中 島  孝 氏の手記 (4)

 

高瀬川、朝な夕な

〜予備校時代から小倉へ〜

(記憶力や判断力に日々霞がかかってくる季節に備えて)

 

CMO #463 (10 November 2017)


17

,8歳までの福井の地は、私にとって、芯の欠けた鉛筆で描いたスケッチのようだった。かつての外地、朝鮮・韓国での彩り豊かな幼年時代前期とその後半の、真逆の明日の見えない逃亡生活は、自分自身を人ごとのようにみる習性を自らに被せてしまっていたようだ。おのれを動物園で檻越しに獣を見るような立場に置かせてきたきらいがある。自分のことがひとごとだった。自らの立ち位置の認識を曖昧にして生きてきたのだろうか。私の日本語がそもそも怪しかった。外地から引き上げてきた多くの家族の中には子供を内地に馴染ませるため1〜2年遅らせて就学させたケースもあった。私の級友にも一人二人はいた。私の場合もそうすべきだったのかもしれない。戦後はまだ方言が主力の時代で、一般社会の意思疎通の言語は土地のなまり・スラングだった。「ぼくは...」「きみは...」では全然相手にされなかった。「まいどーオ」を「こんにちわ/ごめんください」と学習したのは数年後だった。しかし自分から発話したことは今も無い。

 

   殺伐な世相だったが子供たちにとっては悲劇的なことではなかった。むしろ毎日が底抜けにたのしかった。方言Slangができればの話だったが。価値観が引っくり返って教師たちは、師範卒の教員はなおさら、自分が与えられた軍国主義を拠り所にするしかなかった。鉄拳制裁をしながら「軍隊では当たり前のことだ」と嘯いた。あるとき家庭調査のような書類を提出するとき父親の学歴の欄に、小・中・高・大にマルをつける際迷ったので担任に伺ったところしばらく逡巡して小学卒でいいだろうとこたえた。教員が大卒の時代になっていたが担任の言うとおりだと思った。旧制の金澤高専出身の私の担任などは、軍隊に関係なくものごとの境界線を心得ていた。しかし、手が先に出る担任の個性的な癖は知っていて寧ろ私たち生徒はそれを肯定していた。犯罪行為的ないじめとは全く違って師弟関係や先輩後輩の関係では“絆”を作り上げていくスピリットであると言いたいくらいだ。教師から生徒、あるいは先輩から後輩生徒への鉄拳制裁はパブリックスクール的精神だろう。英国紳士ジェントルマンの真骨頂である。それを逸脱すると新聞記事になることがあったが。

 

   乾徳高校を卒業し、地元の福井大学に入学手続を親が勝手に済ませた後だったが、県外での浪人生活を親に無理強いして認めてもらって、自分なりの分(意地)を通した。高校三年生の一年は、家族内トラブルの狂気に巻き込まれて、母方の叔父たちの相談に応えることが日常的にあった。事態は極めてリアルだった。何時だったか近所にモード誌から抜け出てきたよう人影を眼にしたことがあった。我が家と関係があるようだった。受験勉強どころではなかった。家を出たかった。福井から離れたかった。父の偏執は朝鮮半島の時と今回の二回目であった。長男を亡くす前後が根元ではないかと思ったこともある。私には、長子として家族の行方の三叉路に立った場合、決断しなくてはならない勤めがあったようだ。妹たちは5〜6歳年下で相談相手ではなかった。朝鮮半島時代からの夫婦関係の不気味さを識った。

 

   京都は学生の街だけあって下宿(朝夕食付賄いで月額五千円)が手頃、などの理由で京都行きを決行した。その分、経済的に妹たちには負担をかけてしまった。当時の父の収入だけでは子供三人の進学経費には無理があった。田中角栄首相の前までは教員の給料は一般の公務員におよばなかった。そのカラクリを報道などでは明かさなかった。宅浪するか都会の予備校に行くか、 級友と話し合ったこともあったが私の方針は一貫していた。級友たちの話題にのぼらない学校を選び、予備校から離れた国鉄京都駅の近くの九条内浜に下宿先を決めた。後から知ったことだが当時級友のかなりの人達が浪人したようだ。地元の大学を馬鹿にする風潮が私の高校の教員の中にあったようだ。その影響を受けた級友もいたということか、愚かしいことだった。下宿の近所は靴を作る職人さんが多く住み、朝から道具で靴をたたく音が絶え間なかった。後から知ったことだが、長崎xxxのように。トンカチの背景に合わせる様にラジオから流行歌が終日流れていた。表に出ると高瀬川だった。近隣の三十三間堂が散策コースのなかにあった。殆ど手入れをしていないような、むき出しの古色蒼然とした仏像が無造作に並んでいるかまたは倒れていた。戦後をなお映していた。通りすがりながら自分の精神的境遇に似つかわしく思えた。ちぐはぐな自分がそこにいた。

 

       私の通う近畿予備校は同志社大学のちょっと北にあり、車内での立つ位置によって冷泉家が車窓に入った。隣どうしだが瀟洒なレンガ造りの同志社大の建物とは対称的な古(いにしえ)の佇まいが気にいった。気持ちが馴染む風景だった。ほっとした。もうひとつあった。市電の四条河原町経由の路線の車窓が私の好みだっ。七月になって私の通学先がその本校から京大の傍の分校に変更になった。路線も変わった。短くなった。路上では京大の学生と一緒になることも多く、一年後の自分を重ねることは容易だった。予備校の講師たちも講義中なにかにつけわれわれをそのように仕向ける傾向があった。桑原武夫らが多分出版社などからの差し向けられた大型の外車で正門を悠々と出て行くワン・カットを眼にすることもあった。車中の様子を垣間見て、読書の欲が萎えた。夏季休暇前、父は模擬テストなどの状況を伺いに上洛した。医学博士と刷られた名刺をもらい予備校の理事長(校長)から、金沢なら医学部は大丈夫です、と告げられて父は舞い上がった。私には何の感慨もなかった。

 

   通学路に市立図書館があり、そこで下車するような日課を自らつくった。開館まで一時間くらい入り口で待ち、独りの貴重なひと時を過ごすことが出来た。下宿先は木炭などの燃料を扱う販売経営店で戦前は撮影所などを顧客に持って羽振りが良かったそうだ。戦後は燃料事情も変わってしまった。はじめは私一人だったが何時の間にか狭い二階に私の他に二名の学生が加わった。その一人が同志社大の院生だった。下宿のおばさんと院生さんとの関係が悪化して、双方からの愚痴を聞かざるを得なくなった。もう一人は福井の同級生で別の予備校を選んでいた。いわゆる標準語が使えなくて苦労していたようだ。私は予備校を市立図書館に鞍替えした。キッパリと。図書館内は閲覧者の数に関係なく独特の静謐さがあった。平安神宮が近くだった。受験に対する考えが急速に変化していった。京都のとくしゅな気風だと自嘲してみた。あすの自分よりもきょうの自分にのめり込みたかった、が、そんなことは現実にはなかった。一年前の気分を、やはり引きずっていたようだ。文学()に溺死するようなおもいでのめり込んだ。夏季休暇に帰省し、買って読むことは憚れたので、お泉水コートに隣接していた福井県立図書館に通い、文学関係の書を読み漁った。森鷗外(高瀬舟)、夏目漱石(三四郎)、万葉集、芥川龍之介、大岡昇平、小林秀雄、中原中也、太宰治(津軽など)、遠藤周作(沈黙)、小泉八雲(むじな、雪女)、ドストエフスキー(地下生活者の手記)J.J.ルソー(告白録)、アルチュール・ランボオ、シェクスピア(悲劇と詩)、ヴァンゴッホの書簡(読書の順は不同)などを小倉に遊ぶ時代も読み続けた。理数科目には興味を既に失っていた。

 

   博多に叔母一家が住んでいたので翌年の居場所は福岡くらいをぼんやり考えていた。戦後、ソウル(京城)から引き上げて小父一家は叔母の郷里四ケ浦に一時的に滞在していたが福岡(商科)大学の兄弟の伝手で博多に一家は転住する。その小父が福岡大学に勤務し、東京出張の折福井に立ち寄ることがあり交誼があったので進学先についてのアドバイスなどを受けたりリサーチをお願いしたりした。小倉の下宿先も世話して頂いた。小父は元彦根藩士の家系で、息子の名前に彦の字を入れている所以である。

 

   京都の晩秋、わが身を孤舟に喩え、枯葉舞う高瀬川に沿って散策したりすることを夕べの日課にした。古の高瀬川と目の前の川とでは趣が全く違っていたようだ。明日という希望の定まらない日々だった。それでも福井の生活よりもましだった。自分には故里は無いのではないかと想ったりした。中也や太宰には身をまかせる懐かしい土地があった。アルチュールのようにエトランゼとして不毛の砂漠をゆくのか。中也に関わった富永太郎が訪れたかもしれない古本屋に立ち寄ったりした。そして秋、私にとって一寸した事件の起こった季節で、ヴァン・ゴッホ展が日本に上陸した。ヴァンゴッホに関しての知識は多少はあったが知識にすぎない乏しさを知らされた。最初は、天体観測上の一年先輩の京大生南政次氏に連れられて、二回目は独りで堪能した。弟テオとの書簡交流はひとつの優れたマスターピースであろう。故郷や仏蘭西でのヴィンセントの「人間大好き」の真摯さが、ひとに真反対の効果を与えることを悔しく思い憐憫の情を抱いた。南氏には名曲喫茶に誘われて古典を堪能する機会が時たまあって心やすめることができた。楽しかった。三月の末、小倉に向け京都駅を出発の夜、南氏が見送ってくださった際、西国に落ちるんだな、と囁いた。エトランゼになるのか、と覚悟した。下宿の小母さんも涙で見送ってくださった。本当は、ここ京都にいたかったのではないか。夜行列車「玄海」は10時間ほどかけて小倉に着いた。この夜行列車「玄海」は小倉時代四年間のおなじみさんになった。往復とも大抵夜出て朝着くので途中の経過駅の印象は殆ど無い。帰省の記憶は二度ほどしかない。

 

       戦後、旧海軍将校たちの有志で立ち上げた小倉外事専門学校が北九州外国語大学に昇格し、当時は主要貿易港としてたいへん栄えていた門司を中心に関門五市が将来人口が百万を超す仮称北九州市になることを当てにして改編した北九州大学外国語学部に入学した。現在の北九州市立大学である。全国有数の工業地帯で、風向きによっては一日中煤煙で目や喉を痛めた。人情にささくれだったところもあった。付き合って見ると、しかし、表面的な荒っぽさと裏腹にきめの細かい人情味を有していた。火野葦平や岩下俊作の描くところである。大学は旧軍の兵舎か倉庫を転用したようなバラック群だった。隣の自衛隊小倉駐屯部のほうが瀟洒で大学訪問の人々に間違えられたようだった。博多の小父は、弁当つきの三食で月五千五百円の下宿希望の家を見付けてくれた。家主は小倉署の元公安刑事だった。シソウ犯と云うことばを耳にしたことがある。私と歳がひとつ違いの従兄弟豊彦がいて福岡大学の学生になった。同じフレシュマン(大学一年)であったので博多〜小倉(福井〜金沢くらいか)をよく行き来し泊まったりしたものだ。西日本では福岡大学のことを福大と呼び面食らった覚えがある。講義に使用の英文法の教科書が福井大学(福大)の全国的に著名な二人の英文学者の共著であった。これには魂げてしまった。戦時中戦火を避けて奥さんの郷里福井に疎開して、住み着いてしまったという話だった。

 

     下宿の近くの標高598米の高射砲台の跡のある足立山(霧ガ岳)によく登り、一続きに繋がったような燻った下関、門司、小倉、若松、八幡の五市をシネマスコープのように眺望でき神戸のような感じだった。登山というより散歩コースだった。イロハ坂風に定められた通路を行くのではなく麓から垂直に頂に崖を這い登った。樹木の少ない山並みだった。崖登りをしながら外国語学部に入ったのだから将来貿易関係の仕事に就き、トランク提げて東南アジアなどを回るのか、自分らしくないなと逡巡した。初夏、山が真っ青の頃だった。年に何回かこのような好天気の日がある。霧ガ岳の頂である日、此処小倉で学生生活をおくる覚悟を固めた。これで四年間は福井を離れられると確信した。 休暇中はなるべく帰省せずバイトに専念することとした。帰省のときは東京〜鹿児島間の長距離鈍行だった。京都駅のホームで浴びるほど水道水を飲んだ覚えがある。飲まず食わずの帰省だった。

 

   心理学関係のクラブに入り、友人関係をつくることができた。途中しばらく部を離れた時があったが、四年間楽しい思い出をつくることが出来た。その心理学研究部を休んでいた時期に新たに入部したのが山岳部で、そこで急速に仲良くなった大分県出身の学生と活動の無いときなど芝生で秋の日が暮れてもよく語り合ったものだった。九重の山々が宿泊を兼ねた練習場だった。一般向きの登山道を外し登山靴や地下足袋を履いて参加した。その冬、部の年間行事で日本アルプスの冬山登山の準備に入ったが、装備など金銭的に十分出来ないので私は参加しなかった。一月下旬か二月初頭、北九州大学山学部の北アルプスでの全員遭難のニュースが全国を駆け巡った。無理してでも参加しておれば....と空しい思いに駆られることがよくあった。嗚呼。ジュニア(大学三年)だったが入部5ヶ月の新人だったので何も出来ずにほとんど誰も居ない山岳部を去った。シニア(大学四年)たちとの人間関係が拗れ心理学研究部を出た(出された)経緯を知っていたのか山岳部の部員は皆親切にしてくれた。何も言わないのが山男たちだなと思った。シニアたちが卒業して心理学研究部から再び迎い入れられた。いまはむかし、山岳部の部室に人影はもう見えなかった。以後その前に近づかなくなった。

 

     多少の危険は伴うが給料が良いので家庭教師以外のバイトもした。清掃関係の仕事でサニタリー会社と名乗っていた。庁舎や工場のトイレなどを清掃する仕事で薬品を使うので許可証を所持している者に助手のような立場で附きしたがった。ガラス拭き専従の人もいてその人につくことになった。工場は玄界灘に沿ったところが多く、冬から春にかけての海風は痛かった。両手の指の爪が全部とれてしまった。白面の寡黙でおとなしそうな三十代のスリムな男性で「学生さん、学生さん」と丁寧に接してくれたが、身のこなしや眼光にここに来るまでの生業を想像できた。映画の高倉健のようだった。指に血が滲んでいるのに気づかれて海側はさせないように気遣ってくれた。ポツリポツリと話し合うようになって世間から身を離そうとしていることを感じた。作業中鼻歌交じりに口ずさんでいたのが母の大好きだった「湖畔の宿」と「君恋し」だった。ウマが合った。昭和の初め頃のはやり歌だったのでは。ある時、世のなかに出たらいいアニキさんになれるわ、と言ってくれた。なぜか実際とは違って危険手当のついた高額な給料を支給されて職場を去った。

 

      成就感らしき気持ちを抱いたときがあった。秋のある日、私の担当教授の斡旋で、家庭教師を引き受け半年間、中学3年生の受験英語を手伝った。その教授からW.サロイアンを学んだ。American Englishを使っての流暢な米英語と流麗な日本語の講義が印象的であった。サロイアンは亡国のアルメニアを故国とする一家の長男だった。小説では加州に住むラックヴァグラムが主人公で、それをテキストにした講義だった。当時の私はまだ高校入試科目のほとんど全部をアドヴァイス出来た。本人のやる気満々の精進で小倉高校に合格し、自宅でのちょっとした夕食に招かれ、息子が私のビールのお相手をしてくれた。両親が時々ビールを持って勺をしに部屋に入ってくるだけだった。飲酒年齢に少し早いのではと懸念したが、両親がついているので黙っていた。合格発表の翌日二人で霧ガ岳の野辺にて櫻爛漫(はならんまん)の中を逍遙した。将来のことを語ったりした。北陸から九州になぜやってきたのか疑問を投げかけてきた。この問いは本人の生涯に亙るような生きることへの問題になるよう、実は前々から自分に問い続けていた命題だった。受験と全く縁の切れた時と場だったので思いをこめて対話した。高揚感に包まれたひと時だった。二月下旬の頃だった。福井では、桜の見頃は四月のはじめだ。好く懐いてくれて夜中まで受験勉強にお付き合いして、終電の済んだ後、徒歩で一時間かけて寒空のもと帰宿したものだ。経済的に潤っているとは思えなかったので、英語以外の謝礼は辞退した。小説や映画などで知っているあの旧制小倉中学校だ。それもうれしかった。教師に少しは向いているかと身を振り返った。

                                                 (了)

 

 (1 May 2017起稿 ・・・30 July 2017 脱稿・・・15Aug2018 一部改稿)


日本語版ファサードに戻る / 『火星通信』シリーズ3の頁に戻る