我が良き友なる火星人
(ドナルド . パーカーとの冒険)

 カルロス・エルナンデス

近内令一譯

CMO/ISMO #433 (25 April 2015)


English



   世界が一人の稀有な才能の草分け惑星撮像者を失い、私は掛け替えのない親友を失なうことになったのは2015222日のことであり、この日ドナルド・チャールズ・パーカーが肺癌のため他界した。ドン (親しい友人たちにはモンゴで通っていた―メル・ブルックスの映画ブレージングサドルに登場するイカれた悪漢に因んで) は非常に精通した惑星天文家であり、惑星撮像分野の開拓者でもあった (当初彼は増感した銀塩フィルムを使っていたが、これは我々の導師、チャールズ F チックケイプン (19261986、ローヱル天文台) の勧めによるもので、その後CCD (電荷結合素子) 撮像法へと進んだ。ドン・パーカーは世界中の才能あふれる惑星撮像家たちを感化鼓舞する模範となり、影響を受けた撮像家は枚挙にいとまがないが、たとえばクリストファー・ゴー (フィリピン)、デミアン・ピーチ (英国)、そして宮崎 (日本)、等々。私のドンとの冒険は、私が十代で火星や他の惑星について興味を持った頃に始まった。

 


フロリダ州コーラルゲーブルズの観測室で16インチ (41) F/6 ニュートン式反射望遠鏡の横に立つドナルド C. パーカー。鏡筒上にごった返すアクセサリー群に注目。パーカー流の一例。

 

  ドナルド C. パーカーは1939128日にイリノイ州 (アメリカ合衆国) の都市アーバナに生まれ、同州のハイランドパーク市で育ち、同州ウィルメット市のロヨラアカデミー高校に進学した。ドンはセントルイス大学 (ミズーリ州、セントルイス市) で学業を続けて理学士号を取得し、続いてノースウェスタン大学 (イリノイ州、エヴァンストン市) で医学博士号を取得した。彼が、セントルイス大学で知り合って結婚した妻のモーリーン (仲間うちではモー) とともにその後フロリダ州マイアミに引っ越したのは、麻酔学のインターンと研修をジャクソン記念病院で完了させるためだった。続いてドンはマーシー病院 (フロリダ州マイアミ市) で麻酔学の実習を開始した。彼は海軍に研究潜水員として所属して生理学の研究に携わり、イルカの病理学的生態の調査も実施した。彼は総ての医学的同僚から特別に尊敬され、また総ての患者たちに深い思いやりを示した。ドンの数々の悪ふざけは伝説となっており、とりわけ手術室に仕掛けたゴムの模造嘔吐物 (もちろん滅菌消毒済み) は悪名高い。ドン・パーカーは常に他者を励まし、ときにはおちゃらけも交えて皆の精神を高揚させようと努めた。幸運にも彼と知り合いになった総ての人にパワーを与える強力な電源のような男だった。

 

  十代で私が熱心に月や惑星に取り組み始めたのは、性能のよいセレストロン8インチ (20) F/10 シュミットカセグレンを購入してからで、1975年のことだった。火星が地球との衝に達したのは197512月で (1215日衝、視直径16.2秒角)、最接近は同129 (16.55″、52,600,000マイル (84,600,000km))であった。火星面に見られたアルベドー模様の印象をスケッチに取り、それを誰か判る人に見せたくなった。友人で教師のアーサー P. スミス Jr. に私の火星スケッチについて相談し、彼は南十字天文協会 (Southern Cross Astronomical SocietySCAS1922年に創立された定評あるアマチュア天文組織) のメンバーである二人の熟練惑星観測者に火星スケッチを見せたらどうかと勧めてくれた。SCASの月例会はマイアミ科学博物館 & スペーストランジットプラネタリウム (1949年開館) で開催されていた。この月例会で私を迎えてくれたのは、一人の陽気な大男 (ドン・パーカー) と、友好的な彼の相棒 (ジェフ・ビーシュ) だった。彼らは私の火星観測に非常に感心してくれて、彼らの惑星グル―プに入るよう勧めてくれた。私がドンとジェフの弟子になれたのは非常に幸運で、なぜならば彼ら自身も教えを受けていたのは、ローヱル天文台の傑出した惑星天文学者チャールズ F チックケイプン, Jr. (19261986) であり、当時ケイプンはA.L.P.O.の火星課長で、ドンとジェフは火星課長補佐だった。チック・ケイプンはドンが才能ある惑星観測者でかつ非凡な写真撮影者/画像撮像者であること、またジェフの優れた分析力を見抜いていた。チャールズ F. ケイプンは非常に有能な惑星天文学者/観測者で、芸術家でもあり、また天体写真術の開拓者であり、惑星の眼視及び写真観測のためのフィルターの使用法を実地研究していた。チック自身が薫陶を受けたのはかのアール・カール・スライファー (18831964) である;スライファーは高名な、ローヱル天文台の惑星天文学者、惑星写真家で、とりわけ同天文台の名高いオルヴァン・クラーク24インチ (61cm) 屈折機を始めとする世界中の望遠鏡で1907年以来撮り続けた火星写真の数々は不朽の名声を保っている。E. C. スライファーが惑星天文学と惑星写真術の指導を受けたのは彼の兄のヴェスト・メルヴィン・スライファー (18751969;ローヱル天文台の副台長を経て、後に同天文台台長) からである。そのV. M. スライファーは、ローヱル天文台の創設者であるパーシヴァル・ローヱル (18551916) から惑星天文学と惑星観測法の指導を受けた。私は惑星天文学/観測分野のこれ以上ない由緒ある指導系譜を引く先輩たちに教えを受ける光栄に浴することになったわけである。

 


左から、ジェフ・ビーシュ、私、そしてチャールズ F. ケイプン, Jr.1978年、ドン・パーカーの観測所で (当時彼が使用していた非常に高性能な12.5インチ (32) F/6.5 ニュートン式反射望遠鏡)

 

  チャールズ F. ケイプンの指導のもと、我々はみな、観測所見を得て、分析的な報告ができるよう鍛えられ、惑星天文家として進歩を得た。パーカーとビーシュは1965年から1995年の間に得られた24,130件のA.L.P.O.の火星観測と画像を見直した。彼らはこの徹底的な火星の気象学的な研究によって、氷晶雲の活動や火星面の霧の発生のような離散的気象現象は、火星の北半球の春夏において、南半球の春夏の季節よりも有意に高い発現率を示すことを明らかにした。過去の天文学者たちは、火星の北極冠(NPC)の昇華縮小の進行度合や、夏の残留永久極冠の大きさについては、観測期ごとに全く、もしくはほとんど変動がないと信じていた。パーカー、ビーシュ、そしてケイプンは膨大な回数の糸線測微尺による測定を実施して、北極冠の後退縮小速度、及び夏期の最終的な残留永久北極冠の寸法が、異なる観測期に厳然と差異を示すことを証明した。1980年の北極冠は、1960年代の北極冠に比べて、火星地理学的緯度にして4度ないし6度速い縮小後退率を示した。いわゆるリマ・テヌイスは西経123度から133度の間に位置する北極冠の残滓で、1980年の観測期に小さ目の夏期の残留永久北極冠とともに見えていた(譯者註2)1984年の夏期残留永久北極冠は異常な長期間大きめのサイズで残っていて、火星北半球の春の間、三回に渡って部分的な再濃密化を繰り返した。

 


左からドン・パーカー、ジェフ・ビーシュ、私、トム・ケイブ、そしてジョン・ウェストフォール。1989年カリフォルニア州パサデナでのA.L.P.O.の総会で (多分)

 

 ドン・パーカーはまた、木星及び土星の研究においても有能であった。彼の長年に渡る非常にディテールに富んだ膨大な数の木星画像は、木星大気のダイナミックな活動を如実に示している。NASAのガリレオ探査機 (オービター:軌道周回観測機、とプローブ:大気圏突入観測機から成る) 19891018日に木星に向けて打ち上げられた。ガリレオのプローブは1995713日に本体から切り離され、1995127日についに木星大気圏に突入した;時速106,000マイル (時速170,554km) で、温度は14,000K (太陽表面温度のほとんど2,5) まで上昇し、加速度は230gに達した。プローブは木星大気中を97マイル(156)落下し、58分間に渡って観測データを発信し続けた後、153C (307F)23気圧の大気中に華と砕け散った。このとき130,000マイル (209,215km) 上空のガリレオ軌道周回機ではテープレコーダーシステムにトラブルが発生し、NASAはこのシステムを用いて地球にデータ (画像も含めて) を送り戻すリスクをおかすことをためらっていた。ハッブル宇宙望遠鏡 (HST) はその光学系を保護するため、太陽から50度角以内のいかなる天体も観測することができない設計になっている。ガリレオのプローブの突入時には木星は太陽からわずか12度角のところに位置していた。ドン・パーカーと私はグレン・オートン博士 (JPL) に依頼されてNASA/JPLを地上からの観測で支援することになった;すなわちガリレオプローブの木星大気圏突入に当たって、正確な突入地点を決定する目的であった。ドンは白昼に木星を撮像し、私はカリフォルニア州のパサデナにオートン博士と出向いて、プローブが採取するデータを逐一検討した。ドンは首尾よく木星を撮像し、我々はプローブの突入地点を判定することができた(06.6N004.4W、木星の赤道帯(EZ)の北半分にあるホットスポット(赤外波長域 (5μm) で明るく写る木星大気中の模様) の内部であった)。ガリレオプローブが明らかにしたところでは、この突入部位では、予想されていたよりも木星大気ははるかに乾燥 (水の含有量が少ない) していた。

  ドンが生涯に挙げた功績のリストアップはまだいくらでも続けられるが、それは別の機会にしよう。彼の遺族には、子供のキャスリーン (ケン・グリーンウッド)、マイケル (シェリー) そしてスザンヌ(チャド・ランドサム)、また孫のミーガン、キンバリー、ディラン、ジャスティン、ケイトリンそしてカイリーがいる。彼の信じられないほど凄い惑星画像をこの先もう見られないとはたぐい稀な才能に恵まれた撮像家で、しかも思いやりにあふれ、彼を囲む誰もが笑いに満ちていた、本物の巨人であった。永遠の安らぎに赴かれんことを、モンゴ

 

譯者註:

1ヘルナンデス氏の原稿ではhis old 8-inch (20-cm) F/7.5 Newtonianとなっているが、パーカー氏自身の執筆の自伝ではan 8inch f/8 Newtonian with a fine Cave mirrorとなっているので、本和訳ではF/8を採用した。

Six Decades of Observing Mars by Donald C. Parker, CMO/ISMO #393 25 January 2012参照

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn4/CMO393.pdf

2異論の多いリマ・テヌイスの実態 (候補) と位置の説明としては少々おかしい。永久北極冠の離れ小島イエルネあたりと混同しているのであろうか。




日本語版ファサードに戻る / 『火星通信』シリーズ3の頁に戻る