新・歳時記村 (2) 

凱風快晴

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今年は早々と颱風六号が関東地方に上陸して梅雨空を吹き払った。接近してきた頃には暴風雨圏は小さくなり、心配していたほど大荒れにはならなかった。夜半がもっとも風雨が激しかったが、翌朝は颱風一過の大快晴となった。

 

今回転居した先は東西を川に挟まれた台地の上で、増水しているであろう川を野次馬根性で見に下った。いつもより濁って水量は多かったが、期待したほどではなかった。廿五年ほど以前に住んでいた日野市で見た多摩川の増水は川幅も大きいがもっと凄かった。下流の狛江市で堤防に近い家屋が流された時である。このときの話は「岸辺のアルバム」というテレビドラマにもとりあげられた。

 

晴天に誘われて散歩ついでに富士山の見えるところを捜して少し歩いた。家々の庭には花が咲き誇り、各種のユリの花や、クチナシの花が芳香を漂わせていて爽やかだった。台地の上は南北方向に道路が走っていて、西に開けた場所があり、雨に洗われた青空に丹沢から富士が鮮やかに見えた。富士山は山腹は沸き上がる雲に覆われて判然としないが、山頂は良く見える。冠雪は既に無いが、雪渓が鮮やかに一筋白く見えていた。

 

道端に小さな墓所を見付けた。昔付近が広闊な畑地だったときに設けられた墓所だろう。新しい石塔の暮域の外に風雪に剥落した道祖神風の小石塔があった。建立年月が刻まれているのだが、部分しか残っておらず判読できない。刻まれている姿は不動明王像か千手観音像に思える。富士の見える見晴らしの良いところに墓所を設けるのは藤沢にいるときにも旧家の墓所に見られた。先祖を弔う者の共通の心境なのであろう。

 

我が家の南に東西に旧街道が通っている。横浜方面からの大山道の一つで、今は長後街道と呼ばれている。厚木基地に降りたマッカーサーが横須賀へと通過した道である。台地の一番高くなっている十字路に出ると富士山が良く見える。東南の一角は忠魂碑の立つ場所で、今は公園になっていて樹木が鬱蒼と茂っているが、昔日には周囲に高い建物もなく、さぞかし富士山が良く見えたことと思われる。

 

忠魂碑は昭和二十九年に再建された新しいもので、碑文を眺めると地元の日露戦争の戦没者を祀っているものだった。後ろには古い忠魂碑が真っ二つに折れて置いてあった。関東大震災の被害を被ったのでもあろうか、鉄のボルトで止めた跡があり生々しい。隣には、爾霊山(乃木将軍の命名、二百三高地のこと、二零三の語呂合わせ)で戦死した将校の碑もあり、乃木将軍の篆額が彫られていた。此の土地が当時は鎌倉郡中和田村だった事も判った。

 

我が家も屋根に登れば富士は見えそうだが、焼けた屋根の上に登るのは遠慮した。裏の古いアパートが「富士見荘」というのだから、周囲に高い建物が建て混む前には見えたには間違いがないと思う。

 村上 昌己      

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