論 攷

 思い出すままに

政次

CMO/ISMO #464 (25 December 2017)


English

        英文ページでは、Forthcoming Mars in 2018. II 8 APPENDIX にあります。



愈々南半球の黄雲の季節にはいるわけだが、私(Mn)の經験を思い出せる範囲で述べてみよう。私の出会った黄雲は1956年の後に名高くなったλ=250Ls發生の黄雲だが、當時私は黄雲の何かについては殆ど知らなかったのである。火星は1952年に花山豪(19372017)氏などがスケッチをしていたのに対し、私は望遠鏡で覗くこと以上には許されていなかったし、1954年には180枚のスケッチを得たが、この年は顕著な黄雲が出ていない。また1954年に発行された誠文堂新光社の小冊子『火星』は手頃な手引き書であったが、黄雲記述はいまひもどいても単なる一般論で劇的なことは何も書いていない。書けるとしたら當時執筆者佐伯恆夫氏(當時38)か村山定男氏(當時29)であったろうが、彼らにも劇的な黄雲の經験は無かったのである。黄雲と言えばせいぜいアントニアヂの1911年頃の展開図で、そういうこともあるかという程度のインパクトしかなかった。

前哨戦はあったのだが、1956820日にあの黄雲は日本から多くの人によって捉えられた。最も印象的に語られたのは上野の村山氏の場合で、当日は上野の明鏡20cm屈折による δ23.4"の火星像をはじめてTV像に落とすという作業が行われたのであるが、その作業中に、技師が真中に見える明るいものは何ですかと問うたらしい。それで案内していた村山氏がはじめて気がついたということであったらしい。

この黄雲は、他に花山の宮本正太郎氏などの観測があり、以後の宮本氏が定年まで火星観測に打ち込む動機になったであろうと思う。一方、大阪の佐伯恆夫氏は、その直前のアルギュレ黄雲の追跡で疲れて、この日は観測を休んだのであった。この経緯については1971年になって『天文ガイド』7月号臨時増刊p16-17で世紀の大黄雲を見落としたと懺悔しておられる。

私と言えば、矢張り殘念ながらまだ火星像全体に眼が届くというまでに成長しておらず、一所懸命に南極冠周邊を見続けていたのであった。それは季節的にこの頃ノウュス・モンスが南極冠から独立し出す時期であると擦り込まれていてそれをひたすら追っていたわけである。2003年に同じ季節に同じ角度から沖縄の宮崎氏の40cm鏡で拝見することが出來たが南極冠周邊は1956年当時の15cm屈折で苦労したのとは比べようもないほどの見事さであった。1956年当時は所謂黄雲が出ていてもどの様に追跡するかの技量もない状態であったのである。福井では明るい斑點のように見えていたという紀録はあるが、棍棒状とは判らず数日後になって擴がりが捉えられるという有様でしかなかった。

 

1971年の大接近にはλ=260Ls に大型の黄雲が22Septあたりに発生したが、これは日本からは見えなかった、ばかりでなく、27Septまでは京都の宇宙物理で観測していたものの28Septには北海道へ出発、30Septには物理学会で札幌にいた。3Octには知床へ足を伸ばし、夜火星の輝きを見ている。函館に戻ったのは7Octで、福井を経由して京都に戻ったのは10Oct、既に 黄雲の影響が日本から見えるようになっていて、11Octは曇りであったが、この日に黄雲のことをはじめて知った。多分、宇宙物理のKさんからの電話で、彼は可成り前から私を求めて何度も勤務先に電話をしていたようである。帰って初めての観測は12Octになったから、相当遅い。連日観測の宮本氏の觀測帳によると27Sept ω=119Wで夕方の縁が大きく黄雲で覆われているのがわかるし、29Septにはω=085W104W120W131W152Whour-to-hourの観測が成されている。未だ強い發達があるように見える。近内令一氏にも同日ω=118W でのスケッチが見られる。未だδ18.2"で、λ=264Lsであった。私は 29Septには愚かにも札幌に向かう汽車の中であった。

私は自分の望遠鏡を持たない所爲でもあるが 1973年にも似た經験をしている。1973年は17Octが最接近日でδ=21.5"の大きさであった。この年にはλ=300Lsでソリス・ラクス近くで大きな黄塵が起こっている。このときの物理学会は新潟で行われた。帰りに私は金沢に黒田壽二氏を訪ねて一泊した。福井と金沢は2時間とは離れていないのだが、後から考えると寄り道厳禁であった。15Octに金沢から帰って直ぐに中島孝氏のお迎えを頂いて山に登ったのであるが、火星を導入して直ぐにソリス・ラクスを覆って黄雲が出ていると直感した。この日は数枚しかスケッチしなかったが、これは発生して餘り日が経っていないと思えたので、中島氏に直ぐ『福井新聞』に電話するように言ったと思う。私はお客でつとめが京都だから、私の名は出さないように念を押したが、とにかく中島氏のスケッチが新聞に出たのは確かに覚えている。ただ、その日であったとは思えない。彼がスケッチを整理する必要があったから、数日は遅れたかも知れないが、他にそういうニュースは無かったと思う。もう一つ記憶が定かでないのは、その日かどうか、実は火星の一般公開日があって、私は公開を手伝うふりをしてちょくちょく望遠鏡を覗いていた。16Octもいい眺めであった。黄雲が二股に分かれてマイルドな形態であった。数日福井で粘ったが、ソリス・ラクスが見えなくなるまでは居残ったと思う。私はこのときのスケッチを見て、一時間置きのスケッチは比較には不向きで、40分おきが正解だということに気付いたと思う。同じ中央子午線經度のスケッチを並べるのが必要だと気付いたからである。

 

1986年と1988年には臺灣に出張し、40分ごとの観測を繰り返したが、両年とも目立った黄雲は現れなかった。最終的にこの40分ごと観測で良い結果が得られたのは2003年であった。このときは沖縄で晴天に恵まれ、下図のように、3Julyから10Julyまで8日に亙って同じ箇所を観察した。また衝前であったが(28Augが衝)、ほぼ毎夜8枚のスケッチを得ることが出來た。

右の図は、その中からω=336W40分後のω=346W付近を切り出して並べてある。4Julyにはマレ・セルペンティス付近から北へシヌス・サバエウスを分断していた黄雲が、翌日には南のノアキス方面へ発展していき、連日姿を変えていった様子と、その後にはマレ・セルペンティス付近の濃化して幅広くなっている様子が捉えられている。

 

 

 





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