CMO ずれずれ艸 (南天・文臺)

 その弐拾陸

臺灣には銭湯があるか?


答えは nonらしいのである。このことではひどく苦労したので、帰国してから陳舜臣氏の本の何処かで中国人は男であっても裸を見られることを潔しとしないと書いてあるのを読んで、ハタと膝を打った。裸になるといえば銭湯である。だから、そんなものが在る筈はない。最初1986年に臺北に降り立ったのは 二月25日であった。臺灣の新学期は三月から始まるので、それに合わせた訳だが、流石臺北と雖も、三月ではまだ寒い方である。前にも書いた様に、蔡臺長は天象舘の地下に私の部屋を用意して下さったので、そこに落ち着いたのだが、電気で沸かすシャワーしかなく、これでは風邪を引きそうであった。私は風呂が嫌いなほうだから、入れないことは苦にはならないのだが、フケ症ではあるし、汗を掻かないというわけではないので、甚だ困ることになった。そこで、到着して幾許もなく王永川さんのお家にお邪魔してお風呂をご馳走になった(風呂の部屋が二つもある)のだが、王さんの家は士林といっても、遙か奥地で天文臺には近くはない、それに毎日お邪魔する訳にも行かない。だから、当然銭湯は何処だということになるのだが、王さんの返事が曖昧である。王さんは東呉大學日文科の出身だから、「風呂屋」の意味は分かると思うのだが、今思い出してみると王さんは実際の銭湯を知らない訳だから、概念として解らなかったのかもしれない。兎に角、直ぐに見つかるものではないということは判った。そこで、手っ取り早く風呂を浴びるには飯店(ホテル)か旅社(旅館)に上り込んで、ということになったが、ホテルに毎日通えるほどこちらに余裕はない。大中小の小の旅社を士林で当たって貰い、一番安い処を一箇所見付けた。事情はともあれ、変な客に属したろうと思う。風呂を使って着替えして出てくるだけだが、 200元か 300元した。王さんはここより安い処はもうないヨと言っていた。然し、 200元は日本円で1000円程である。風呂屋としてはチト高い。それに距離がちょいとあり、歩いて天文臺に帰ってくると汗みずくであった。銭湯が何処かにないか、臺灣大學でも訊いて廻った。R先生だったかT先生だったかが日式サウナの看板をどこそこで見たよ、とおっしゃるのだが、これは勘違いで私は只ひたすら汗を落したいと思っただけで、是非日本式風呂に入りたいと思っていた訳ではないのである。結局、H先生が同じ様に臺大の近くの旅社を片っ端から当たって下さった。もう定年近いお齢なのだが、こまめに路地を廻られるのである。徹底して一軒一軒入って私の事情を説明し値段を尋いて下さる。然し、大抵は 200元以上であった。而も、想像して頂けると思うが、安くなればなるほど場末になり、奇妙な雰囲気になる。大學の近くと雖も、一つ通りを違えると雰囲気が違うというのが都会の特色で、H先生の頭の地圖ではそういう旅社のルートが大學から續くのである。結局、金門街邊りまで行って、 100元のところを見付けて下さった、というか交渉して下さった。怪しげなところだが、我慢できるでしょうとH先生も判断されて、それからは暫らく、臺大には着替えをカバンに入れて出掛け、講義の後は帰りにこの浴池旅社に寄り、一風呂浴びて、バスに乗って天文臺に帰るという習慣であった。実は私はどんな状況でも我慢して観測を続行する覚悟であったから、さして苦にならなかったが、部屋の様子といい、環境といい、雨の降ってるときの水たまりの道などを想い出すと、他の人だったら保たなかったのではないかと思う。私にはこういう見知らぬ処の雰囲気を識ったということでは大抵の旅行者の体験を凌駕していると思う。然し依然、観測後直ちに風呂を浴びるという藝當は出来なかった訳である。一ヶ月もしない内に王さんが下宿に移ったらどうかと忠告してくれたのは炯眼であったと思う。それに、天象舘も日曜日など朝早くから児童がドヤドヤと詰め掛けて、廉造りの床の下の地下室(地下室から見れば天井)は恐いほど喧しくて眠ってもいられない。隣が工作室で工具の音も馬鹿にならない。更に館員にとっても私が地下の一部を占拠して居ることで不自由があり(例えば禁止されている館内での麻雀が私の手前出来ないとか)そういう忠告になったのかもしれない。そんなわけで、コ惠街のアパートに移ることになった。H先生は松山機場邊りは安いでしょうとおっしゃっていたが、王さんは臺北の出身ではなく徳惠街しか知らない(これには意味がある)とかで、二、三当たった後、16916に決まった。少し家賃が高いので二の足踏んだのだが、何よりも男兄弟育ちの王さんが気に入ってしまったのである。何となく部屋が女性っぽく全体白で統一されており、雰囲気が華やいでいたからである。ワンルームだが月8000元、日本円で 4万円位であった。光熱費や管理費が加算されるが、前者は臺灣では高くない。8000元というのは、当時バスが 7元、タクシー初乗り20元という公共料金と比べると、特殊な部屋というのが判ると思う。いつかH教授がタクシーでこの宿まで送って下さった折り、16號を見上げ、ズバリこれは "" の館だナと即座におっしゃっていたが、コ惠街とはそういう場所として有名らしいのである。但し、生活には便利であった。久保亮五先生に台菜料理をご馳走になったのも、(その時は知らなかったが)16號の地下の餐廳であったし、尾代孝哉君の熟知しているやはり妖しげな雙城街や農安街もほんの近くである。16號から出て直ぐの中山北路の曾さんのレストランへは毎日通ったが、ここから陽のあたる街路樹を眺めるのは気持ちが好かった。

扨て、16號の風呂は洋式で、ただここも電気だったから水量は多くない。シャワーには十分であったし観測後辿りついて、シャワーののち冷房のなかで大きなベッドに寝っ転がるのはこれは疲れを取る上で好かったと思う。金門街の浴池旅社の天井にぶら下っていた煤けた扇風機を想い出すと、矢張り夏までは保たなかったろうと思った。1988年の時も一番に王さんとコ惠街で宿を探した。二、三空き部屋があったが、頭に16號の比較があるので、惨めな気のする処ばかりであった。16號には空室がなく、しかも値上がりしていて最低月1萬元であった。蔡臺長は別の延平北路に廉い旅社を見付けて下さったが、冷房が怪しかったので、結局取り止め、いつか書いたように、臺灣大學の近くの中央研究院所属の學舎に落着いたわけである。ここは天文臺から遙か遠いのであるが、光熱費込みで月6000元であった。冷房も新品で快適、洋式のバスも綺麗で、温度調節も新式、プロパン瓦斯だったから、湯も使い放題であった。これもいつか書いた様にドブンジャブンなのだが、天文臺から遠路遥々辿り着くのだから、シャワーだけではすまなかった。

 日本の臺灣侵略は五十年に亙った訳だから、日本の銭湯風習が全く無かったとは思われない。日本風家屋の面影のある路地もまだあるし、映画にも使われている。現に臺大の物理學教室も六十年前の建物である。然し、同文同種というのは全くの作り話で、中国人と日本人の風習の殆どは異質と思う。臺灣の葬列には何度も出喰わしたが、あの管弦や色彩を使った殯や行列の風習は日本人には馴染めないと思う。臺大や宿舎の近くを走る辛亥路には毎日の様に大仰な葬列が鳴り物入りで通り、気が滅入ったが、これは民衆道教に由来する伝統であろう。戦前は自粛されていたと聞いたが、戦後元の木阿弥に戻ったものか。従って、もし銭湯が戦前日本人用にあったとしても、同様に戦後直ちに消滅したに間違いない。晉の文公はまだ流浪の身の時、湯槽の中の裸身を見られたということだけで、即位後其の國を滅ぼしたという程だから、五十年やそこいらの年月ではこの風習が消えないのは当然である。私の印象では、戦後の中華民国臺灣は日本に比べて遥かにアメリカナイズしたが、日本及び日本文化に対しては一種鎖国政策を採ってきたと思う。日本臭を亡くすと共に日本についての教育はしなかったと思う。だから若い人で、 TOKYOは知っているが KYOTOは知らないというインテリがいるのも無理がない。反日感情も確かに一般的である。韓国の「東亞日報」の今年三月の日本に対する好感度の調査では韓国人で日本が嫌いと答えた人が62.4%だったのに対し「好き」がたった 4.1%だったそうで、韓国と臺灣では総督府の行政に違いがあったから、韓国程ではないと思うが、それでも根は可成りのものだろう。反日感情に就いては、中研院長(外省人)の運転手をなさっている紀さん(臺灣人)が、日本人はあれだけのことをしたのだから当然ですよとおっしゃっていたが、こうして年寄りには反日、若者には無知日が蔓延っている訳である。勿論年寄りには「親日家」はいる。然し四十五年の文化鎖国なのだから「知日家」は皆無に近い。H先生の口から川端康成の『古都』の話や若い女優の名が出たとき、ちょっと意外だった程である。ただ、私は「鎖国」には原則的に反対ではない。江戸幕府期の鎖国でもベルリンの壁でも、内部が爛熟して力が付くまで鎖国しておいた方がよいとする立場である。同種では在り得ないのだから、臺灣も独自の文化なり、習慣なりを作り上げるまで日本の様な野蛮國は袖にしておいた方が安全であろう。ただT先生がおっしゃっていたが、現在の日本の経済的な侵略は、戦前以上の様である。相互の文化理解が介在しないのだからこれは始末が悪いと思う。

火星通信#079 (10 November 1989) p673 所収「再見臺北・5

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