山本一清と反射望遠鏡

 初代花山天文台台長をつとめた山本一清は、三高、京大物理、水沢緯度観測所をへて、宇宙物理学教室の助教授に就任しました。山本はザートリウス18cm屈折赤道儀に対物プリズムを取り付けて白鳥座新星の分光観測をおこなっています。1920年には、ブラッシャー10インチ反射赤道儀が導入されました。山本は古川龍城ほかと協力して天文同好会(現在の東亜天文学会)を発足させ、日本のアマチュア天文学の発展に大きな影響をあたえました。1925年に、時計台横に立派な宇宙物理学教室の新築建物が完成、山本は米国留学から帰国すると同時に教授に昇任しました。

 留学経験から、本格的な望遠鏡が必要だと感じていた山本は、その後矢継ぎ早に大型装置の導入を行いました。カルバー33cm反射赤道儀(1925)、クック30cm屈折赤道儀、アスカニア9cm子午儀(1927)、カルバー46cm反射赤道儀などなど。なかでも46cm反射は、いったん花山天文台に設置されましたが、その購入資金の不明朗会計が影響して公費購入がならず、山本自身の教授退任の遠因ともなり、退官後自らの田上天文台にひきとりました。

 この望遠鏡は日本に輸入される前には、英国のアマチュア天文学者グドエーカーが月面観測などに用いていたものでした。それを一式譲り受けたもので京都での設置には英国と日本の緯度差に対応するだけ赤道儀を傾ける必要がありました。それにしてもこれほど数奇な運命をたどった望遠鏡はほかにないでしょう。山本の私設田上天文台は、この望遠鏡ありきで日本のアマチュア天文界の聖地となり、国際的に有名な火星観測の後継者を養成しました。1957年に静岡県沼津市の三五アナナイ教・中央天文台に移設、その後岐阜市の富田学園高校に移設(この頃には赤道儀駆動系は機械式運転時計から電気モータ ーに取り換えられています)、さらにその後故あって長野県小川村の小川天文台に移されて保管されています。こうしためまぐるしい変遷の背景にある人間模様については、現在所蔵されている小川天文台の坂井義人氏が現物保存とともに記録にとどめつつあるところです。


花山天文台に設置されたカルバー46cm赤道儀("Publ. Kwasan Observatory"vol.1,no.1より引用)、 富田学園高校時代の46cm赤道儀(坂井義人氏所蔵写真)


カルバー46cm赤道儀

冨田良雄 2009年10月4日(河村聡人 2022年5月12日改訂)

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