ペルー出張:2007年1月20日(土)−1月28日(日) 目的:フレアモニター望遠鏡移設のための視察・調査 1月20日(土) 出発までに、たまっている仕事を片付けようとしたが、 結局片付かず、 ほとんど徹夜状態で伊丹へ。朝6時30分すぎに家を出る。 2分ほど歩いて家森さんから預かったDVDリーダーを忘れた ことに気づき急いで引き返す。何とか忘れずにすんだ。 伊丹8時30分発の日本航空便で成田へ。9時45分ころ成田着。 ダラス行き発は昼の1時すぎなので、たっぷり時間はある。 まず、うどんを食べ、のち、ペルーのガイドブックと おみやげ(京都のおたべ(生八橋))購入。 3時間前にチェックイン場所に行くとまだ開いていない。 なのに人がいっぱい並んでいる。2時間半前に行き、チェックイン するとすでに通路側、窓側もない、という。 便はAA。割引なのでJALマイレッジに追加はできないとのこと で、AAマイレッジカードを新規作成。(本当に新規だろうか? 家に帰ったらあったりして) のち、上野君と会い、13時15分発のAA176便でダラスへ。 飛行時間11時間20分。 航空機内では、ひたすらxxx審査。 ダラスでの待合時間中は上野君とペルーでの予定について相談。 のちTmobileで電子メールチェック。1日10ドル。 しかし途中で眠くて仕方がなく、全然仕事にならず。 現地時間17時50分発のAA便でマイアミへ。2時間40分の飛行。 マイアミでは待ち時間は短く2時間ほど。 夜23時55分マイアミ出発。 1月21日(日) 翌日(1月21日)朝5時30分にようやく、 ペルー・リマに着く。日本時間にすると、1月21日(日) 19時30分。朝自宅を出てから実に37時間。 腰痛は何とか持ちこたえた模様。 空港には石塚睦夫妻とご子息のホセさんが出迎えに来て 下さり感激。石塚さんの車で30分ほど走ると石塚さんの ご自宅。いったん荷物を石塚さんのご自宅に置くと、これから すぐにカラル遺跡見物に連れていって下さるという。 早朝なのでホテルにはまだチェックインできないからだ。 急いで顔だけ洗わせてもらう。 Hugoさんに20年ぶりに会う。Hugoさんはかつて 滋賀大の椿さんのところに2年ほど留学してことがあり、 そのときに何回か会ったことを覚えている。末松君の 酒酔い運転が検問で引っかかったときに、助手席から スペイン語で大きな声で話しかけて「救った」(警察官が スペイン語にひるんで許してくれた)という 伝説を聞いたことがある。(もっともそのことを今回 確かめるのを忘れていた。) リマの町並みは一見すると日本や他の外国とあまり変わらない。 日本の中古車が結構走っている。「非常口」と漢字が書かれた 中古バスまである。 まず、朝食。インカコーラを初めて飲む。黄色いコーラ。 結構いける。味はどこかで飲んだことがあるような甘いジュース味。 食事はチシャロン。ボリュームたっぶりの豚肉のサンドイッチだ。 カラルの前にまず、リマ郊外のアンコン観測所へ。ここが現在の 石塚さんの働き場所とのこと。砂漠の平地に通信用アンテナが ある観測所。平屋の建物が数棟。 ここにシーロスタット(西村製作所製:元ワンカイヨ観測所にあったもの)と 国立天文台から寄贈された回折格子(5cm四方くらいのサイズ;溝300本/mm) と鏡(日本光学製)が置いてあり、現在Hugoさんが調整中とのこと。 いずれ、イカ大学の太陽観測ステーションのところに持っていき、 教育用に活用する予定だという。 観測所内には石塚さんの日本語蔵書などが少し置いてあるほかは 閑散としており、壁に天文写真が貼ってあって、多少太陽や 天文に関係しているのがわかるくらい。 ここで、カラル遺跡に興味をもつ若者3名が合流し、車2台で 午前10時すぎに出発しカラル遺跡へ。砂漠の中をリマから 北へ向けて2時間あまり走る。 恥ずかしながら、ペルーにこんなに砂漠があるとは 知らなかった。アンデス山脈と太平洋との間は基本的には 砂漠であり、アンデスから流れてきた川沿いだけに緑(オアシス) がある、つまり、人が住んでいる。 要するにエジプトーナイル川の関係と同じだ。ナスカの地上絵 が残るゆえんである。ナスカの地上絵はもちろん良く知っているから 砂漠のことを知らなかったはずはないのだけれど、エジプトと 同じ(似ている)とまでは思ってもみなかった。 昼過ぎカラル遺跡に到着。昼食ぬきで見学。 カラル遺跡は4800年前に作られたピラミッド群で南米最古のすごい遺跡。 ほとんどエジプトに匹敵するくらいの古さ。最近、放射性同位元素の 調査で年代が判明したのだという。ピラミッドはマヤのピラミッドを 小型にしたような形と大きさ。ただし、かなり壊れており、 砂や石に覆われている。発掘で発見されなければならないくらいに 埋もれていたのだが、どうして埋もれたのか不思議。 人為的に埋められたのではなかろうか? 後にやってきた文明が恐れをなして、破壊しようとし埋めた、という ことはないだろうか? ついついそんなことを考えながら見学。 人間というのは結構昔から世界中で文明を作っていたの かもしれない。5000年くらいでは今と人間自身はあまり変わって いないのだろう。 見学は延々3時間くらい続いたろうか。通常の見学隊と異なり、 考古天文学をやろうとしている若い女性院生もいるので、 ガイド(研究者の卵)もつい熱心になった模様。 石塚睦さんは足が悪くて砂漠道をスムーズに歩くのは困難なので、 我々が見学している間は運転手さんとずっと待機。全く申し訳ない。 夕方6時頃、帰りの途中の町で昼夜兼の食事。ARROS COMPATOというアヒル肉の 焼き飯風ごはん料理を食べる。そのとき、写真集「太陽」の スペイン語訳をもらう。光栄の限り。ぜひ出版しないと。 またこれを元に英語訳もできるかも。帰ったらアントリン君に相談しよう。 宿泊は石塚さんのご自宅の近くの Prince Hotelで1泊約50ドル。無線ランも自由に使え、部屋の整備もなかなか 良い。テレビも新しくきれいで、100チャンネルあるケーブルTVがあり、 NHKも日本語で見れる。別のチャンネルではドラゴンボールのアニメも やっていた。 1月22日(月) 朝早く6時すぎにホテルを車2台で出発。 今度は南へ向けて延々と走る。途中で朝食。 再び、インカコーラとチシャロン。 砂漠とその間のオアシス(川沿い)の繰り返し。 しかし、砂漠の様々な風景は感動的だ。エジプトーリビア 間の砂漠は平地だったが、ここは山も砂漠。木や草の全く 生えていない、砂だらけの山、岩石だらけの山々、、、 全く壮観だ。きっと10億年以上も前の植物が陸地に上がる以前の 地球の風景はこうだったのに違いない。 午前11時半ころにようやくイカ大学(Univ of Ica=UNICA)に到着。 早速、ネクタイを締めて、理学部長さんにご挨拶。 黒点観測用望遠鏡(口径15cm屈折鏡:高橋製、数年前、 日本政府から寄付) を案内してくれる。学生が投影版に写った太陽像を見せてくれる。 毎日交代で黒点スケッチをしているようだ。 周辺に学生やらスタッフやらが多数集まりちょっとしたイベント。 ビデオカメラ撮影隊までいる。 我々の訪問が宣伝されている模様。のち、ある部屋に通されると ひな壇と一般席の記者会見風の机と椅子。私は理学部長さんと ひな壇へ。石塚さん父子、上野君、その他の大学関係者は一般席。 すると理学部長さんが立ち上がり、いわく、「記者を呼ぶ準備は できませんでしたが、あなたがたの訪問を歓迎します、、、」と、 ワインを我々に振舞って乾杯。すごい歓迎ぶりでちょっとびっくり。 石塚ホセさんが通訳。私も日本語で返答のあいさつを述べる。 のち、太陽観測ステーション建設予定地へ案内される。大学の 端に、広大な土地が用意され、大学がストで入れないときでも 太陽観測が続けられるように、別の入り口も用意されるという。 いずれ、アンコン観測所に置かれているシーロスタットもここに 移設して太陽観測ステーションが完成するという。フレアモニター 望遠鏡移設の第1候補がここだ。シーロスタットの横に置けば 良いという。インターネットも大学からつながり、望遠鏡の 維持運営は大学がやるという。もっとも現在のイカ大学には 太陽物理学者はおろか天文学者もいない。そもそも、ペルーで 天文学者と呼べるのは石塚睦さんとホセさんの二人だけかもしれない。 移設した太陽観測装置を生かすには、学生教育、研究者養成が 必要。 その後、イカ大学の学長さん(M. Sc.Juan Alva Fajardo 氏) を訪問。学長室は大学内ではなく 少し離れたところ。理学部長さんも同行。パソコンで、 宇宙天気予報という観点からの太陽観測の意義を説明し、 さらにCAWSES国際プログラムの一環としてのCHAINプロジェクト を始めつつあり、その最初の日本国外観測地としてペルーを 考えているので、ぜひご協力を、と説明。私が英語で説明し、 石塚ホセさんがスペイン語に通訳。学長さんはわりと 熱心に聞いてくれた模様。 のち、講演会場へ。ここがまたセレモニー風の会場。ひな壇に 学長、理学部長、私、石塚睦さん、もう一人か二人がすわり、 セレモニー開始。その後ようやく、講演開始。私の 講演は、昨年ブラジルでやった "Solar Activity Affecting Space Weather" の話と同じ話をするつもりだったが、昨夜、 全体を見て、これは専門家向け(太陽が専門でない地球物理学者向け) であることに気づき、急いで 一般市民にもわかるように、やさしく短く編集し始めたのだが、 徹夜したにもかかわらず時間が足りず(山のような電子メールの せいもある)、結局、講演開始直前までも編集作業続行。 何とか一段落し、 石塚ホセさんによるスペイン語への同時通訳により講演を開始。 朝日新聞の記事で家内が結婚後初めて「太陽フレアって何?」 と聞いてくれたというくだりは、通訳の石塚さんだけが、プッと 吹き出してくれた。出席者は50−60人くらい。 後で石塚ホセさんに聞くと、「秘書の人がおもしろいと言っていた。 誰も寝ていなかったので驚いた」 とのこと。最後の方、 CHAINプロジェクトとして最初に選んだ国がペルー、と言った ところで拍手が起きてびっくり。 何とか、1時間以内くらいに終え、質問も少し出て ほっと一息。ところが、その後セレモニーが延々と続き驚きの 連続。私に何とメダル、盾が贈呈され、客員名誉教授(?)のような 称号が授与されたらしい。口々に congratulations と言われるが、 なぜ congratulations なのか本人は良くわかっていない。 ここでもワインが提供され乾杯。理学部長、学長、地元の名士の 挨拶が次々と続く。最後は学生の民族音楽演奏とダンスと続き、 講演を入れると2時間あまりのすごいセレモニーだった。 こんなすごいことになったのは、もちろん地元での石塚睦さんの 名声のゆえんに違いない。 夕食後、IGPの教育用天文台の候補地視察。イカ大学から車で 30分〜1時間くらい北の砂漠の真ん中。道のない岩石砂漠の真ん中へ 車で走るのは、(自分が運転しているわけではないのに) 帰って来れなくなったらどうしようと、ちょっとどきどきした。 候補地についたときは日が暮れ、三日月と金星が見えるのみ。 残念ながら雲が多数のため、南十字星も大マゼラン雲も見えず。 日本で募金活動で集めた基金により60cm反射望遠鏡(西村製作所) が設置される予定。 1月23日(火) この日も朝6時にホテルを出発。今度は東へ。アンデス山中の ワンカイヨ観測所訪問だ。今日は石塚睦さんは同行しない。 高地は危険らしい。 岩石だらけの山に挟まれた峡谷を 走るうちに次第に緑が増えだし、数時間走るとついに緑に覆われた 険しい山岳地帯に。道路は対向2車線。遅い車があると追い越すのが 大変。道路の横を鉄道が走る。ただし今は貨物列車のみ だという。その代わりにバスが一杯走っている。 9時前に途中のレストランで朝食。 目玉焼きとトースト。コカ茶を始めて飲む。緑茶と似た色と味。 谷川の水の流れは激しく濁っているのが不思議。 雨が降ったばかりなのだろうか?  12時すぎについに人生最高峰の4800m地点。ここまで来ると周りの山の いたるところに雪がある。不思議なことにまだ高山病の気配なし。 そこからまた険しい山道を下る。途中、鉱山あり、不思議な地層の 見える山々あり。アンデスの山はダイナミック。きれいな川と 濁った本流の合流地点でデジカメの電源がきれる。がっかり。 しばらく走ると平坦な盆地に出る。ここが ワンカイヨがある大きな谷。風景は野辺山にそっくり。 いたるところに家畜がいる。畑はジャガイモ、とうもろこし、など。 ちなみに、ジャガイモはここ南米アンデス原産だ。 昼食後、ワンカイヨ観測所へ。エリックさん(Erick Vidal Safor)が 地磁気観測室を案内してくれる。地磁気の時間変化の生データを初めて見る。 大きな変動が見えたので磁気嵐か?と尋ねると、(赤道)エレクトロジェット だという。高緯度帯には見られない赤道帯特有の現象だという。 磁気嵐とは無関係にいつもこのような現象があるのだそうだ。 しかもそれが発見されたのが、ここのワンカイヨ観測所のデータに 基づくそうで、さらに発見者はかの有名なチャップマンだという。 そんなすごい発見がワンカイヨ観測所であったのか、ちょっと びっくり。家森さんから地磁気データ保管用のDVD機器を託されたのも 無理もない。地磁気測定器が置いてある部屋にも案内してもらう。 ただし、地磁気観測に影響が出るとまずいので、あらゆる金属は(お金も) 体からはずすという条件で許される。人工衛星機器のクリーンルーム に入るときの厳重さを思い出す。 太陽観測用シーロスタットのあった建物は火事で消失。シーロスタットは 現在アンコン観測所に置いてある。唯一、太陽Hα単色写真儀があるが、 現在リオフィルターはなく、稼動していない。これにフレアモニター(の一部) を移すという案も考えられる。 石塚さんの本来の目的のコロナグラフは1988年、 ワンカイヨから数10km離れた高地(4600m)の コスモスステーションに置かれたが、完成したのもつかのま、ゲリラに 爆破されてしまって現在はない。今回はコスモスステーション(跡) には行かなかった。 夜の宿泊はかつて石塚さんご家族が住んでいたという宿舎。 ホセさんの故郷だ。0歳から20歳まで住んでいたという。 そういう話を聞いているうちにだんだん、 悪寒がしはじめ、ついにダウン。睡眠時間の少ない生活をしているので (昨日は徹夜、今日も1時間睡眠)、カゼをひいたかと思ったが、 石塚ホセさんは高山病ではないかという。夕食に参加せず、寝ることにする。 悪寒にふるえながらも、睡眠は除々にとれるようになる。 夜中にホセさんが、「南十字星が見えますよ」といって起こしてくれる。 外に出て夜空を見ると、「αβケンタウリの上の二つ明るい星が水平に並ん でいるのが、南十字の一部」とのこと。感激。空はこの辺だけしか 晴れていない。ラッキーそのもの。そのうち残りの二つも見えるようになり ちゃんと十字の端の4つの星が見えるようになった。 一方、大マゼラン雲も初めて見た。予想以上に大きい。雲のよう。 これも大感激。 その後、再び睡眠へ。翌朝まで、全部で10時間以上寝た。 1月24日(水) 起きてすぐ、昨日買ってきてもらったインスタントラーメンを食べようと したが吐き気を催し断念。まだ高山病は続いている。インカコーラは飲める。 力を振り絞って出発。チャパカでの皆の朝食時には熱い紅茶を飲むのみ。上野君の 目玉焼き+パンがうらやましくて仕方がない。外に出ると、アンデス特有の 民族衣装をきたおばさんたちが歩いている。近くで写真を撮るのは なんとなく悪いような気がして遠くから写真を撮る。 その後、32m電波望遠鏡へ。光ファイバー時代となって不要となった 通信アンテナを国立電話局から寄付されたものだという。 これに受信機をセットすれば、ペルーで電波天文観測が初めて可能になる。 今、ホセさんはそのために運営経費集めを始めとして、 色々な準備をしているという。日本でも募金活動がある。 天文台マダム日記を見ると良いですよ、とホセさん。実は私もマダム日記の愛読者。 募金活動のことは知っていたが、うっかりしてまだ募金していなかった。 私も日本に帰ったら募金しよう。 32m電波望遠鏡は近くまで行くとデカくて圧倒的な迫力。 野辺山45m電波望遠鏡を思い出す。周波数はセンチ波帯。 電波望遠鏡のお皿の部分まで案内してもらう。 最上の階段を落ちそうになりながらお皿に顔を出すのはスリル満点。 望遠鏡からのワンカイヨ盆地の眺めは抜群。 電波望遠鏡の施設には宿泊所、食堂、研究会場など、色んなインフラが整っている。 今は無人で荒れ放題だが、来年はここで電波天文の研究会をやりたいという。 私もぜひ参加したい。 電波望遠鏡見学の後は、車でひたすら帰路。たっぷり寝たので、あまり居眠りせず。 上野君がアンデスの民族衣装を着た人の写真を撮ってほしい、というので、 車からシャッターチャンスをねらうが、ことごとく失敗。 帰りの4800mのところは、うっかりして寝てしまった。高山病のせいか? 夕方リマに着くと高山病はすっかり治っていた。午後4時30分から天野博物館見学。 ちょっと早く着いたので、おみやげ購入。博物館の人、ホセさんがいろいろ助言を してくれたので、すぐに家内の分と子供の分が買えて助かった。 家内にはアンデス風のショール。子供には、琴にはピアス、下の二人には 携帯ストラップ。ペルーのおみやげは豊富だ。 天野博物館は日本人の天野芳太郎氏が個人の趣味で集めた古代遺物などを展示した 小さな個人経営博物館。入場無料。ただし申し込み制。アルバイトのお姉さんが 元気良く説明してくれるが、私と上野君は他の日本人(ツアーの年配客)のレベル についていけていない。他の日本人はマチュピチュやクスコに行った後なのだ。 あげくの果てに織物にいたっては私の基本的知識の欠如を思い知らされる。 絞り染めとは何か? xxx織りとは何か? 日本文化も知らずに外国文化を 理解するのは不可能である。ちょっと反省。 夜、中華料理を食べながら、今回の旅行の目的である、フレアモニター望遠鏡 移設計画の今後の方針を議論。移設はイカ大学構内とすることを決定。 晴天日数や大学の意欲を買う。 ただしワンカイヨ観測所にもHαセンター観測の可能性を残す。 プロミネンス検出に都合の良い空の明るさを考慮して。 学生、院生や研究者を日本、特に京大や飛騨天文台に送り込んで教育することも 重要事項。早速、フレアモニターを移す前に二人くらい半年くらい飛騨に来てもらって 研究をしながら望遠鏡の扱い方を学んでもらおう、ということになる。 1月25日(木) またしても2時間睡眠で、地球物理学研究所(IGP)へ。石塚睦さんがわざわざ 迎えに来てくださる。研究所の建物ができたばかりで新しくきれい。 京大花山飛騨天文台よりはるかに良い環境。石塚ホセさんは昨年お父さんを 引き継いで正式職員になられたとのこと。お父さんは名誉職員だそうだ。 所長(Presidente)のRonald Woodman-Pollitt 氏に会う。電離層の研究者。 京大宇治に4ヶ月いたことがあるという。深尾さんや松本紘さんを良く ご存知とのことで話が弾む。その後、講演。イカ大学でやったのと同じ話を ベースに通訳なしの分だけ分量を増やした。その部分はフレア放射線粒子の 恐ろしさと大フレアの発生頻度の話、そこから原始星フレアへ、、、というもの。 はじめの、「家内が初めて質問してくれた話」、「電力会社が米国政府に感謝、 米国政府がNASAに感謝、、、最後に私が感謝された話」は皆さん爆笑してくれて まずまず。ただし、睡眠不足と事前に大慌てで京大天文台紹介スライドを 1枚追可したので、精神的には余裕なく焦っていた。にもかかわらず、所長さんは 何度も質問してくださり、Hugoさんも喜んでくれてよかった。 所長さんは終わってから、2005年9月x日のフレアのデータを教えてほしい、という 質問までメモに書いて持ってきた。その後、たくさんの人が記念撮影を希望して さながら撮影会。Lic Walter Guevara Day さん(ペルーのスペースエージェンシー職員) はブラジルのRaulinさんの友人という。 そういえば昨日Raulinさんからメールが来ていた。 初日のカラル遺跡にも同行した若者二人 (Adita Kuispeさん(女性)とEdwin Choque さん)が熱心に話しかけてきた。 昼食後、ホセさんにスーパーにみやげもの買いに連れて行ってもらう。 そこでお菓子類とインカコーラを購入。インカコーラはすっかり気に入り、 毎日飲んでいた。 夕方、石塚父子と柴田、上野でペルーの日本大使館へ 外務省草の根無償事業の予算陳情へ。 渡邊利夫公使と内田みどり二等書記官に説明。 大使館なるものは初めてでちょっと緊張し、連日の疲れが重なっていたこともあり、 声も良く出ず、説明が全くひどいものになってしまった。 内田みどりさんがつまらなさそうに聞いている。大失敗。 渡邊公使も、こちらの計画がまだ煮詰まっていないと言い (本当はそうではないのだけれど)、 今日は話を聞きましただけ、とのこと。 激励の言葉はなかった。 大使館はまた出直しである。 夜は石塚さんのご自宅で夕食に呼ばれる。そうめん、チラシ寿司などの和食中心。 そうめんは大好物でハッピーそのもの。滞在中にとった写真をすべてさし上げたら 喜んでいただけた。楠田枝里子さんがインタビューしに石塚さんのご自宅に来られた ときのことを色々聞く。 「楠田さんはきれいな方でね。今、柴田さんがすわっている椅子に楠田さんも すわっていたんですよ。」 実は天野博物館で楠田さんの著書を購入したのだ。 そこには「アンデスに見せられた日本人」の一人として 石塚さんのことが数ページに渡って書いてある。(ホセさんに教えてもらった。) その他石塚さんのことを書いた雑誌記事をいくつかいただく。 ようこうのX線ムービーをお見せしたら大層おもしろがっておられ、また、最新の ひのでのCaHムービー(リム)には、「私もHαでこれを見たんですよ、くやしいなあ」 と、さかんに言っておられた。 1月26日(金) 石塚父子は朝3時30分という早朝にわざわざホテルにまで車で迎えに来てくださる。 我々を空港に送るため。恐縮そのもの。ホテルのチェックアウトに30分も待たされて ますます申し訳ない。空港ではチェックインした後に別れのあいさつ。石塚睦さんに 強く握手してお礼を言った後、ホセさんに握手した時には涙があふれそうになって 声にならなかった。お礼をせいいっぱい目で述べて別れのあいさつとした。