ローヱルの櫻

 

・・・・・・・ To see the sakura in flower for the first time is to experience a new sensation.

Percival LOWELL, The Soul of the Far East


  

 

ローヱルの『極東の魂』(川西瑛子譯、1977年、公論社)には、日本滞在中に醸したローヱルの眼力の行き届いた箇所が幾つもあるが、日本人の櫻への關心を指摘した次の下りもピカ一である(以下、譯は川西譯に依る)

 

 

その開花の季節には花を賛美するために、たくさんの人が集まってくる。人々は連れ立って花見に出掛け、まるで一日のその時刻に人間の潮流の流れが変わるように,群集が花の下を絶えずぞろぞろ行ったり来たりしている。東洋を訪れた異邦人は、このように人々が集まっているのを見て、何か人を惹きつけるような催し物でもあるのかと思う。しかし、そのようなものは全くない。人を惹きつけているのは桜の花だけなのだ。(・・・there at their flowering season are  to be found throngs of admirers. For in crowds people go out to see the sight, multitudes streaming incessantly to and fro beneath their blossoms as the time of day determines the turn of the human tide. To the Occidental stranger such a gathering suggests some social loadstone; but none exists.  In the cherry-trees alone lies the attraction.)

 

 

通常、行列は何かを得る爲であり、目的のない行列など氣味悪いだけだが、日本人はゾロ歩きを別に意に介さない分けである。ただ、見頃の櫻がここでは大事である。その點で日本人は特別な一週間を選ぶ。

 

日本人は場所を賞でるだけでなく、また時を()でる。ある場所は日の出の時に見る。またある場所は月夜に見る。あるところは春に訪れ、また別のところを秋に訪れる。(he appreciates not only places, but times. One spot is to be seen at sunrise, another by moonlight; one to be visited in the spring-time, another in the fall.)

 

名月と言えば、小林秀雄の書いているなかに、自然に馴染んでいる筈のスイス人が、どんちゃん騒ぎをしていた日本人の月見の集団がまぁーるい月の東の山の端から出始めた途端、静まり返ったのを見て奇異に思ったらしいというのがある。これも時を選んでいる。澄んだ秋の空に山の端から顔を出した盆のようなまんまるい月は美事である。

 

櫻に戻ると、咲き揃った滿開の櫻もまた格別である。ローヱルはこの日本の櫻の咲き具合を次のように認す:

 

花がこぼれるようにたくさん咲いているので、まるで木はバラ色の光のかたまりのように見える。この輝きを損なう葉は全くない。バラ色がかった雪のような色をした花弁は枝を完全に被ってしまっているので、桜の木の花嫁が春との結婚のためにヴェールをまとっているかのように思われる。(Such is the profusion of flowers that the tree seems to have turned into a living mass of rosy light. No leaves break the brilliance. The snowy-pink petals drape the branches entirely, yet so delicately, one deems it all a veil donned for the tree's nuptials with the spring. For nothing could more completely personify the spirit of the spring-time. You can almost fancy it some dryad decked for her bridal, in maidenly day-dreaming too lovely to last.)

 

名月は時を選ぶが、ある意味どこでも見ることが出來る。しかし、櫻は、時が來ればどこの山にも見えるが、ゾロ歩き出來る櫻は別である。それらは選んで植栽される。次の箇所は、ローヱルがどのような櫻の植え込みにヒントを得たかを示す:

 

彼らは「自然」が装った姿そのままでは満足せず、その美しい姿を何倍にも増やす。桜の木の成長に適した場所は、人出を使って、たくさんの木が植えられている。時にはそれは「オージ」(王子)に見られるように、丘を飾る宝冠か星座のように一箇所に固まって植えられている。また別のところでは「ムコージマ」(向島)の様に何マイルも並木となって続いている。その並木は、一方は美しい川、他方は青緑色の水田に挟まれて、まるで花々の輝く銀河のようだ。(Indeed, not content with what revelation Nature makes of herself of her own accord, man has multiplied her manifestations. Spots suitable to their growth have been peopled by him with trees. Sometimes they stand in groups like star-clusters, as in Oji, crowning a hill; sometimes, as at Mukojima, they line an avenue for miles, dividing the blue river on the one hand from the blue-green rice-fields on the other,--a floral milky way of light.)

 

江戸の櫻が行楽の對象として何ヶ處か植えられたのは吉宗の頃らしい。向島の櫻は木母寺あたりに家綱の頃植えられたのが最初のようだが、墨田河畔の櫻は享保十年(1725)からというのが普通のようである。從って二百八十年ぐらいの歴史を保つ。實際は永年にわたり、植え替えや補植が行われ、家斎の寛政二年(1790)にも増やされた。江戸時代の繪地圖には寺島村から木母寺邊りまで櫻並木の描かれたものがある。開國後も篤志家によって墨堤には明治七年(1874)、明治十三年(1880)、明治十六年(1883)などに千本單位で植裁が行われている。ローヱルの見た墨堤の櫻はこれに近いかと思う。ただ、植えられたものが直ちに觀賞に堪えたかどうかは疑問だが、場所によっては古來のものが未だ見應えがあったと思う。

 

向島の櫻についてはエリザ・シドモア(Eliza R SCIDMORE)が感嘆し、惚れ込んだという話がある。シドモアは1856年生まれ、1884年に初来日しているから、パーシヴァル・ローヱルと同年輩、來日も同時期である。シドモアはポトマック河畔に櫻を植えようと考えた人物だが、そのアイデアは隅田川沿いの向島の古い櫻(the old cherry trees in their glory)を見てのことであったというから、逆に言えばローヱルの時代、向島墨堤の古櫻はまだまだ美事であったと思ってよい。但し、シドモアは1890年の『シドモア日本紀行—人力車ツアー(外崎克久譯、講談社学術文庫)では櫻としては上野の櫻を豪華絢爛として述べ、日曜日の上中流階層のものとして褒め、向島は下層階級の櫻として寧ろ天下御免のどんちゃん騒ぎを記している。1886年の濱離宮の觀櫻會に招かれているようである。シドモアは好みとしては櫻と共に、「朝顔」に興味を保っていたようで(The Wonderful Morning-Glories of Japan, 1897)、朝顔について詳しく、朝顔を日本の花の中の花としている。櫻については、どんな冷酷な人間も春の櫻の到來には無関心ではいられない、新聞も毎日櫻情報を至急電にする、と言っているが、ローヱルとは全體の記述も視點も違い、人文地理學者らしい關心と詳しさがある。實際、シドモアはグリフィスやモースの書物には好意を示しているが、直前に出版されたローヱルの『極東の魂』については「日本の魅力を表現し説明している記述はなく、長く暇な日々を楽しむには全くふさわしくない」と言っている。

 

シドモアとポトマックの櫻との關係は次のNational Park Serviceのサイトに詳しい。アイデアは早くにアメリカに傳えているが、實現したのは二十四年も經ってからで、1909年ぐらいから尾崎行雄や高峰譲吉などにより本格化したようだが、害虫のため燃やされたりして、伊丹の櫻がポトマックに定着したのは1912年であった。

 

http://www.nps.gov/nacc/cherry/history.htm

 

シドモアはローヱルより長生きして、後年日本排斥のアメリカ(排日移民法1924)を嫌いスイスに亡命したようだが、1928年に没している。翌年日本人が望んで横濱に葬られた。長年の友人新渡戸稲造などが弔辞を讀んだ。最近、ポトマックの櫻が横濱の外人墓地に植樹されたようである。

 

扨て、環境としても江戸時代からの隅田川兩岸の變貌は相當なものであろう。1986年にレヴィ=ストロースは和船で隅田川を溯行したらしいが、北斎の版畫によって思い描いていた兩岸とひどく隔たっていて衝撃を受けたとのことである。變貌はセーヌ河岸にもあるが、これ程ひどくはないという感想である。但し、言われるほど東京は醜悪ではなく不規則だが自由な雰囲氣があると言っている。

向島の櫻の明治から現代までの盛衰については、幸田文の文章がいくらか經緯を示す。露伴は一時、東向島に居を結ぶが、文はここで生まれ(當時は東京府南葛飾郡寺島村大字寺島)廿歳まで過ごす。生まれたのはいまから丁度百年前、1904年であるから、つぎの様子は1910年代の頃の話であろう。むかし、隅田川べりの桜は、東京では名所のうちにかぞえられていた。私はその花の土手をだらだらと下りたところで生れ、はたちまでずっとそこにいた。花の美しさをおぼえたのは、小学生になってからだが、その頃は、たしかに綺麗だった。太い木が立ち並んで、のうのうと枝をひろげ、花は満ち満ち咲きそろっていた。しかし土地の大人たちは、以前はこんなもんじゃなかった、と歎いていた。もう樹勢が衰えて、花の色も冴えず。しかも年々に枯木もでて、こんな歯抜け並木じゃみっともなくて、名所だなんて自慢はいえなくなった、という。子供の目には充分に満足のいく花であっても、すでに最盛期を過ぎていることが、大人たちにははっきりしていたのだろう。それでもなんでも毎年、子供は花の下でこどもなりに見惚れて、上機嫌であった。(』から。この随筆は1971年から1984年まで續くが、この稿は1978年發表。餘談だが、同じ1904年向島生まれに堀辰雄がいる。)

 

いまでは東向島の邊りもたいへんな街中で、ローヱルの書いているような青緑色の水田というような姿は見られるはずもない。しかし、幸田文の子供の頃でもまだ寺島村大字寺島であったわけであるから住む所に多少の草木があったのは、郊外の農村だったからである。もちろん畑たんぼの作物があり、用水堀ぞいに雑木の薮もあり、植木屋の植溜もいくつかあったし、・・・・という状況であった(1971年の文章)

 

さて、その後の墨堤の櫻はどうであったろうか。1981年の櫻の季節には幸田文は墨堤を訪れている。東向島を離れて五十七年になる。この日お孫さんに花見を誘われて、千鳥が淵から市ヶ谷四谷とまわって運転手さんがしきりにすすめるので墨田河畔へ行った。そこは私が生まれてはたちまでいた故郷であり、墨堤の花は忘れようもなく目にしみているが、それは震災戦災を経て絶滅し、戦後の世の中の速い移り替わりに従って、花も堤防も川も今はすっかり変っている。何年か前にそっとひとりで来てみた時には、成育のよくない若木に、数えるほどもない花がついていて、その哀しさに以後もう昔の花を思うことはやめにしてきた。もちろん運転手さんは行きずりの客の心中を知ってすすめているのではないし、こちらはまた、今このすすめを断れば、今後わざわざここの花を訪ねることはあるまいと思って従った。

花は私の想像していたものよりはましだったが、折柄ひる近くの明るい太陽をはじいて、あっけらかんと咲いていた。はじめてこういう表情の花に逢って、印象ふかかった。

 

これを讀むと、「昔は好かった」流の追憶を差し引いても、墨堤の櫻も明治以降あっけらんとなるまで落ち目であるということになるが、もともと櫻は長命ではない。從って、どの様に植え替えをやるかによって印象は遷ってゆくだろう。それに環境は遷る。

實は福井にもわれらが天文臺の下の足羽川畔に2.2kmに及ぶ見事な櫻並木があり、いまは評判だが、これも既に最盛期が過ぎていると言われている。戰後の植裁で、ソメイヨシノは六十年ぐらいの壽命だそうであるから、そろそろ終わりである。だから、墨堤の櫻がまだ「運転手」さんの推奨に預かるぐらい衆を集めるならば、矢張り植え替えなど手當てが適當に行われているのであろう。

 

というわけで、2004年火星/ローヱル會議」の前に現代の墨堤の櫻を見に行こうということになった。筆者は東京にはここ數十年縁がない上、もともと櫻の時期に出喰わしたことはない。ただ、どこであろうと櫻の滿開時に出會うのは簡單ではない。三月の下旬か四月上旬としても、福井と關東では開花時期が先ず相當ずれるであろう。それに年によっても違う。

先の2002年の横濱でのビーシュ氏會合の折りは、三月24日だったと思うが、そのとき横濱スタジアムや福井實さんの十日市場の櫻は既に滿開であった。

また、櫻というのは咲いていても櫻三日で、これぞという日はピンポイントである。京都の平安神宮の櫻は心躍るもので、現役時代何度か訪れたが、タイムリーというのは數少ない。蒔岡姉妹のように平安神宮の内宮の門を潜って「今年も間に合った」と溜飲を降ろせるのは幸運な場合である。

そこで、今回も東京行きを三月終わりから可能なようにしておき、インターネットなどで墨田河畔の開花状況を調べながら日を決めていった。結局、判断の上、(2004)四月3()とした。土曜を選んだのは、人出が寂しくてはローヱルのゾロ歩きに出會えない可能性があるからである。當日午後、村上昌己氏と東京駅で落ち合った。村上氏の御母堂(未だお元氣であった。六月に急逝された。合掌)は向島だそうで、案内して貰うには恰好であった。實際には出掛けるとき北陸線の車窓から見える福井市の足羽川の櫻は滿開であったし、新幹線の中で東京に近づくに連れて、車窓から見える櫻はもう時期を済ませているという感じで、遅かったかなぁと心配でもあった。

 

當日、村上氏の案内で淺草へ出て、吾妻橋西詰から先ず右岸を上流に歩いたのであるが、安心したことには櫻も人出も充分であった。露店なども出ているし、筆者が言うのはヘンだが、田舎もんというのも歩いている。まだ墨田河畔の櫻も捨てたものではないという感じであった。大型人力車がお内儀風の和服のご婦人聯れを運んでいたりする。淺草側右岸の櫻並木は元氣がよいように思った。櫻花の下で車座になっているグループも多い。西洋人も端座している。堤防には端に腰掛けている連中がずうっと聯なっている。問題は對岸の向島側の櫻並木で、こちらからも見えるが、實に無粋なことにその頭を撫でるように上を首都高速(六號線)走っているのである。並木は當然映えない。多分蔭になっている所もあるのではないかと思われた。この事は事前に誰もが指摘していたので、覺悟はしていたが、櫻並木を全く度外視して高速道路が作られているのは明々白々で異様であった。隅田川は川幅も水量も充分である。水邊には水生植物が保護されている部分もあるが、わざとらしい。幸田文さんは棹を刺す木造の舟が浮かんでいないと嘆くが、その替わり大型の観光船が上下して、順番待ちの行列も出來ている。途中に言問橋が邪魔している所爲か並木は長くは感じないが、その向こうはまた別の風情で、右岸堤の櫻は統一されている感じではなかった。矢張り種類や植え込みの時期などにバラツキがあるのであろう。筆者達は言問橋のもう一つ上の櫻橋で向こう岸に渡った。どうも矢張り、間近に上を走る首都高速がなんとなく重たい空氣で、その先の街の風情には親しみが湧かない。東向島はもっと上流で白髭橋邊りまで行かなければならないが、堤防は行ってみようという氣を起こさせるものではなかった。左岸の方も人出が盛んで、水際にも澤山人が下りている。櫻の並木も少し勢いが無いように感じられた。しかし、好く見ると枝振りがなかなかなものが揃ったところがあり、少し古風でもあった。この流れに入ってしまうと左上の高速道路も氣にならない感じであった。三囲神社の邊りであったろうか、町内會のご婦人達が賄っているような露店があり、村上氏とふたりで茣蓙に坐り「やきそば」を食べた。豫約席もあったように思う。

夜櫻も見ようということで、古そうな松屋の食堂で夕食を済ませてから、また右岸を少し歩いた。相變わらず賑やかなものであった。今日は土曜だからというものでもないようであった。

 

 

翌日は、王子の櫻を見に行った。この日は急に寒くなって、行楽日和という感じではなかった。午前中であった所爲か、日曜というのに人は疎らであった。それでもこれから廣場で催しがあるらしく、若者が準備に走っていた。廣場は1960年代に大改造が行われた際に整備されたものであろう。 上の方では櫻の下で吟行が行われていたが、近くには政治的な集まりもありそうな横断幕もあった。難解な漢文で書かれた大きな「飛鳥山碑」というのが設置されているが、これは北斎にも描かれているから(部分を引用、右上に注意)ローヱル時代にもあったわけで、彼も見て居る筈である(調べるとこれは1737年建立で、ここも吉宗以來だから、十年ぐらいして建てられたことになる)。飛鳥山の櫻はローヱルの言うように固めて植えてあったのかも知れないが、空いたところに櫻を植えていった風で、いまは纏まりがあるわけではない。少し散っているのか勢いもなかった。曇っている所爲か、花の色合いも白々しい。

しかし、お便當をひろげられそうなところは至る所にあるから、よい花見どころではあろう。先述したように飛鳥山と墨堤は吉宗以來江戸時代にも無礼講が許されたとされている。

 

飛鳥山から優雅な都電の路面電車が通る道を挾んで、音無親水公園を越えて王子神社がある。その方へ出たが、特別な櫻のクラスターには出會わなかった。道路には交通規制があり、歩道橋があり、この邊りは歩くのには全く不都合なところである。

 

(附記) なかで述べたように四月3日福井を發つとき足羽川堤の櫻並木は滿開に見えたが、墨堤の櫻と滿開時に然程の違いはないのかも知れない。或いは墨堤が遅いかである。昔の事ながらエリザ・シドモアは上野の櫻より向島は一週間遅いと感じているようである。上野は覗かなかったが、東海道沿いは明らかに散り急いでいた。或いは福井の櫻は少し早いのかもしれない。・・・・白州正子が1970年頃、湖北(琵琶湖北岸)の「海津の櫻」を見た後、若狭へ抜けるが「峠を越すと、間もなく敦賀で、暗くよどんだ日本海が目の前にひらける。国道二十七号線は、町へ入らず、ここで分かれて西へ向かって行くが、越前へ入ると、よけい桜が多いことに気がつく。とくに粟野の連隊跡の並木はみごとなもので、雲かと見紛うばかりにむらがり咲いている。去年は武生や福井へ旅行をして、この辺に桜が多いことは知っていたが、もしかすると、近江以上に気候や地味が適しているのかも知れない。日本海には暖流が流れているので、思いもかけぬ所に南洋の植物があったりして、私たちが遠くで考えるほど陰気な地方ではない」と書いている(『かくれ里』1971)

筆者は長く、春は「昔ながらの山さくら」の長等山園城寺=三井寺の櫻の見えるところに棲んだが、福井と時期を比べることはなかった。しかし、南の海津の櫻が北の足羽山・足羽河畔の櫻より遅いと感じたことがある。尚、南洋の植物というのは、筆者の知る限り三國沖の雄島であろう。『花筺』の繼體天皇や振姫關係で白州正子はこの邊りを訪れている。

 

 

(附記bis) 向島の櫻にはシーハンさんにも呼び掛けていたのであるが、開花期日が前以て決まらないこともあって見送った。來日されたのが四月22で、平地ではもう花見は出來なかったが、佐治村あたりの山中を走っているときに、山の肌に櫻色がぽっぽと見えるときがあり、ときどき止まって、シーハンさんは写真を撮っていた。しかし、何と言っても、後日、飛騨を越えて、木曾御嶽の遠望を得るために走っているとき三岳村で出會った櫻は匂うがばかりに華やぎ空にとけ込んでいて、しばし休憩した。

 

(2004年八月記)

 


南政次 (Masatsugu MINAMI) CMO/OAA


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