OAA火星課OBの『夜毎餘言-その VIII

南  政 次

CMO/ISMO #415 (25 October 2013)


VIII-1. 會津の悲運: これは生前の司馬遼太郎氏が二十一世紀になる前、1994年四月に郡山市での講演に附けたタイトルである。それより二十年ほど前に会津若松で幕末の会津藩の動向を講演したとき、最後は胸が詰まり、涙がこぼれそうになって、話を端折った、と語っている。司馬遼太郎氏は屡々会津藩の戊辰戦争や斗南流浪については書いたり、話したりしているようだが、どうもその段になると会津の悲運を嘆かざるを得ない。

 華奢な松平容保が京都守護職を、多分に松平春嶽(越前福井藩主)の執拗な説得に敗れて、受けざるを得なくなり、藩兵と共に京に入ったのは維新より六年前(1862)の暮れであったが、これが会津藩没落の端緒であろう。幕藩体制の末期にあり、京都を守護することは生やさしいことではない。薩長との鳥羽伏見の戦い(1868)で幕府軍は破れ、徳川慶喜は大坂から海路 江戸へ逃げてしまう。その際、松平容保(かたもり)を同行させるのだが、結局慶喜は水戸へ逃げ、容保は捨てられてしまう分けである。これは挙げ句、松平容保と会津藩は来るべき新政府軍の標的として遇せられることを意味する。江戸開城が無血であった為に逆に会津は猛々しい薩長の餌食になったともいえる。鶴ヶ城の陥落などはNHKの大河ドラマで扱われたし、私はドラマではあまり覚えがないが、萬を超える藩士その他が、極寒の下北半島の方へ追いやられ、斗南藩として極貧の生活を送ることになる。どんなに悲惨であったか、どこかで読んだのだが、今は思い出せない。容保自身は明治後、松平の家名が再興され、日光東照宮の宮司になったりしているが、明治26(1893)小石川で死去した。有名な逸話は、彼が孝明天皇から極秘に二度にわたって頂戴した長文の書状で、これには孝明天皇が京都守護職の容保を如何に信頼していたかが顕れていて、逆にこれで容保は身を護ることが出來たかも知れなかったが、孝明天皇の死後も、決して家人にも漏らすことなく、大事に竹筒の中に閉まって風呂に入るとき以外は背中に担いでいたらしい。孝明天皇の崩御は1866年で、いずれも鳥羽伏見の亂の前である。

  扨て、會津藩への仕打ちは恭順が示された後も続いていたようである。例えば、大正に入ってからも薩長以來の政府は主な都市に「舊制」高等學校を創立するのだが、司馬さんの意見では、會津若松は「文教のにおいのある」にも拘わらず目の敵にされ、除外されたというわけである。

はじめに引用した郡山での司馬さんの講演は県立会津大学開学一周年記念講演会のもので、司馬さんは別のところで、會津若松での大學の開学は喜ばしいと言っていたように思う。今年廿周年ということになる。   

(24 October 2013)

VIII-2. 禅門の虎、校門の狼: NHKのドラマは關心が京都の同志社に移ったかに見える。私は大學二回生になって宇治分校から北白川の學部に移ったとき、寺町今出川上ルに下宿したから、同志社の方に近かったのだが、同志社には、少し二點ばかりを除いて、縁がなく、近くを好く通ったけれども大學のキャンパスには入ったこともない。しかし、何とはなく私はこの學校には敬意を払っていた。新島襄(18431890)の名前は好く識っていたし、風貌も偉人切手で拝見していた。いまNHKでの日曜ドラマの後半で、新島襄が因習の京都でたいへんな苦難に遭っていたことを初めて識ったところである。

私が同志社に少し愛着があるのは、私が小學低學年のころ、1948年六月23日の福井大震災(M7.1)に遭っていて、戰災で全焼した後やっと建てた家屋は、時を置かず、全壊し、暫くバラックに住んでいたことがあるわけだが、幾らか落ち着いた頃、同志社の學生達が、4tトラックで町内にやってきて、近くの私ども子供を集め、トラックの荷臺に座らせて乗せ、可成り遠くの大きな校庭のある學校に連れて行き、遊ばせてくれ、夕方にはまた町内に戻してくれたということがあった。多分昔の福井高等女學校、後の高志高校の校庭ではなかったかとおもうが、遠路、往き歸りにはトラック荷臺の上で大きな聲で「緑ヶ丘の赤い屋根・・・」などを唄ったりしていた。同志社の學生さんの何人かは特殊な角形の學制帽を被っていて雰囲氣があった。彼らはクリスチャンのクラブか何かであったろうと思うが、私は初めて見たヴォランチア活動であったと思う。ただ、福井市で被災した小学生は多かったはずで、トラック一台で賄えないと思うが、他のグループを見た憶えがないのは不思議である。いろんな處に分散して活動していたものか。それは兎も角、私の同志社に對するイメージは好いのであるが、もう一つ、お世話になったのは、どなたの紹介か忘れたが、大學院の學生のころアルバイトで同志社女子中學に出掛けて數學を教えることになり、四月から通い始め、二三囘は授業をしたと思うが、身體檢査を受けなければならず、その時、看護室の女性のかたが試驗管に入った私の尿に試驗薬を垂らすと、眞っ赤になって吃驚、あなた腎臓が悪いの?と訊かれ、私は勤務先での檢査では素通りしていたから、自覺したことはなかったのだが、急性だろうということになり、その時を以て同志社女子中學での授業は取り止めになった。勤務先の診療所で再檢査し、腎炎は確實だからというので、福井に歸郷し、自覺症状はないまま、福井県立病院に腎炎ということで半年入院した。母親が遠路を毎日見舞ってくれた。大學院と雖も、授業はあったはずであるから、缺席していたことになるが、湯川研はもともと放任主義で、自由にさせていただけた。宗像助教授からゴッホの画集が病院に送られてきたのも憶えている。上級生から送られて來たファインマン・グラフに伴う計算など病院で手傳った憶えもあるが、餘り自分の勉強はした記憶はない。あとで自己診斷したところでは、當時、下宿は紫野に移っていて、加茂川の長い土手を薄着で自轉車を飛ばしていたが、風が強いときが多く、腕から躯を冷やすことが續いたのと、頭痛には惱まされていたから、セデスという錠剤をしょっちゅう飲んでいたが、成分にフェナセチンが含まれていて、これが腎臓を痛めて居たのだと思う。

  同志社はこれで切れてしまったのだが、井上健先生(1921~2004)が、京大から出向して、成安女子短期大学で教えられていたのだが、このお鉢が私に廻ってきた。既に私は卒業して直ぐ就職していたので、成安へ通ったのは、藤森の官舎から始まったと思うが、大津に轉居してからも週一回、朝方早いので苦勞したが、山科乗り換えで京都駅に出たか、京阪三条からバスに乗ったかであろう。京都駅から出來立ての烏丸の地下鐵にも乗ったことがある。一度長く留守するときがあり、淺田正氏に一年代わって貰ったのだが、淺田さんは多分、百万遍の近くに下宿していたときと思うから、彼の場合は烏丸今出川へ直通だと思う。

實は當時の成安は、同志社の奥の相國寺のそのまた奥にあったから、自然、歸りは相國寺の境内を通って、門を出て、同志社のアーモスト館の前を通って御所の裏の今出川へ出るか、成安から逆に東へ出て、桑原武夫という表札のある方へ曲がって出町に出るか、であった。ときには、同志社と相國寺に挾まれた細い道があり、そこに面する喫茶店で昼飯を済ますこともあった。

あるとき、この細道に貼り紙が何枚も出たことがあった。覚えているのは「禅門の虎、校門の狼」と大書されていたことで、この場合、前門→禪門は相國寺を指すことは瞭然で、後門→校門は同志社を指している。多分、借地問題ではなかろうかと思ったが、その内、解決したのか、貼り紙は一掃された。それにしても巧い張り紙で、禅門と校門に挟まれた處以外には應用が利かないが、それだからこそ、これはユニークだと思った。

同志社が薩摩藩邸のところへ進出したとき、寺門から抗議が出たことは間違いなく、場所から言って、相國寺がその最右翼であったに違いないことも、敷地関係から読み取れると思う。

いまでは、同志社は今出川に面するところを幅廣く占領しているし、烏丸通りを挟む西側にも大きな建物を保っており、更には田辺や香里にも進出しているから、少々の寺門の及ぶところでないといった趣である。

(20 October 2013)

VIII-3. 金管五重奏未だ私の独歩による外出はなくて、運転もしていない。免許更新がちかいので、そろそろと思っているが。デイ・サーヴィスは十月から変更してもらい週一回だが、筋トレ中心の處に通っている。

 今回のハーモニー・ホール・フクイ(HHF)は十月13日にお荷物として矢張り家内の運転で行った。ブラス・クインテット ウイーン=ベルリン+オルガンとなっていて、前半はオルガンの高台に入れ替わり立ち替わり金管奏者が現れ、高所から音が聞こえて来る趣向のもの。金管はトランペット二台、ホルンとトロンボーン、それにテューバの五名で、いずれもウィーン・フィルとベルリン・フィルの楽員ということであった。オルガンは荻野由美子という人で、解説もされていた。後半は金管だけで、これは通常の舞台上で五名半円形になって演奏していた。

曲目はリヒアルト・シュトラウス、ヘンデル、ギルマン、バッハ、ドビュッシーといったところだが、最後にピアソラを入れて愉しいものになった。R.シュトラウスのヨハネ騎士修道会の荘重な入場などというのは高台でオルガンとともにファンファーレ風に金管が鳴るのは何か相応しく思う。アストル・ピアソラは「リベルタンゴ」と「天使のミロンガ」の二曲やったのだが、前者をアリソン・バルスムのアルバート・ホールでの演奏をYouTube

http://www.youtube.com/watch?v=tiMD7FdhbPo
を引用する。

(24 October 2013)

 

VII-4.  三國でのDuo Concert三國にも小さいホールがあって、十月20日にチェロとピアノの演奏があり、出掛けた。チェロは苅田鉄平、ピアノは森本菜桜子で兩者とも桐朋出身である。苅田KANDAと読むらしい。チェロ独奏はバッハの組曲第二番、ピアノ独奏は例のショパンのバラード一番ほかであった。二部は合奏だが、面白かったのは、モーツァルトのクラリネット協奏曲をチェロとピアノでやったこと。ラフマニノフのチェロソナタ作品19第三楽章もプログラムに入って居たので、YouTubeはこれにする。

 http://www.youtube.com/watch?v=ns4AK-d7MAM 

(24 October 2013)


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