追 悼 


 恩師、南先生

西田 昭徳 (あわら市、福井県)

 

南先生の奥様より訃報の連絡を受けたときには、あまりにも突然のことでしたので本当に驚きました。先生との出会いは、私が大学生の時に撮影した大接近中の火星が天文ガイドに入選し、それをご覧になった先生から連絡をいただいたことから始まります。

その後、私の就職先が先生のご自宅に近かったこともあり、『火星通信』のお手伝いをするようになりました。当時の私は「きれいな天体写真」を撮影することが目的でしたので、自分が撮影した画像の意味などは全くわかりませんでした。『火星通信』の編集作業を通して先生から火星観測の意義・方法を少しずつ学ばせていただきました。

そもそも私が天体に興味を持ったのは小学生の時に読んだ「火星への道」という書籍がきっかけでしたので、火星観測者の南先生との出会いには不思議な縁も感じていました。先生は情報も速く、当初は撮影機材もフィルムでしたが、その後ビデオカメラ、冷却CCDWEBカメラと変わってきていました。その時々に「最近はこんな機材が出てきているようだ」とヒントをいただきました。書き出すときりがありませんが、先生に「観測」について学ばせていただき、今では少しでも科学的な観測をしたいと思うようになってきました。火星についてまだまだ教えていただきたいと思っていましたので、本当に残念でなりません。

ご冥福をお祈りいたします。

(35 受信)

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南先生に教わったこと

                             村上昌己 (横浜市、神奈川県)

 

 1986年創刊の『火星通信』と初めて出会ったのは、1990年の夏のことであった。 購読していた「天界」誌上で連絡先を見つけて、1988年に撮影した火星写真を同封して手紙を差し上げたのが始まりである。中島 孝氏、浅田 正氏から相次いでお返事をいただき、後に南先生より長文のお便りをいただいた。そこには、40分インターバル観測と連続観測が勧められていた。

はじめは何のことか判らなかったが、連日同じ時刻に、40分インターバルで連続観測をすると、同じ火星面経度(ω)が翌日も観測できることが納得できた。このようにして複数回の観測を連日続けると、前日までの観測と同じωが何回か観測できて、並べて比べることが出来るわけである。数日観測を続けると正確には、ωがずれてしまうが、このようにして、同じωの観測を連日比較して、並べて変化を見つける事が主眼であった。相棒がいれば20分交替で続けて観測をするというものである。南先生が中島先生とのコンビで足羽山の望遠鏡で何年も続けてきた観測方法である。

 これは、それまで時間に余裕のあるときに漫然と観測していた態度を改めさせられるものであった。この、はじめに教えていただいた事に、大いに納得して自分でも観測に取り入れた。また眼視観測時には腰を下ろした安定した姿勢が大切であること、もちろん体調の管理にも気を配ることを教えていただいた。仕事を持つ身には観測時間の勘案はなかなか難しいのだが、職業柄、他人に縛られることがない有り難い境遇だったこともあり、大いに観測に励むことが出来た。数年は10cmの屈折望遠鏡でのTP写真をお送りしていたが、小接近を控えてスケッチ観測へと切り替えた。15cm苗村鏡の反射経緯台を使用しての観測だった。

  次には火星暦の値の意味と活用法を教えていただいた。火星は地球と同じく自転軸が傾いていて、南北半球で季節の交代があり、両極には冬に形成されるドライアイス等からなる極冠の季節による消長が見られること。また季節変化により薄い大気成分が移動して、含まれる水蒸気により発生する雲があり、それと火星の高山との間に起きる現象の季節変化があることなど、火星の観測は季節を追っての気象観測であることが理解できた。

 次に、クローバルな火星観測者の連携が必要であることを教えていただいた。経度の違う世界各地の観測者が連携して時間を追って火星面を追跡する事が出来れば、火星面の全面を連続して観測することが可能になる。このために、南先生は『火星通信』の発行を計画して、1986年から現在まで続けられていたということである。

 以前にも国外で同様な試みはあったが長続きしなかった。『火星通信』も当初は紙媒体で国内外に郵送という形態を取っていたが、近年のコンピューター通信の発展により、ウエッブページ版へと移行していった。情報や画像のやりとりも電子メールでおこなえるようになり、グローバルな情報が速やかに集まるようになって、火星面の現状が判るようになっていった。火星探査衛星の情報と共に地上からの観測がどの様に結びつくかが明らかになっていった。また以前の観測がどの様な現象を捉えていたのかも類推できるようになり、ますます火星面現象の理解が深まることが期待できる様になった。

 先鞭を付けた南先生のような火星面観測者・研究者は、もう現れないように思えるが、これからも同様のスタンスで活動を続けて行くことは重要に思える。

 

 最初に南先生にお会いできたのは、1994年夏の東亜天文学会の福井での年次大会が開催されたときであった。中島先生共々、大会の世話役でお忙がしいなか、「第四回惑星観測者懇談会」に集まった多くの同人を三国の自宅へ宿泊させていただいて、奥様にも大変お世話になったことを覚えている。おそろいのロゴ入りTシャツ集団が、他の参加者からは異様に見えたのではないかと思われる。

  その後も機会あるたびに惑星観測者懇談会は開催されて、地元の福井のみならず、2000年・横浜、2001年・沖縄、2002年・伊那、2004年・穴水と各地で開催され、往事の思い出は尽ない。このような折にはお手伝いをして集会開催のノウハウを教えていただいた。

19966月には、次第に利用が活発になってきたインターネット、電子メールの利用者も増え、『火星通信』もホームページでの情報発信を考えて、私が担当をすることとなった。報告画像もフィルム写真からデジタルカメラ画像への変遷期で、電子メールでのやりとりで格段に情報交換のスピードが早くなっていった。

 2003年夏には火星はまれに見る大接近となり、先生は2001年に次いで沖縄へ渡り長期観測出張となって、連日の晴天に大きな火星を十分堪能された。また200510月にはアメリカ西海岸のリック天文台へ観測訪問をされた、折から起きた黄雲の観測に世界中の観測者に向けメッセージを発信して、グローバルに観測が繋がったことを大変喜ばれていた。

 

 その後も精力的に観測を続けられていたが、20123月には体調不良となって、4月に自宅で倒れられてパーキンソン氏病との診断が出た。リハビリの結果、数ヶ月後には執筆活動に戻ることが出来るようになり、『火星通信』は、紙媒体での発行は止まったが、PDF版でウェッブページでの発表となっていった。このような時期にウェッブマスターとして、お手伝いできたことは、世界各地の情報をいち早く知ることが出来る立場になり、観測にも励みが出た。

 このようにして、先生は体調が整わないまま『火星通信』記事の執筆を続けて、機会があれば足羽山へ登って観測をされていたという。今回2018年の接近も条件の良い大接近で、福井市自然史博物館の特別館長の吉澤康暢氏の御協力で一緒に観測をされたという。先生の見た大接近は、1956年、1971年、1988年、2003年、2018年と五回にも及び、観測者としての最長レコードではないかと思われる。1956年は、ノアキスに発生した黄雲をわが国で捉える事が出来た年で、高校生であった先生が足羽山の望遠鏡で重大な観測をしたことが、「火星とその観測」佐伯恒夫著 (恒星社厚生閣 1968-) に記録されている。

 

 先生は火星観測に関して、40分インターバル観測法の考案をして実践され、多くのスケッチを残された。観測をもとにされての火星面事象の考察も根拠のある論旨で納得できるものであった。

これまでの活動は『火星通信』紙上でつぶさに顧みることが出来るが、今後、先生のような火星観測者・解析者は現れることはないと思われ、大変残念なことである。

安らかに、お休みされることをお祈りしている。

 

 火星観測者として著名な、パーシヴァル・ローヱルの日本での能登への旅行記「Noto」に興味を示されたのはいつのことだったであろうか、ローヱルの足跡を辿って、親不知、立山、伊那谷、能登半島の各地を巡られている。私も立山あたりの探訪の時には御一緒した。ローヱルが、佐々成政の故事で知られるザラ峠越えの踏破計画を立てて、常願寺川沿いに立山温泉まで辿った記述があったからであった。時雨模様の11月のことで北陸の天気は不安定で、先生の運転で芦峅寺近くまで登ると雪が降り出して来て、あわてて引き返した。その後はローヱルも辿ったであろう富山湾沿いの道まで出て、高速道路に戻り三国への帰路についた。

 ピカリ現象の時に懇意となった、天文史家ウイリアム・シーハン氏の来日は、2004年の穴水での集まりの時であった。ローヱルの能登への旅の最終点は穴水であり開催地に選ばれた訳である。来日直後には、先生と浅田正氏はシーハン氏と行動を共にされ、長崎の東亜天文学会の年次総会に出席されたり、各地の金星日面経過観測遺構を廻られたりして、浅田氏の車で穴水まで入られた。この時は「日本ローヱル協会」等と共催の集会で、大がかりなものであった。富山・石川の天文関係者や金沢工業大学の宿泊施設にも大変お世話になった。

 また、2009年に屋久島へ皆既日食を見物しにいったときには御一緒して雨に降られた。たびたび上京したときには、お供をしてあちこちを御案内した。ピカリ現象の観測者の一人、福井静夫氏の横浜のお宅を訪ねたときには、季節はずれに早い桜が満開だった。浅草から墨堤の桜並木も一緒に歩いた。芝の愛宕山下の村山定男氏の所に訪問した際には、神谷町駅から下る道で素馨(ソケイ)の花の匂っていたのが思い出される。

 飲酒癖があり、時間にもいい加減な私を苦々しく思われていたこともある事と思うが、足羽山での観測を終えて三国の御自宅に戻ると、「もうピールを飲んでいいぞ」と、優しく勧めてくださった。

 


20095月 村山定男氏宅にて

 


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