OAA火星課OBの『夜毎餘言-その X

南  政 次

CMO/ISMO #417 (25 December 2013)


X-1. 土門拳の子供たち:前號の編集が終わった直後、金津創作の森」へ十一月27日に土田ヒロミ氏構成の「土門拳の子供たち」の展示場に行った。ここは三國の北端から眞っ直ぐ北陸自動車道へ走ると、その手前にある。ガラス工藝家などが棲んで作業していると思う。展示場は上等である。私は土門拳が昔から好きで、彼の晩年の生のサイン入りのプリント写真(琵琶湖)も一枚所蔵しているし、『死ぬことと生きること』などの名文は幾冊か讀んで持っている。『風貌』などの志賀潔のポートレートもいい。ぷりぷり怒ってムーとしている梅原龍三郎も面白い。土門は有名人に写真と文章で反撃する。長く待たされて撮った湯川秀樹などヌペーとしている。小林秀雄もなかなか新鮮である。しかし私の持っている筑豊の写真集などは翻刻版である。展示會は京都で見たことがあるような氣もするが、江東の子供たちの畫像は殆ど識っているものの、原畫は初めてかもしれない。子供の遊びの瞬間を捉えたものも多く、興味深い。しかし、この手の決定的瞬間(Image à la sauvette)の深みは、木村伊兵衛も試みたが、やはりアンリ・カルチエ=ブレッソンには及ばない。それより戰爭直後の貧しい暮らしぶりが、いま精彩を放っている。

 私は中學の時か、戰爭で父を亡くした遺族ということで、團體で靖國神社に連れて行かれたが、淺草か何處かで、出店のオバハン聯が、われわれの行列を見て、田舎者という意味の一種の嫌みな罵声を浴びせたが、成る程、われわれの行列や自分の學生服姿をこの行商のオバハンたちの眼で眺めてみると、洗練からは程遠く、哀れな姿であった。尤も坊ちゃん風の戸田君は少しマシであったかもしれぬが、彼はそういう出店で買った萬年筆を長く使って綺麗な文字を書いていた。戰爭で親を亡くした子供は多かったのだろうと思う。ウチの家内も父をミンダナオで亡くしており、私より四年下で別の中學であったが、やはり、靖國に連れて行かれたらしい。尤も、クリスチャンだから、拝殿で、父はこんな處にいないと大聲を發したとか。今度の安部首相の靖國神社參拝のテレヴィ映像が出るとモニターを紙の束で叩いている。昔、串田孫一氏(1915~2005)は中曽根首相を嫌ってテレヴィに中曽根が冩ると畫面をスリッパで叩いたという話を書いていたが、今のテレヴィはスリッパで叩くと倒壊する。

  靖國に續いて、沖縄振興に年三千億圓かの空手形を切り、邊野古問題でストレスを起こした沖縄の仲井眞知事をして、首相の前で卑屈な禮を述べさせた。知事もこれでいい正月になる、と言ったと傳えられたが、あぁいうのが沖縄流とも思えない。頭がおかしくなったか、結局具體的には金なのか。同じ頃、これも唐突に武器輸出を安部は單獨でやった。實彈一發でも武器さ。おかしかと聲を掛ける人物もいない裸の王様か。 

(26 Nov 2013)

 

X-2. オードリー オードリー・ヘプバーン或いはオードリー・ヘボン(Audrey HEPBURN1929~1993)は、村上さんも同じだが、私も大ファンで『ローマの休日』などは何度見ても愉しい。數週間前、シャレード』(Charade1963)がTVにかかるというので楽しみで見た。これも何度も見ていて、筋書きも憶えていたが、今回は見終わって何となく氣分が好くなかった。折角のケーリー・グラント(1904~1986)もヨボヨボで少し氣が滅入る上、如何にも殺人が多すぎる。生々しい死體など餘計なように思った。

 當時はサスペンス風のこういうなのが好かったのかも知れぬが、脚本は今風では最早ない。

  人が歳をとるというのも愉快な話ではない。ケーリー・グラントがもう少し若かったらいいのに、と思った。

  前後して、松下奈緒がオードリーの足跡を辿る番組があり、これも見たが、デビュー前の田舎の風景以外、年老いたオードリーしか手應えが無く、寂しい限りであった。息子達も冴えない。

但し、以前、何かの映畫祭で、ノミネートの中から受賞名簿の發表に、プレゼンターとして年老いたグレゴリー・ペック(1913~2003)とオードリーが手を組んで舞臺に出てきたシーンを見たが、あれは年老いていても最高によかった。もう一度、見たいものである。

 

X-3. サイモン・ラトルとエミール・ギレルス: 前回、斷ったように十二月は家内がクリスマスで忙しいものだから、HHFには行けなかった。そこで、珍しいものが出てきたので、それで誤魔化すことにする。

417AlbertHall1980.jpg  このチラシは随分昔だが、當時の本物で、1980年の十一月18日とあり、ロイヤル・アルバート・ホールで、サイモン・ラトル(1955~)指揮でエミール・ギレルス(1916~1985)がチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を演奏したときのものである。

  ラトルもまだ若く25歳、赤い腹巻きを巻いて巻き毛できびきびした動作で格好好かった。下宿のオバさんが白系ロシアの亡命者で、ユダヤ系のラトルをわが子のように自慢であった。ラトルはその當時バーミンガム市交響楽團の常任指揮者で、このオーケストラを好く向上させたとされ、日本へも來ている。現在はもう還暦直前で、2002年よりご存じベルリン・フィルハーモニーの首席指揮者兼藝術監督である。いまではSirが附く。しかし、2018年にベルリン・フィルを退任するらしい。

   エミール・ギレルスは當時64歳、當代随一のピアニストと言われた人である。五年後に亡くなっている。いかつい感じであったが、音は好かった。ただ、彈き間違いは目立った。そのことを一緒に聴きに行ったイギリス人の物理學者に部屋に戻ってから言ったら、tremendouslyという言葉で返ってきた。 

  アルバート・ホールはインペリアル・カレッジの直ぐ近くで、下宿も大學に近いフラットに移ってから、アルバート・ホールには何度か通った。アルバート公はヴィクトリア女王の早く亡くなった夫君で、あちこちに名が殘っている。 アルバート・ホールは演奏會に好く使われる。河上肇の文章にも出てきたと思う。先に引用したアリスン・バルスムのトランペットもここであった。

 上のチラシを丹念に讀むと面白いことがいろいろ書いてある。皇族も臨席している。

 

今回のYouTubeは丁度一年前のNYでのGilelsの演奏(指揮はズービン・メータ)と、最近のRattleのベルリンでの指揮ぶりを一寸である。中年太りで、昔、紅色だった腹巻きは灰色である。

http://www.youtube.com/watch?v=HiPoXh57IAM&list=RDhyW4ejyx_fA

http://www.youtube.com/watch?v=fhHb-62BfpI

 (29 Dec 2013)

X-4.   雪が降ると、車の運轉が難しくなるので、正月、二月はHHFを休む。三月はチケットを買ってあると思う。29日現在雪は少し積もっている。この一ヶ月はあくせくとして原稿書きで疲れた。運動もしていない。明日は筋トレに、と思っているが大丈夫かな、とも思う。

 

 


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