追 悼
南先生、安らかに
日岐 敏明
(箕輪町、長野県)
この度、南 政次先生がお亡くなりになったとのご連絡をいただきました。心よりお悔やみ申し上げます。
私は、1984年に火星観測に復帰した際に、佐伯恒夫先生よりご紹介いただいて、南先生のご指導を受けることになりました。当時、「火星通信」を立ち上げる直前でした。
価値ある観測とはどのようになすべきか・・・私が学んだのはこの事に尽きます。先生は、この頃から一回の接近に千枚前後の猛烈な密度の観測を続けられ、その精神力は並外れたものでありました。また、スケッチの的確さは驚くべきものでした。私は、南先生の火星観測に対する業績は、OAAにおいても、もっと評価されなくてはならないと思います。しかし、先生はそのようなことは気にもせず、ひたすらに観測研究に取り組まれたのでしょう。
福井や沖縄での共同観測、私の地元上伊那でのCMOミーティング、ローエル研究、その折々に先生の観測にかける情熱と、私たちメンバーへの厳しさと優しさがよみがえってきます。
残念ながら、私は義務教育教員の職務と平行して質的にも量的にも満足できる観測を続行することがどうしてもできず、これ以上中途半端な観測を報告しても迷惑になるのではと判断し、観測の続行を断念しました。南先生には、本当に申し訳ない思いが消えません。それでも、私のことを気にかけてくださり、私が火星観測を降りた後、星空案内の仕事をしていることを、好意的に受け止めてくださいました。
南先生の長期にわたる火星観測と観測者へのご指導に、深い感謝と尊敬の念を表したいと思います。ありがとうございました。ごゆっくり、安らかにお休みください。
合 掌
(2月21日 来信)
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南 政次さんを偲んで
阿久津 富夫 (常陸太田市、茨城県)
南 政次さんは優れた「火星観測」の眼視観測者であり、多くの観測と知識と持った方で、観測ではとても厳しい人でした。観測の鉄人でしたが、普段は気さくな人柄で当時は電話で長く話をしていました。南さんと言えば火星観測=「火星通信」ですが、その優れた英語文章で火星観測情報を世界中に発信し続けた南さんの功績はとても偉大と思っています。ありがとうございます。
私が南さんの「火星通信」の観測で知り合ったのは木星観測の浅田 正さんからの紹介でした。1986年後半だと思います。もう30年以上の前のことですが、私は既に25cm反射望遠鏡で火星も撮っており、入会してから「火星通信」のバックナンバーを送ってもらいました。当時はフィルムで撮影、現像、プリントの作業の繰り返しで、今ではイメージ悪い火星像ばかりでしたが、「火星通信」の編集締め切りに合わせるために、詰めた作業の繰り返しでした。火星観測のシーズンに入ると「火星通信」は月二回の発行となり、めっぽう忙しくなりましたが、南さんは火星観測と「火星通信」の発行の同時作業をしていました。その超人的な情熱は「凄い」の一言です。南さんが一時、講師出張で台湾へ滞在されていた時は観測写真を国際便で送りましたが、台湾まで配達日数が読めずイライラでした。その後、社内の台湾旅行で台北を訪れた時は南さんから紹介状を頂いて夜に台北天文台を訪問し、南さんが観測に使っていた五藤光学の25cm屈折を拝見しました。
また南さんとの関わりではCMO
MEETING「火星観測者会議」への参加です。1回目の1987年、沖縄金環日食後に開かれ、初めて南さんとお会い致しました。その後、私のCMO
MEETING参加は計9回、多くの火星観測者に会い、情報を得、得難い集まりとなりました。地元福井市での開催の時は、三国の自宅を訪問し、何度か泊めていただきました。そんな夜は明け方まで話しを聞いており、南さんと浅田さん、宮崎さん、熊森さん達との会話は火星観測と雑談を混じえて楽しいひと時でした。
私が南さんと最後にお会いしたのは社内旅行で加賀市山中温泉に宿泊した2010年の秋、旅館まで南さんと奥さんと中島さんが車で会いに来てくれました。僅か一時間位の会話で失礼しましたが、御夫婦共々ニコニコと喜んでホッとしました。
(2月28日 受信)
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思い出
伊舎堂 弘 (那覇市、沖縄県)
「火星通信」との出会いは1986年に宮崎氏から紹介を頂き、火星について初心者の私は恐る恐る読み始めたのがきっかけでした。一番印象に残っていることは2003年の大接近のとき南先生が沖縄に来られ、その時に大黄雲と遭遇出来たことです。約一ヶ月間滞在され、その間多少の欠測はあったはずですが、黄雲発生から連続で継続観測が成されたことでした。
当時はマンスリーマンションの九階屋上に湧川氏自作の25cm反射望遠鏡を設置し観測されていましたが、滞在中のある日の昼間、突風で簡易的に私が作った囲いが飛ばされたと急遽連絡があり慌てて駆けつけました。南先生は囲いが飛ばされ地上に落下するのではないかと御心配をされたそうで、その時南先生は顔面蒼白になっており、お体が心配でしたがその後回復されたのでほっとした事が思い出されます。ご迷惑をおかけした事を申し訳なく思っています。
その後は湧川氏の手助けで足場に使う鉄パイプで観測場所の囲いを作り直し、引き続き観測を継続されました。また台風の接近はあったものの観測にはそれほど影響がなかったことも幸いでした。南先生の滞在中は天候にも恵まれ曇っていても欠測が少なく、特に大黄雲の発生を細かく追跡できたのは本当に幸運でした。南先生の火星黄雲観測において生涯で一番のスケッチを得ることが出来たのではないかと思っています。この事は、長年にわたり火星を観測し貢献されたことに対する天からのご褒美だったように私には思えてなりません。
「火星通信」から訃報のご連絡をいただいた時は非常に残念に思い大きな喪失感を禁じ得ませんでした。
御逝去に対し心よりご冥福をお祈り申し上げます。
(3月1日 受信)
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南先生のご逝去に寄せて
岩崎 徹 (北九州市、福岡県)
私は、「火星通信」の発行開始前からのメンバーで、思い出やエピソードは枚挙にいとまがないほどあります。
福井市自然史博物館の付属天文台に、南先生をはじめ、中島先生、西田さんたちと泊まり込みで観測を行なったことが、懐かしく思い出されます。しかし、せっかくですので、最初に南先生に直接お目にかかった時のエピソードから始めましょう。
1984年接近後のシーズンオフに、高速バスで大阪まで行って、南先生からご紹介いただき、当時の東亜天文学会・火星課長の佐伯恒夫先生にお会いすることができました。三人は、世代も観測経験も違っていましたが、日本のような(沖縄を除く)気流状態のよろしくない観測地で、眼視でスケッチをとるためのベストな望遠鏡とは、どのようなものか、という点では、見事に意見の一致を見ました。「F=15のアクロマートで構わないから、30cm屈折を使うことができれば、理想的」というものでした。
1988年接近のシーズン当初。冬の夜明け前の火星に、21cm反射望遠鏡を向けました。火星はまだ視直径5秒角台で、視野の中の像は完全に沸騰状態。表面模様など、まったく見えません。そのような日が何日も続いたので、思い余って南先生に電話で“泣き”を入れました。すると先生から例の口調で、「一瞬止まるだろ。その瞬間を記憶して、描けばいいんだよ。20分の観測時間のうち、模様が見えている瞬間瞬間をつなぎ合わせても、せいぜい2、3秒だよ。」と返され、絶句するしかありませんでした。
南先生は、火星観測の鬼であられ、「鬼才」という称号を冠するのに、最もふさわしい観測家であったと思っています。1シーズンのスケッチ数1,000枚超の記録は、今後も破られることはないでしょう。
まさに「巨星墜つ」です。
(3月4日 受信)