぼ同じωを並べることができるのである。前日の40分早い時刻の観測と同じωがもう一度翌日観測できることが肝心である。1日一回の観測では現象の把握はできないが、40分ごとに観測を連続して行うことによって日々変化を追うことができるのである。『火星通信』では早くからこの点を指摘し、奨励している。

 

 | 13:00    13:40   14:20   15:00   15:40 (GMT)

-------------------+------------------------------------------------------------------------------------

27 Aug 2003   | 168°W    178°W    188°W    198°W    207°W

28 Aug 2003   | 159°W    169°W    179°W    189°W    198°W

29 Aug 2003   | 150°W    160°W    170°W    180°W    189°W

30 Aug 2003   | 142°W    151°W    161°W    171°W    181°W

 

この例では、ω=168°Wの火星面は2の範囲で40分ずつずらすことによって四日間追えることが分かる。これは同時に定点観測を意味する。通常、定点とは観測する方の位置を一定にするということであるが、ここでは観測する対象を一定にするということで、同じ火星面の中央経度を何度も狙うということである。

 日変化を追うための前日、翌日だけの問題だけではない。同じ面は約40日後戻ってきて、その間、Ls20°も進み季節が変化する。これによって、同じ角度の様子を約20°Lsごとに比較をするということになるわけである。したがって、40日後のωも考慮しなければならない。もちろん、これは個人的な観測が基本となるものであるが、ネットワークを持てば、地球上別の地点との連繋により、5°Ls10°Lsと細かい比較も可能になろう。異なる場所での観測を参照するのは常に大切なことであり、その為にも観測者相互の連絡が大切になっている(『火星通信』はこのことの促進のため1986年に発刊された)。近年の接近時にはemailでの画像や観測情報の交換が盛んになり、この世界各地との交信により目下日本から観測不可能な経度の情報を得ることも素早くできるようになってきている。

 日変化を越えて定点観測の続けて必要なのは、ゆっくりしている火星の季節変化の観測のためでもあるが、火星が黄雲活動などにより暗色模様に永年変化を適当な規模で起こすからでもある。適当というのは、火星の場合は、月の表面のように死んでも居らず、また木星表面のように激しくもないという程度のことである。火星では、数年、数十年前の観測との比較すら重要になる。

今年の場合は特に2001年接近時の大黄雲で暗色模様の変化(僅かながらの可能性ではあるが)が起こっていることが予想されている。その意味で、以前の火星図は参考程度にしか考えられない。次の項で、例としてソリス・ラクスのあたりの観測のチャンスについて詳述するが、同経度の定点観測のチャンスは思ったよりも少なく、たゆまない観測が必要なのが理解していただけることと思う。

 

7. 例えばソリス・ラクス周辺の観測

 

 ソリス・ラクスからダエダリア-クラリタスは、2001年七月からかなり長く黄塵の擾乱を受けていたところである。ここでは紙数の都合上、ソリス・ラクスあたりの観測可能時についてのみ述べるが、2001年大黄雲の影響を調べるというプログラムの観点からは、ソリス・ラクス近傍だけが問題なわけではない。たとえば、アエテリアの暗斑あたり、トリナクリアのあたり、リビュアなど、問題箇所は多い。これらについては同じように計画を立てることができるので、以下は一つの典型として提示するわけである。

 

 (ここでは略)はソリス・ラクスに計画的に出会い、定点観測する為のものである。ソリス・ラクス(Ω=090°W)が火星面中央に見える時刻の指標を図の太い斜線で示してある。太陽・火星の出没は135°E35°Nでの時刻で示す。横軸の日付から縦軸左目盛りで正中の日本時(JST)を読みとる。例を挙げると七月25日過ぎには夜半の0時頃にソリス・ラクスが正中しているのがわかる。視直径δの変化は一点鎖線で表し、縦軸右側の目盛りで読みとる。

 六月中旬から下旬には「火星の出」は夜半23hJST頃で、ソリス・ラクスの正中を観測するには六月20日頃からの朝方がチャンスであることが読みとれる。はじめは火星の出直後で高度は低いが、後には日の出直前の南中時にも観測可能になる。δ15"を越えている。

 七月下旬には夜半前から正中を観測する事ができるのがわかる。δ20秒角を越えて充分に大きい。火星の出も夜半前に早くなり、八月初めには夜半過ぎの南中時に正中を見ることが可能である。この期間にソリス・ラクス周辺で発光現象の起きる条件が整う(7)

 九月上旬にソリス・ラクスの正中を絶好の条件で観測できるのが判る。このころ火星は「みずがめ座」にあって最接近中で視直径も最大になっている。この期間には日没後から夜半過ぎまで火星が見えており、夜半には南中し高度も充分で安定した像で長時間連続で見ることができる。

 十月中旬から正中が観測できることが判る。δ20"を切ってしまうが、まだ小接近の最大視直径を上回っている。日没時には火星は既に観測可能で夜半前までが観測時間となる。

 

ソリス・ラクスは表面観測が開始されて以来最も変化の激しいところの一つとして知られている。初期の1877年にはパシス-ダエダリアの発達もあって全体が円い目玉のような形であった他、1926年の北に張り出した勾玉形などは著しい変形として記録されているし、ここ半世紀でも1954年の逆勾玉形を始め、1970年代の東西にスリムな形、1980年代の堂々としたオムスビ型など近日点接近での様子はそれぞれに微妙に変化してきている。このあたりは斜面であることもあって表面の砂が気象の激しい変化のため移動することによって生じる現象と考えられている。ここ暫く火星大気は安定していたが、漸く2001年には著しい砂塵の擾乱が見られたから、その影響をチェックできるというのは意味がある。ソリス・ラクスは観測対象としては難物の一つではあるが、大接近時には正面を向くから、挑戦する対象として興味深い対象である。上のガイドを参考に集中して観測を企てるのは誰にとっても意味がある。

 

8. 火星観測に関する二三の注意點

 

  以上、2003年接近の火星に関する基本的な事柄を略述したが、最後に観測を纏めたり、整理したりするときの注意点を二三述べて締めくくる。

 いかなる観察や観測でもそうであるが、バランスが大切である。inputoutputのバランスが壊れると観測そのものに意味がなくなる。視直径や解像力に見合った解釋を行わなければならないし、処理像に関しても過度に渉らないようにしなければならない。火星の時空そのものに曖昧さがあるに関わらず、それをピンでつついたような細かさで装うのもバランスの欠くことである。例えばLsは季節の指標であるが、季節の移り変わりは、速くはない。一刻を争うような急速な変動は、もしあったとしても、それは季節変化ではなく、季節パラメータで記述するものではない。従って、例えばλを小数点以下まで記述する必要はない。182.3°Lsなどという季節感は持ちようもないのである。火星の場合、観測の時刻もスケッチなら10分単位で十分である。閃光のようなものは時計が別にいるが、現象の箇所についてはピンでつつくことはできない。したがって、例えば、その時の火星空間についても、中央子午線経度ωを小数点以下まで細かくする必要はない。こうしたことは見識と関係があり、信用問題でもある。

 2001年の場合新テクニックの氾濫で次のようなことが見られた。観測の動機がテクニックだけだから、画像はワンポイント・ワンフレーズである。利用する側からいえば、ないよりマシだから甘やかす向きもあるが、系統的でなく伸びがなくさほどでない。時刻だけがデータというのもあった。これはωがやたら詳しいというのと同断で、何のための撮像かということになる。Lsなどに全く注意しないのがある。これもLsを小数点二桁まで書く愚劣と同断である。連続画像があっても、三十分ごととか、一時間毎である。いまさら自転の証明をするということでもなかろうが。情報がよく渉っているようで、肝心の点で滞っている。黄雲が出たら模様が写らないと言って作業を中止する。ハイ・レゾルーションを競うからといって納得がゆくというものでもない。観測条件の悪さ(2001年はヨーロッパなどでは火星の高度が低かった)やテクニックの梯子で、フラストレーションを起こし、メソッドをやたら換えるのもいる。こうしたことは、火星観測についての総合的な理解がないから起こることで、類は類を呼ぶというか、またグループを作るのである。ワンポイント・ワンフレーズという意味ではHSTなども同じグループである。なお、火星のCCD撮像で注意しなければならないのは、火星は本質的に"赤く"、火星表面は木星などと違って短波長波を出さないわけであるから、赤外線をブロックするだけでなく、500nm以上の光をカットするのが原則であり、白霧活動の情報もこの上で得られるという点である。カラー像でも出来うればB光像が添えられるべきである。

 

9. 終わりに--- 2003年接近と将来への期待

 

 筆者達の経験では1954年や1956年、或いは1971年や1973年には『子供の科学』や天文雑誌で火星に関する特集号が組まれたものである。目を見張るようなスケッチや1939年のローヱル天文台遠征隊の、あるいは1941年のピクのコンポジット写真などが満載され胸躍らせたものである。しかしながら、この2003年の歴史的な接近にも拘わらず、そうした企画はみられないようである。しかし、Internet時代を迎えて、情報はその気になれば数多く散見できるし、関心を呼ばないこともないかもしれない。この機会にやはりお隣の、かつてはケプラーに楕円軌道を教え、ローヱルに別文明のイメージを抱かせた火星に興味を抱く若い世代が育って欲しいものである。火星は太古から常に人類に知的な刺激を与えてきたのであるが、それが一時的な不況な、器械優先で廃れるとは思わない。

 よく科学のエポックメーキングな事件は器械の飛躍的な変換期に起こるというような議論がある(例えばF.J. ダイソン)。しかし、次元の変更(たとえば古典力学から量子力学への次元変更)はやはり人間の頭脳の連続した観察や計算、忍耐によって行われるものである。数学は依然アマチュア精神に彩られているし、コンラート・ローレンツの動物行動学なども、たゆまない日常次元での観察と考察によっている。シャルル・ボアイエの金星大気の紫外線模様の不思議な周期の発見も観測設定に妙があるし、大型器械によったわけではない。ホイヘンスは望遠鏡造りの名人であって、彼の火星や土星に関する「発見」はよく知られているが、彼の特長はそこにはなく、彼の場合分解能を越えたところで考察をよく働かし、見事な描像を提出した点を忘れてはいけない。光の波動説での「ホイヘンスの原理」に出てくる素元波なども彼は実見している譯ではないのである。

 こういう意味で、火星はアマチュアの興味を繋ぎ留めて欲しいし、惑星物理学は、プロも含め、大型器械に埋没することなく、この機会に新しい天文学的関心が芽生え、今後学問そのものが興隆して欲しいものと思う。もちろん、大型器械による新情報には敏感ではなければならないし、捨て去るべき古い概念は捨てなければならない。すでに新情報があったにも拘わらず、H2O極冠説を捨てきれず、折角の尊い自己の観測を生かせなかった観測家は気の毒であったし、すでに破綻した菫色雲層の研究などをテーマにして定年を迎え、定年になればすべて研究もヤメてしまうというような職業家をみると前途多難であろうが、リモート・センシングの王者たる天文学の王道に立ち返って、せめて大型でなければならないという風潮(これは無力感をもたらすだけである)や、似非ジャーナリズム歓迎のワンフレーズ・ワンポイント志向(時間的に連続した追求と無縁)というような観測とは縁を切って、2003年の大接近を機会に新しい境地が開けて欲しいものと思う。

 

火星課『火星通信URLhttp://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmooaa_mars.html 

火星課連絡emailアドレス:cmo@mars.dti.ne.jp 

 

 

(1)

通常大接近は15年か、17年毎に起こると言われる。しかし、同じような接近の再帰はなかなか難しい。79年というのは=152(1715) となっているが、何故これがよい周期かは次のように分かる。いまPを火星との会合周期、Qを地球の公転周期とすると、P2Qは一回の公転での両者のずれである。もしこれの何倍かがQの何回かに一致すれば再帰が正確に起こる。今、m, nを適当な自然数とすると

m×Qn×(P2Q)

が成り立つ場合である。これは

Q/(P2Q)=n/m

と書きなおすと分かるように、右辺は有理数ということになる。そして、これを(2n+m)QnPと書き換えると解るように、2n+mが回帰年数ということになる。しかし、実際にはn/mは有理数ではなく、無理数であろうから、正確な再帰はかなり難しい。The Handbook of the BAA 2003を使うと、Q=365.256P=779.94であるから、Q/(P2Q)7.390・・・・となって、やはり有理数にはなりそうにない。739/100はよい有理数近似であるが、これだと2n+m1578年となって、チト長い。739/100147.8/20であるから148/207.400を近似として採ると、316年となる。しかし、148/2037/5であるから、237579年となって、79年周期がよい近似であることが解るのである。因みに15年というのはn/m7/17.00017年回帰というのはn/m=8/1=8.000で近似したもので、両極端である。ほかに、133/187.388284年再帰を与え、よい近似である。96/13=7.384は少し落ちるが、205年回帰としてよく知られている。ただし、よい近似というのは視直径に関わるよりも、季節や見え方に関わると見た方がいい。『天界』1984年七月号、『火星通信』#106参照。

 

(2) 

視直径をδとする。その他、中央子午線はω=000°Wのように表す。中央緯度は南緯2度の場合φ2°Sとする。季節は火星から見た太陽の黄経でLsで表し、λ=180°Lsのように示す。λ=000°Lsが北半球の春分、090°Lsが夏至、180°Lsが秋分、270°Lsが冬至である。他に『火星通信』では位相角をιとすることがある。

 

(3)

Jean MEEUS: Astronomical Table of the Sun, Moon and Planets, 2nd Ed (Willmann-Bell, Inc. 1995)

 

(4)

『天文年鑑』2003年版121(南・西田項)21世紀中に最大δ25"を越えるのは二度きりというのは間違いで、2050(最大δ25.02")が落ちている。2004年版で訂正するつもりである。

 

(5)

ALPOの火星課・計算課のジェフ・ビーシュ氏は2002年3月に来日し、CMOメンバーと横浜で会合し、この計算に関する講演を初発表としてわれわれの為に行ってくれた。その報告は『火星通信259(2002年4月25日号)に掲載された。また次のURLに収録されている:

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn1/259JBAISH.htm 

 

(6)

 『火星通信』#270 (2003年3月25日号)M.Mnによって予稿が発表されている。アイデアは常間地ひとみ氏による。このX線フレアはAR#9393に附随するもので、2001年4月2日21:51GMTに発生し、SoHO観測史上最大のものとされている。既に4月八日にはヘッラスやノアキスの黄塵が立ってエアボーンダストは大気中に多くなった。光子に伴う荷電粒子は火星大気の下層に電離層をつくり、黄塵混じりの大気には電位差が形成されて、アルマッタンのような激しい黄塵の上下活動が醸されていったと考えられる。この予稿はCMO-Webでは次に収録されている。

 

http://homepage3.nifty.com/~cmohk/270Note17/index.html

 

(7)

ソリス・ラクスの閃光が2003年七月終わりから八月初めにかけて日本から観測が可能なことは、『天界』2003年一月号に述べた。