CMO ずれずれ艸 (南天・文臺)

 その二十七


 


「春」は曙などというが、私は春は「花」だと思う。いつから日本人が櫻を愛でるようになったのか知らないが、底冷えも終わりを告げ、陰暦の三月弥生櫻月の声を聞くと、山の邊が明るく際立って暖色に変る。しかし、それも束の間で、更なる暑さの予感で、花は惜しまれながら散ってしまう。尤も、昔の櫻は「朝日に匂う山櫻花」で、我々の見ている染井吉野というようなヤボなものではなかったらしいが、それでも山肌のあの櫻の賑わいは束の間の春を存分に想わせる。谷崎の『細雪』の中で、毎年幸子達が芦屋から平安神宮に駆け付け、庭苑の西潜りを入って、あぁ、今年も間に合った!と安堵する紅枝垂れの連なりは矢張り息を呑む絢爛さであった。平安神宮はケバケバしい所で、それもその筈、平安建都1100年を紀念して建立されたのだから、今年(1994)100年目に過ぎない。谷崎の頃は落ち着いて来ていたかどうか、然し、あの枝垂れ櫻は盛期であったということであろう。川端康成は、谷崎に先を越され悔しがったが、あの櫻だけは書きたくて、『古都』の中に入れた。平安神宮の櫻とて矢張り七日の命であろう。一等いいときは一、二日であろうと思う。そこのところが「春は花」なのである。

 「あけぼの」の方は、清少納言の「春は曙、やうやう白くなりゆく、山際すこし明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる」(『枕草子』初段) で有名なのだが、ここには感覚として散り行く花の様な趣はない。ただ、春の曙は当時の春を示すものであったらしく、『源氏物語』の紫の上は春を好んだとされるが、源氏も「君() の、春の明けぼのに心しめ給へるも、ことわりにこそあれ」と言っている(「薄雲」)。夕霧が美しい紫の上を垣間見て「春の曙の霞の間より、おもしろき樺櫻のさきみだれたるを、見る心地す」(野分)というのも、譬喩だが、当時こうした表現があったということであろう。序でに当時は春と秋の比較が話題になるが、「唐土(もろこし)には、春の花の錦にしくものなしと、言ひ侍るめり」(薄雲) とあって、どんな花か知らぬが、花は唐風ということになっている。「若待上林花似錦、出門ともに是れ花を看る人ならん」( 城東早春」 、楊巨源) などか。しかし、私は「曙」とて、否この方が寧ろ中國風であるように思う。もともと紫式部も清少納言も漢籍が得意で、式部は父からの直傳、少納言も周知のところでは「(定子が) 少納言よ、香炉峯の雪、いかならむとおほせらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば・・・・ (288段)という様な気味の悪い風潮があったということで、底流には外来の感覚が流れていると思う。尤も、枕草子は「春は曙」も含めてそうした舶来の感性を和風にしたと言われているのであるが、櫻花の風情の方がより日本化したのではなかろうか。紫の上の臨終を扱う「御法(みのり)」は四季を描き分けているが、「三月の十日なれば、花盛りにて、空の氣色なども、うららかに、物おもしろく、佛のおはすなる所の有様、遠からず思ひやられて・・・・・」という風で、両方溶けこんで、今際の紫の上に添う。私は原文を一行一行読んでいる譯ではなく、『谷崎源氏』だから、もうひとつ現代語で引用しておくが「ほのぼのと明けて行く朝ぼらけの、霞の隙(ひま)から見える花のいろいろが、やはり春に心がとまるように匂い渡り・・・・」という風で、「納めの櫻」が高い響きを示す。多分、日本の風土の中では櫻は散り方が独特であったのであろう。(唐土の櫻はどうか私は知らない。臺灣でも山中で見た記憶があるが印象がない。平地には櫻はないのではないかしらん。逆に、もっと北の倫敦の櫻は綺麗に咲くが造花の様に移ろいが無い。花より先にこちらの心が移ろってしまう。)私は京都の御所近くに居たことはあるが、残念ながら東山の朝ぼらけは経験した記憶がない。ただ、大津では琵琶湖を挟んでの三上山の方のほのぼのと明け行く暁天には接しているし、福井の足羽山の屋上からは勿論千変万化の曙を眺望している。しかし、これらは私の「春」の感覚とは結びつかない。

 櫻に間に合った、等というのはゴージャスだが惜春である。プチブル的だが、慎ましく譯せば、小感情ということであろう。三好達治に「惜春」という小文があって、そこで、「春惜む」は「もの惜しみの一つ」で、「つつましやかな小感情として、小振りにいふので面白い」と言っている。松尾氏の「ゆく春を近江の人と惜しみける」というのは、「近江の人は凡そけちん坊で、つつましくちまちまと実直」というのを松尾氏がふまえている譯でも「なかろうけれど、湖面の廣やかな見渡しのしぜんと聯想される地名だけに−−反って『惜しみける』は纏りよく、つつましく、小ぢんまりとしていて(どこやらけち臭く?)聞こえていい」と、どこでどう近江人に接したのかは知らぬが、M氏は勝手なことを言っている。ところで、彼はこの「惜春」(1963) の最後の句として

   わが家の對岸にきて春惜む  森田愛子

を採り、次の様に解題する:「作者の愛子さんは、越前三國の港口に近く九頭龍川のほとりに住居があった。句の對岸は數百メートルほんの眼の先の砂丘であったが、そこまではずつと上流に遡つての迂回で、道のりは數キロあった。永らく藏座敷に臥したきりのやうな容態のこの作者には、よほどの道のりであつたから、遠足はよほどの發憤であつたに違ひない。句を示された私は内心眉をひそめたが、それの表面がただユーモラスに受けとられるのにまた前後を忘れた位であつた。御名作々々々と思わず口走つたのを作者はどのやうに聴きとられたか。この作者は、ほどなく藏座敷の二階でなくなられた。既に二た昔も以前のことである。惜春の文字に、私の愛惜のなほ加はるのは、これも先ほどの道理に從ふ。」受験問題風に、先程の道理とは何かと訊かれても困るのだが、先に「春惜むつめたき母の手を引いて(木田一杉)という引用句があり、「『春惜む命惜むに異らず』と、虚子は尤もなことをいふ。その通りであつた」とあるから、その邊りであろう。これを書いたのはM氏が鬼籍に入る前年である。森田愛子の名は#141p1354 の右欄にある(左欄の達治、愛子の愛子は萩原朔太郎の妹御の萩原愛子のことで別人である)。M氏はその「自慢」(1955年)でもこの句を挙げている。「愛子さんは、私が住ひを借りてゐた森田家の庶出のお嬢さんであつた。美人で謙譲で利發で、氣さんじ者で、さうして永らく胸を病んでゐたのが何とも痛々しかつた。」 M氏は多くの句を拝見しているらしいが、全部忘れ、ただ一句上の句を「正確に記憶してゐるのがなつかしい。」 ここでは「ゆかしく瀟洒でユーモラスな句」とし、「九頭龍川の對岸から... 病室を見かへつたのである。その風光が、ただ今私の眼前にはうふつとする」と結んでいる。M氏は少なくとも三度この句のことを書いているが、「燈下言」(1946年)での引用では「先日句帳によつて示された時にも、無作法者の私は座も弁へず哄笑を禁じえなかつた」とあるから、これが初出であろう。この随筆のとき森田愛子はまだ亡くなってはいない。ここでは、「わが家を遠望するやうな心持で、客觀してこれを眺めやつたところに、この句の面白さは」あると言い、「俳諧本来の諧謔味が充分に溌剌としてゐ」るとするが、特に「わが家」はM氏の様な漂白者の僑居でなく、「そこで生まれそこで育ち現にそこに住んで或ひはそこで一生を終へるかもしれない」その「わが家」をさすと念を押している。森田愛子は癆咳に長く苦しみ、実際その直後1947年の春に一生を終えた。二十九歳であった。虚子の門下で、鎌倉にも住み、小諸のホトトギス六百号の紀念会にも遠出しているが、多くは「愛居」(これは虚子の命名であろうと思う)にあった。私は未だ拝讀の機會がないが、虚子には愛子を描いた『虹』という小説がある由で、どうも森田愛子には虹にまつわる話があるようである。『全句集』におさめられる虚子宛ての手紙には、彼らを三国から敦賀まで送って行ったらしく(日付がなく、三度ほど来ているので何時の時かは調べがつかないが、1944年か)「帰りの車中、福井近くではるか三國の方にはっきりと虹がかかった時はうれしゅうございました」とあるから、その前の話もあるのは確かである。死後、句が編まれて『虹』とされたが(1949 ) 、その結句は「虹消えてすでに無けれどある如く」。実は、臨終の日(四月一日)午後一時半、「虹の上に立てば小諸も鎌倉も」と口遊み、「おからだをたいせつに」「大きい藏の鍵をかけること」と言い、午後四時五十分絶命した。この句は最後から二番目に入っているから時世というわけでもないだろう。ただ、その前の歌が「九頭龍へ窓開け雛の塵払う」であるから、遠くはない。不帰となった日、達治は愛居を弔問した。愛子句集から櫻の歌を見付けることは出来ない。わずかに「お天守の中の暗さや花曇」だけであろうか。殆どは「雪」であり、雪の宿、雪篭、深雪、雪嶺、雪しろ、船の雪、雪囲、雪卸しなどなど圧倒的である。そして、句集『虹』は「化粧して病みこもり居り春の雪](1940) で始まる。ただ、はっきりしているのは、死の三日前三月二十九日「春風にふかるゝまゝにどこまでも」と詠み、これが『全句集』の記録としては絶唱になっている。そう云えば、M氏も「春の岬」で始まり、「春の落葉」で終わった。

 私は俳句や短歌に馴染みがなく、短詩は単独では不成立の第二藝術だと思っている無頼の輩で、M氏の手で何度も紹介される愛子句も実は風光も句意も(眉をひそめ?)間違って解釈していたのである。しかし、M氏の解説をよく讀むと、彼が状況を知悉していたことにもよるのだろうが、句がよく解ってくるところがあった。挙げ句、私もこの句一句の世界に愛惜を感ずる様になった。雪が溶け、和む空気のなかを、しかし、夏の来ない短い間、遠出して(その距離と道筋は私には分かる)、春水の九頭龍流を挟んで、病室の對岸に幾許もない我が身を置き、控えめに命を惜しむというのは、愛子が夭逝しただけに一層つつましやかな惜春である。私が母から聞いていたところでは、彼女は評判の美人であったという。しかし、句集の何処にも「春の花」の爛漫さは感じられず、反って束の間の「春は花」のもののあわれを具現している、という風に思う。M氏は「哄笑した」とも書くほどだから湿っぽくはなく、「春の花」だったのかもしれないが。

 

 

[付記1]母親の「遺品」から新聞の切り抜きが見つかった。十五年以上前のものである。余白に書込みがある のには恐れ入った。一緒に踊った、ということは何度か聞かされていたが、忘れ去られるとでも思ったものか。一級下の主語は「愛子さんは」である。尚、森田家は江戸時代から北前船の廻船問屋として名をなした豪商であったが、鐵道敷設による三國湊の衰退とともに没落した。のち銀行や農園、倉庫等と転身して行ったが、往時に比べれば面影がない様である。)    

 

[付記2]今年は久しぶりに平安神宮を覗いた。中古セルボの荷物になって8日に様子を見に行ったが、未だの様であったので、11日に改めて出掛けた。しかし駄目であった。枝垂れが貧弱で代替りをしているのかもしれない。満開でないことは確かだったが、あの枝ぶりでは昔日の面影は無理ではないかと思う。寧ろ加茂川上流の土堤に並ぶ紅枝垂れの方が並びは疎らだがより枝ぶりが好かった。今年は大津の宿舎の窓外からの三井寺の山肌の櫻は日々眺めやられた。しかし、今年の櫻はどういうのか、とげとげしい感じで、見惚れるということはなかった。ただ、雨の日、通りがてらに疏水べりから三井寺の山にかけての櫻を見上げたときは煙って美事であった。「ささ浪や志賀の都はあれにしを、昔ながらの山櫻かな」というのは忠度の都落ちの際「取て返し」俊成に託した歌の一首だが、同じ『平家物語』の前段で三井寺に火を放ち「たちまちに煙と成るこそ悲しけれ」の際の副将軍が忠度であったところを見ると、案外、あれにし都は人麿のころの焼直しではなく、三井寺と「大津の在家」であったかもしれず、山櫻だけは三井寺の山のあのあたりに残っていたのかもと思ってしまう。(「ながら」は長等山の長等に掛かっている。) 櫻は南から散って往くが、中古セルボは湖北の海津の千本櫻(since 1935)には間にあった。しかし、染井吉野はもう食傷である。帰って三國の雑木林の中に二三本山櫻を偶然見付け、それが淡くてかそけく、これが我が惜春の想いの軟着陸地点であった様である。噂の淡墨櫻は如何ばかりかと思うが、とてもこれを惜しむような贅沢は我々には許されるようなことはあるまいと思う。

南 政  Masatsugu MINAMI


 

火星通信#144 (25 April 1994) p1392夜毎餘言XLV

 


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