ローヱル天文台のパットナム文書センターは、日本の著名な火星観測者で火星のダストストーム研究の世界的な大家である南 政次博士が、個人的に集積されてきた膨大な観測集の寄贈を謹んでお受けすると発表した。南博士の令夫人 南 知子氏によって寄贈の意向が明らかにされたこれらの観測記録は、これからの火星研究者の大きなよりどころになるものであり、20世紀初頭のA・E・ダグラスやパーシバル・ローヱルの先駆的研究に始まる火星のダストストームについてのローヱル天文台のデータベースを建て増し拡充する貴重な資料である。
南 政次博士(1939-2019)の経歴についての概略
南 政次は1939年 (歴代の火星の大接近の年のひとつであった)1月2日に日本の福井県福井市に生まれた。1954年まだ高校生だった彼と盟友の中島孝は、福井市立自然史博物館の天文台で15cm屈折望遠鏡鏡を使って初めて火星観測を行なった (この器械は1985年以降 20cm F/12屈折機に交替された)。福井市街や周辺の平野の美景を眼下に収める小高い足羽山 (あすわやま: 382ft/116.8m) の頂に1952年に建設されたこの天文台で、南と中島は殆どの火星接近期の観測に概ね60年を超える歳月を共に過ごしてきた。
1954年の火星接近期が日本の総ての火星観測者に特別な年として讃えられているのは、佐伯恒夫がその年の7月1日にエドム岬に閃光現象を観測したことによる。1956年、南と中島の生涯にわたる火星面の現象についての強い関心は8月に劇的な規模で出現したダストストームによって決定的なものとなった。1956年のダストストームはそれまで見られたものとは全く違った規模で荒れ狂い (それ以降での1971年、1973年や2018年のダストストーム現象がライバルとなったが)、永年観測されてきた暗色模様の濃度の変化の理由についての多くの天文学者の見解を変えてしまった。パーシバル・ローヱルの時代から、一般に考えられていた火星上の植生の変化によって暗色模様が経年変化するという見解に替わって考えられたのが、最初ミシガン大学の天文学者デイーン・B・マックローリンによって提唱された、火星のストームが地形を次々と変化させていくという見解であり、これはその後徐々に支持を得始めた。マックローリンは強風によって巻き上げられたダストによる効果でこの変化を説明しようとした。かれの説明を受け入れたのが有名なアメリカの惑星天文学者、当時ヤーキスに所属していた G・P・カイパーだった。この見解は何年もかけて随分洗練されて行って、基本的には間違いが無いことが証明された。
南 政次は京都大学で素粒子物理学のPh.D.博士号を取得するため研究・研鑽し、1966年から京大の数理解析研究所の職に就いたが、火星は彼の残りの生涯を通して最大の没頭対象であり続けた。彼が火星接近の時期に利するため休暇の取り方も不利にならないよう前もって入念に計画した結果、福井の天文台では長期の継続した観測期間を維持することが出来たが、それだけでなく、例えば1986年の場合、火星が赤道から遠く南方に離れた時、より良いシーイング状態を求めて沖縄と台湾において長期滞在を遂行した。台湾の大学では特別の講座を担当して現地の新聞紙上でも紹介され話題になった。1986年のもう一つの話題として、彼は長年東亜天文学会OAAの会員であったが、火星課会報“Communications in Mars Observations”すなわちCMO『火星通信』を立ち上げ、ほとんど英語を使って刊行した。火星接近の年は月2回発刊で(衝と衝の間の年には月刊で)予測される事象や観測について、日本国内や世界中の観測者への専門的な分析などを織り込んだ解説を載せた。初めの32年間は印刷発行を続け、興味のある人には誰にでも印刷冊子で郵送した。最近は郵送料の値上がりのため電子版のみで発刊するようになり、南が新たに設立した共存組織であるthe International Society of the Mars Observers (ISMO 国際火星観測者協会)からの発行という形となった。
(ISMOの顧問会を構成するのは傑出した火星観測者であるアメリカの故ドナルド・C・パーカー、フランスのクリストフ・ペリエ そして日本の同僚仲間の浅田正、近内令一らであった。編集部は浅田、村上昌己、中島、西田昭徳で構成されていた。しかしながらバックで強力な指導力を発揮してきたのは明らかに南政次だった。)
火星の観測やその解釈についてのストレートなレポート作成に加えて、南には少々ルネサンスの万能型教養人的なところがあって、文学、芸術、歴史、そして政治に対する鋭敏な興味を持ち、しばしば自身の誌面で論争を焚きつけることを好んだ。このためには高度の英語の読解力が必要だし、また彼が身に着けた自制心や日本的な礼儀正しさに隠されて明瞭でないことも多いが、強烈に発達したユーモアセンスの持ち主だった。
かつて彼はイギリスの多作だがしばしばポカをやらかす著名な天文啓蒙作家であった“二人の”パトリック・ムーアについて論じたことがある。ひとりは1973年に火星で全球的なダストストームが起こるだろうと述べ、同時にもう一人はそんな事はあり得ないと述べた。(別々の出版会社の雑誌だったが。南は”二枚舌か”と嘲笑した。)
南は、ローヱル天文台の故レオナード・J・マーチンと共に火星のダストストームを追跡していた最後の古典的火星観測者のひとりだった。(古典的、すなわち私の見解では、宇宙船からではなく望遠鏡を通して火星を観測する人を指す。)南は鋭敏な視覚の芸術家であり、火星表面の模様や大気中のどんな些細な変化も見逃さない注意力と能力を持っていた。彼は、少なくとも地球上からの観測での解像度レベルでは、大規模なダストストームの中核部分は火星での一日の間には変化を見せないと主張し、これは当時としては重要な洞察であった。ようやくこの見解が修正されたのは、2018年になってからで、少なくともいくつかのケースで地球からの高解像度画像が、一火星日の内でのダストのコアの変化を検出した。
彼はまた、(ローヱル天文台のE・C・スライファーによって初めて提唱された) あの有名なブルー・クリアリングが、実は大気現象ではなく、火星の地表に起因する何らかの効果だろうという彼独自の考え方を主張し続けて反対意見を退け、ブルー・クリアリングなる現象がそれほど興味をそそられるものでもないし、エキゾチックな現象でもないということを明らかにした。1990年代に進歩した撮像技法の成果をもとに南が最初に指摘した大気の効果は、所謂バイオレット・ホールだった。これらの“ホール”は紫色光では薄暗い斑点又は筋に見え、水蒸気が局所的に上空に無い地域が周囲の水蒸気層に覆われた地域に比べて低い反射能を呈し、その地域は総合光では、露出した地肌を反映して強い赤色を帯びて見えた。これは南自身の言葉では「ワインレッド」地帯だった。そのようなワインレッド地域のいくつかが2005年に初期のダスト雲と関連して観測され、それらの小さなダスト雲は後に南方でその年の地域的なストームに発達していくのだった。(そのとき、南は偶々リック天文台に滞在中で観測できた。) このワインレッド現象はその後、火星が接近する毎に毎回観測されてきた。
もう一つの、南の火星の関心事は火星面の所謂フレア現象である。なぜなら、歴史的に最も有名なフレア現象の多くは日本の観測者によって観測されたからである。佐伯は1951年12月にTithonius Lacusに明るい閃光を見て世界的な注目を浴びた。(当時それは火星人による原子爆弾の爆発かという見解さえあった!) 一方佐伯は1954年7月1日に1951年の閃光部よりは面積は大きいが輝度が低い光輝を、エドム岬 (現在はスキァパレリ・クレーターとして知られている。) に視認した。
南と私自身の緊密な友情が実際に始まったのは2001年のことで、この年もう一人のアメリカ人の同僚トマス・ドビンズと共に、私はこの年の6月7日頃に、もう一度閃光がエドム岬で起こると予報した。その記事はSky & Telescope誌上に掲載された。そして閃光はドビンズ、ドン・パーカー、他にフロリダ・キーズの住人を加えたチームによって実際に観測され、画像に記録されるという成功を収めた。このような劇的な形で日本の観測者の活動が確認されて南は悦んでくれた。
また、南が寛大にも指名してくれて、パーカー、 ドビンズと私シーハンは東洋人以外で初のOAAのゴールドメダルを授与されることになった。2004年の長崎でのOAAの年次総会には、私の二人の仲間は都合がつかなくて私だけが出席できた。本人自らの受賞で暖かく迎入れられた事は初めて経験する慶事であり、当日切っての名士のような気分になった。 (と言うのも何だか分からないが、そこにいた誰もが私と一緒の写真を撮りたがっていたから! )
またこれも2004年のことだったが、私は南が火星のダストストームについての研究に加えて、パーシバル・ローヱルの日本滞在に関しても世界をリードするエキスパートの一人であることを知った。長崎のOAA総会が終わると直ぐに南は、かつて1889年の5月にローヱルが辿った能登半島への旅路を、ローヱルの著書Noto (1891年発刊) の記述通りに、南と浅田正と私が再行脚できるように綿密な計画を立てた。
実際の道中で驚いたことに、彼が訪れた記録のある場所を辿る道のりに沿って、ローヱル街道の道標となる小景を多数見つけることができ、百年余り此の方さして変化しなかったであろう眼前に次々と繰り広げられる旅路の風景を、彼がいかに正確に記述していたかを目の当たりにできた。
日本滞在で受けた南の心温まる歓待にお返しするため、私はリック天文台の友人のレム・ストン、トニ・ミスク、そしてロリ・ハッチの協力を得て、2005年11月の火星の衝の機会にハミルトン山のリック天文台を訪問する南のスケジュール立てを援助した。この訪問は恙無くとは行かず、南とイギリスからのある訪問者との間に人格上の不一致が起こった。結局二人はお互いを忌避せねばならなかった。しかし南は,“ハミルトン山のひよこ”さながら昼間は誰にも会うことなく地下の個人用の寮に引き籠もっていたが、夜間の活動によって、かの偉大な屈折望遠鏡でいくつかの素晴らしい観測結果を何とか得ることができた。一例は、彼がこの接近で初めて使った特徴的な表現の“ワイン色の薄暗い地区”の検出とともに、後に地域的なダストストームに発達していった初期段階のダストの活動を観測できたことである。(ああしかし、ダストストームが完全に発達したのは彼が日本に戻ってからのことであり、帰国後、彼は中島と共に福井の屈折鏡を使って“Wine dark areas”を綿密な監視下に置くことになった。)
2009年9月、国際火星観測者協会 (ISMO) とフランス天文協会の共催によりパリ天文台とムードン天文台を会場に開催された会議に参加した南と会ったのが今生の別れとなった。この会合 (IWCMO : The International Workshop on one Century of Mars Observations
/ 近代的火星観測百周年紀念国際ワークショップ ) の機会が持たれた理由は、ある朧に霞んだ神話とも思える特別な一夜 (1909年9月20日) の百周年を祝うためであり、まさしくその夜にE・M・アントニアジはムードン天文台で、アンリ兄弟製の大屈折望遠鏡を使って、あたかも、かの赤い惑星の衛星のひとつから眺めたかのような、恐ろしく鮮鋭な火星像を目の当たりにしたのである。そして目にした有様を記すところでは:“この惑星….その広大な表面積を覆いつくした信じがたい量の微細構造は望遠鏡の視野で微動だにせず、総て人工的な不自然さはなく天然の理にかなっていて、入り組んで変化に富み、すなわち幾何学的な細線模様 (人工的運河!) については、そのかけらもないことが明白だった。”と。この日を境に、それ以前の人工的運河の細線模様に覆われた前近代的な火星観が払拭され始めた記念すべき夜であった。この会議ではアントニアジに関する講演や、火星観測の色々な方面についての多くの発表がなされた。とりわけ南の発表した“日本における火星観測の歴史”は、これまでほとんど知られていなかった題材について詳細に検討するという点で際立って価値の高い講演であった。彼がその中で示した興味深い事柄のひとつは、日本の火星観測者たちに最も大きな影響を与えたのは誰もが予想するであろうパーシバル・ローヱルではなく、W・H・ピッカリングであって、前途有望だった悲劇的な人物、中村 要に対するピッカリングの影響が、中村を通して後続の日本の火星観測者たちに強い影響を及ぼしたという内容だった。
南は既に当時からパーキンソン病、高血圧や心房細動を含む種々の病気に罹っていたので、我々がしばしば語り合ってきたローヱル天文台を訪れたいという南の永年胸に抱いてきた夢を実現することはもう難しいだろうと、その時私は悟った。それにもかかわらず彼は強い心と勇気をもって、2016年5月の衝の前後を通して福井の地から火星の観測を続け、また残り時間を使い果たすような骨の折れるCMOの編集業務 (村上昌己と共同で) を 2018年5月25日まで続行し、この日CMOの最新号、そして多分間違いなく最終号となる#469号が発刊された。それを悼む打ち上げ花火の如く、その発行と時を同じくして火星面に新しいダストストームが出現し、このダストストームは火星上で最も強烈で最も長く生き延びたものになった (そして、最もダスト塗れの地域の一つで休んでいたオポチュニティ火星上探査機の太陽光発電パネルを遮蔽して息の根を止めた)。このようなダストストームの猛烈な発達にもかかわらずCMOが一切発刊されなくなったことは、それ以前の病の初期においても、南がいかに力を振り絞ってCMOの編集、発刊を進めていたか、そして病の進行に伴って短期の発刊中断を余儀なくされるようになり、ついに休刊に至るほど健康状態が著しく悪化して行ったことを如実に示している。この恐ろしく興味深いダスト活動の時期に全く観測できないことに彼の心は張り裂けたに違いない。 (中島は糖尿病で天文台への階段を登れなかった; かくして彼らの火星の共同観測は同時に終焉を迎えた。)
去る11月南 政次先生は、福井県三国町緑が丘の自宅で転倒して両手に腫れができ、整形外科医は回復するだろうと診断したが、そうはならなかった。1月に再度自宅にて倒れて救急車で入院したが、集中治療室に入って13日後、間質性肺炎で息を引き取った。2019年1月28日、知子夫人と二人の御子息とその家族を残されて先生は先立たれた。
覚え書き: わたしは彼をローヱル天文台訪問にお連れできなかったことに、心からの遺憾を表明する者です。しかし、南 政次博士はご自分の観測記録が、ここに保存されることをたいへん喜んでくださることでしょう。
Note:著者は南 知子夫人、浅田 正博士に加えてリチャードJ.McKim 博士にご教示いただいたことに深甚なる謝意を表します。
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(N.B.) 尚、シーハン氏は天文学史関係の名高い著作者です。翻訳全般について校閲等のご援助を戴いた、近内令一氏と『火星通信』編集者の村上氏とに深く謝意を表します。 (中島記)