OAA火星課OBの最新『夜毎餘言-その I

南  政 次

CMO/ISMO #408 (25 March 2013)


I-1. 私の現在の病状について: 昨年(2012)私が奇病に陥ったとき、四月10日かに村上昌己さんからその旨の回状を海外・国内に向けて出して貰った。後で常間地ひとみさんから、回状の内容には非常に驚いたが(お見舞い状を受けたかもしれない)その後の状況がさっぱり分からず心配したというご連絡を受けた。私がだいぶ回復してから彼女とは電話でやりとりすることがあったので、その後の状況は把握されていたと思うが、他のメンバーには失礼してしまったかたも多いと思う。この書き物の後半で、これは私の備忘録とするべく、2012年の状況について書き足したいと思っているが、まず現在の状況を述べておこうと思う。

 

 いまは補助具をつけて貰ったおかげで、風呂にも入れるし(デーサービスでは付き添い付きで入って居た)、杖を頼りに3000歩ぐらいは歩けるようになった。もちろん走れないし、昨年の暮れから、ちょっと目眩いが強くなって、うっかり振り返ろうものなら倒れそうになるのだが、未だ危険な倒れ方はしていない。車の運転には自信がないので、外出はいつも家内の運転である。私はパーキンソン病と診断されているが、通常見られるらしい振戦(手の震えなど)は最初から然程みられず、ただ、字を書こうとすると小さな震えがあって人にお見せするような字は書けなくなっているし、自分でも読めないことがある。左手の親指に痺れがあって、これはなかなか取れない。今年の年賀状はすべて失礼した。Emailアドレスを書いてきてくれた人にだけ事情を書いて謝ったというわけである。

会話は出来るのだが、然し、言葉が思い出せなくて、言葉が出ないときがあるので、多くの人前ではたぶん喋れないと思う。記憶力は確かに減退していて、ちょっと時間をおくと、なかなか思い出せない。そういうときは黙ってしまうか、別の話に持ってゆくだろうから、外から見れば矢張り異常でしょうね。昔のことも実は忘れていることが多いと思う。火星のことについても、へー、こんな事を書いていたんだというようなことはしょっちゅうである。理解力も相当落ちていて、テレビドラマでもよく分からないことが多く、家内が解説する。剛力彩芽のビブリオ古書堂も面白く見ていたし、あの画面の色調やバックの音楽の奇妙さも私好みだったが、最終回などほとんど内容がわからなかったほどである。いま二十歳というから、私は彼女のアラフォーなど見ることはないわけで、それは殘念である。今の内に、彼女のヒップホップをテレビでもよいからちゃんと見たいものである。

 

調子の悪いときは、音楽療法とはいかないが、横になって、年末以降はバッハのフランス組曲から、第五番のサラバンドを好く聴いた。グレン・グールドである。演奏会では二月に福井のハーモニーホールで鈴木雅明とバッハ・コレギウムのカンタータや組曲を聴いた。これは好かった。三月にはロンドン交響楽団(LSO)を聴いているが、ちょっとティンパニーなどが大きく走るような大音響の曲はすこし身体に応える。ホールの所爲かもしれない。

 

文章はパソコンを使えば何とかなるし、今のところCMO/ISMOの編集も全部私がやっている。これは難病最盛期の時もやっていた筈である。ただし、PDF化など面倒な事は皆、村上さんまかせで、通常の和文のWebも村上さんが担当している。ただ、英語の文章もあれでいいのか、よく分からない。シーハンさんやペリエ君の書いていることも、私は近内令一さんほどには理解していないと思う。近内さんとは私はいつも正反対の位置にいるが、気を遣ってくれていて、ご本人はヘビメタ愛好者だが、私はもっと静かなバッハ派だから、YouTubeの紹介なども柔らかくして送ってくれるなど、心優しい人である。ペリエ君は若いから、臍を曲げないことを祈っている。

 

私はもともと病身と言っても好く、大学院のときには腎炎で半年も入院しているし、退官してからも腰痛で椎間板へルニアのブロック手術を受けたし、循環器系では冠動脈のカテーテル手術や不整脈を絶つ爲のアブレイションをやっている。こちらの方も安定しないうちに、PSA値が高いことから、前立腺肥大が発覚し、お医者は癌への移行を憂慮している状態で、一寸明日のことも分からないというのが現状況である。

 

I-2. 私のパーキンソン病について:さて、私のいまのメインの病気の状況を備忘録として書いておきたいのであるが、先にかなり辿ってみたところ可成り忘れていることが多く、メモは作っておいたのだけど、いま読み返すと甚だ簡素というか状況の記憶は更に遠のいた感じである。

昨年(2012)三月27日が境目であるのは觀測帳に出ているし、シーハン氏がそのように書いているのは、私が英語でどこかに書いているからであろう。ただ、私はこの日も中島孝氏と一緒に観測していたと思っていたのだが、中島氏は18日の三國での西田昭徳氏と三人でのCMO三月号(394)の丁合の後、海外便を携えて福井南郵便局へ向かった際、その帰りかに車のドアを電柱か何かにぶつけて壊し、中島氏自身もおかしくなったというようなことで、その後、車の運転は止した由で、足羽山の天文台には行っていないということのようである。するとその後の觀測帳の19日、21日、そして27日は私独りで観測していたことになるが、その覚えもないのである。実はこのころ足羽山には積雪があり、車は頂上近くの道路脇に置いておいて博物館に徒歩でたどり着く様になっていたが、一度私は中島氏とそこで偶然出合い、最後の坂道を二人で昇るのだが、私は何度も何度も滑って転び、上へゆけず、中島氏が杖をつきながら一足先に上に立ったのは記憶しているが(その後私も到着したのか、どうか、は覚えない。迂回した記憶もあるのだが、これも中島氏と一緒の記憶なのでもっと後の日かもしれない)、とにかく何度も雪には難儀していたのだが、これらは皆18日以前のことだったのかもしれない。中島氏はそれまでに家の近くで自転車もろとも側溝に落ちて難儀したという話も聞いていたし、彼も調子は良くなかったことは確かである。杖は可成り以前から使用していた。後で電話で訊いたところでは車をぶつけてから早速医者へ行って、糖尿病だと宣言され、以後歩行運動に努めているということであった。

 私が医者を訪れたのは翌28日で、前夜から(ということは足羽山から帰ってすぐであろうか)頭痛がするので、三國病院の脳外科を訪ねているのだが、担当医は帰った後で、院長がCT検査を命じたらしい。メモによると30日にも三國病院へ行き、CTは二年前にもやっているらしく、同じく異常なしということだったようである。

四月3日も頭痛とある。家内の話では、私はずっと頭痛を訴えていたらしい。6日にはやっと三國病院の脳外科の先生に見て貰ったようだ。ただこの時、トイレで倒れたらしいが、その状況は全く覚えていない。起き上がれず立つことも出来なかったとメモっている。7日には家内は私を福井大学病院の救急部へ運んだが、ここでもCTをやっているらしい。当時顔の表情も乏しく、ヨチヨチ歩きでバランスが取れず、やはりトイレで倒れたとある。このとき神経内科で受診でき、パーキンソン病の疑いが出たらしい。ただ、私は大学病院のことは母親の眼科通い以来、自分の循環器内科での入院などで内部を可成り知っているつもりであるが、神経内科はいまもってどこか見当もつかない。8日にやはりこの大学病院の診察で、先に頂いたネオドバストンという錠剤を飲んだら歩けるようになったと告げたら、じゃー、パーキンソンに間違いないといわれたのは覚えている。9日も神経内科を訪れている(大学病院は三國からは遠く、家内は毎日のことだからたいへんであったと思う)。ネオドバストンはしかしその後、然程めざましい効果をもたらしたわけではない。10日には暫くCMOの原稿も書けないので、全員に挨拶文を送るように村上さんにお願いした。但し、10日には396号のPDF用の編集原稿を作っているはずである。いま見るとミスが多い。11日もトイレに行って、足が動かなくなったらしいが、どんな状況かよくわからない。12日には役場を通じてメディペックの車椅子が来て、以後家の中はこれで動いていた。今になってみるとこれは被害甚大で、屋内用の細身の車で私の重量をやっと支えるぐらいのものだから、いまでは廊下の板張りがガタガタになっている。もうボロ屋である。13日には村上氏と電話しているが、たぶん聞き取りにくかったと思う。実はこのころ私はemailのパスワードを忘れてしまい、14日にNiftyに自分のパスワードを教えて、と連絡したようだ。

 この頃は私の容態はひどかったようで、ただ不思議なことだが、ひとつやや鮮明に覚えていることがあって、この頃(たぶん15日頃) 私はベッドから落ち、起き上がれず、首から提げている携帯で家内を呼んでも、よほど疲れているのか通じず、やむなく119番に携帯でSOSを送ったのである。火事ですか救急ですかという問いに、救急です、と応え、サイレンは必要ですかという問いには、必要ありませんと応えたのも覚えている。ただそのとき不思議だが下に寝転んだまま緑ヶ丘の番地までキチンと言えたのである。家内は北側の部屋に寝ているから窓を激しく叩いて起こしてください、とまで言って無事家内は目を覚まし、玄関の鍵を開け、救急隊員は私をベッドまで挙げてくれた。これは感謝である。16日には役所からの訪問調査があったらしいが、私はどんな人だったか、何があったか何も覚えていない。返答ぐらいは出来たと思うが、結局要介護度4の認定が下ったようだ。17日にはNiftyから郵便で返事があった。17日か18日には、ケアーマネージャーの訪問があり、メディペックからは廊下に手すりを付ける爲の測定があったらしい。20日にはデイサービスの「きらめき」さんをお試し訪問しているようで、外に出たのは初めてではないかと思う。

私はこの間ひたすら横になったり眠ったりしていたと思う。パソコンは未だ不自由していたと思う。横になっている期間、枕元ではラジカセの大きなもの(もう壊れてCDは聴けない)でせいぜい音楽を聴くぐらいであったが、これは回復に好い影響を与えたのではないかと思っている。CDを外したり填めたりするのが面倒なこともあるが、ほとんど三舩優子の二枚のリストの内、巡礼の年第二年『イタリア』からのものをリピートして幾日も聴いていたと思う。

23日には西田氏のボルボに家内ともども乗せて貰い、福井市自然史博物館に向かい、副館長の坂さんと少し話し、夕方天文台に昇った。階段は苦労すると思ったが、不思議とすいすい昇れた。長年の癖か。ただ、思い出すと何か別の天文台を訪問していた様な幻影が出てくるのである。火星は西田氏に望遠鏡に入れて貰い、二枚のスケッチもとった。だから観測は23Aprが最後である。24日にはまた寝たきりになった。それでも25日にはCMO#397の紙面を完成させ、村上氏に送っているはずである。しかし、月末には少し痴呆の自覚が出てきた。例えば、先に言えたウチのアドレスも上手く出てこなくなったりした。最近の西田氏によると、いまの状態に比べると23日の私の喋りはトロク、いまは当時に比べるとだいぶ回復してきていると思う、ということである。

五月に入って、7日に廊下の手すりが出来た。10日にはパソコン困難とある。私はemailですらご挨拶できない場合が多く、多くのかたに失礼していると思う。

パーキンソンはその後あまり云々されなかったが、五月の28日に大滝東クリニックの宮地裕文先生にお任せすることになった。もともと中島孝氏の紹介である。このかたはもと福井県立病院にいられたかたで、六月18日には県立病院に私は送られ、長時間にわたって最新のアトミックな大きな器械に入りデータを取ったようである。ただ、原発の見返りに入ったような器械だと思うので、あまりいい気はしない。影像の説明を聞いても私はいまもよく分からないが、これまでの診断が覆ることはなかったようである。薬も一緒である。

  七月14日には城ノ橋教会で元N響のホルン奏者が演奏するというので行っている。

十月27日の「後の月」のときは博物館天文台の一般公開を見に行き、少し口上もやってみた。ゆっくり喋るので、うまくいった方ではないかと思う。

ちょっとメモ帳を捲ってみて驚くのは、十二1日に私は独りで京都に出かけ、京都では知人の車に助けられたが、山下洋輔と三舩優子のラプソディー絡みのデュオのピアノ演奏会を京都コンサートホールへ聴きに行っていることである。この頃にはだいぶ回復していたと思われる。一泊して翌日また独りで電車に乗ったが無事「芦原温泉」駅までたどり着いた。

十二月には歯をいじったことで、一寸食欲に変化をきたし、年末には少し「目眩い」が出るようになって、もうあまり外出は出来ないな、と思うことが多くなった。村山定男さんにもお見舞いしたいと思いながら、東京は遠くなった。

(27 March 2013)


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