LAI #212

Letters to the Editor


from Wu Yang LAI in CMO #212

●・・・・・お伝えくださった西田さんのご教示に従い、ツールをクリック、そしてオプションをクリックしたところ、大規模な設定表が出てきました。こいつはオレの手に負えんと投げ出したくなりましたが、ふと目に止まったのはHTML形式が選択されてあることです。よって選択をテキスト形式に変更し、其の他には手をつけずに設定表を閉じました。これで西田さんの指示どおりにしたつもりです。そしてこのメールを書き始めました。HTML形式とは何ぞや、テキスト形式とは何ぞや、参考書を見ると、後者は文字だけの文書という意味らしいが、前者については何のことやら私にわからないことが書いてあります。・・・・・
 日本語には「ありますか?」と言うべきところを「ありませんか?」と言うくせがあって、このほうが婉曲で丁寧とされています。「如何なものであろうか」も婉曲丁寧にするための言いまわしなのですね。台湾語では、質問の形で言うほうが婉曲丁寧になる場合があります。日本語で「この前貸した1000円を返してくれないか」というところを、台湾語では「この前貸した1000円をいつ返してくれるか」のように言うのですが、日本語に直訳するとこのとおり、詰問のような感じで、友情にひびがはいりかねません。ところで、日本語の「返してくれないか」を英語に直訳するとたいへん感じがわるくなるのではないでしょうか。
 質問形にすると婉曲丁寧になることは、日本語にもあります。例えば「返してくれないか」も「如何なものであろうか」も質問形です。
 明治三十年以前正岡子規が俳句革新を始めたころ、および三十年以後短歌革新に乗り出したころ、子規と相手側との攻防戦は、論旨が明確で、なにを言っているのかはっきりしていて、百年後の現在読んでも爽快です。しかし明治末期から大正時代にかけて、文学、芸術、哲学の言いまわしかたがわかりにくくなりました。その傾向は今に続いています。戦後よく見かける「しかし、だからと言って」という言葉なども、考えがまとまらないうちに言い出したのだと思います。・・・・・

 八月の日食は私も行く気がありますが、娘か息子がついて行ってくれないと不便です。日食が近づけば、台湾の旅行社もツアーを作るでしょう。私は手の指の退化性関節炎のほかに、腰椎にも退化が起こって、すこしばかり腰が痛いので、あまり長距離は歩けません。と言っても、用事があれば1日に2〜3kmは今でも歩いています。横綱曙はまだ30歳なのに、腰の故障は私よりもひどいらしいですね。私は今でも相撲ぐらいは取れます。もうひとつの問題は、私はどうやら雲男らしく、何でも雲に妨げられます。天気男の正反対です。数年前のハワイ日食や、1941年の台湾北海岸の日食は、皆既を濃雲に妨げられました。少年時代から鉄道の東海道線に何回も搭乗し、富士山が見えるはずのところでは窓にしがみついていましたが、いつでも雲しか見えませんでした。日本の日食ファンよ、頼武揚が行く場所は避けたほうがいいですよ。
 私の健康法について、ご質問がありましたが、まあ歩くことですね。相撲を取ってもいいと思いますが、相手がありません。

(11二1999 email)

○・・・・・・先ほどメールを差し上げましたが、書き忘れたことがありました。
 CMO211は二月7日か、またはその前の日に着きました。ありがとうございます。「その前の日」はちょっと寒かったので、終日部屋に閉じこもって、一階の郵便箱を見に行かず、7日になって取ってきたのです。7日か8日にインターネットを開いてみたところ、私は211を開いた第二名でした。「お気に入り」にMARS(OAA)を登録してあります。

 台湾に寒波が押し寄せてくると、ここから北5kmの淡水の町が真っ先に鋭鋒をうけて、平地としては台湾で最低の温度になります。今冬に入ってからの淡水の最低気温は5.1℃で、その日は二月4日(の早朝)でした。私の住んでいる部屋ではまだ20℃を切ったことがありませんが、それでも寒く感じます。台湾に来ると誰でも寒がり屋になるものです。以前にプラネタリウムの組み立てにきた五藤光学の職員たちは、十二月になると、寒い寒いと言っていました。暖房がないことと、台湾の建物は概して通風がよいためです。
 私の経験では台北の冬は一月1日から三月15日までです。十二月はまだ秋です。

(11二1999 email)

○・・・・・・・舊正月(二月16日)のメールをありがとうございます。まだご返事しないうちに、新聞切り抜きをFaxでいただき、恐縮しました。
 現在共産党政府統治下の中国で、旧暦はどのような扱いを受けているのか知りませんが、国民党の政府は成立当時(民国元年、その年はちょうど大正元年です)からグレゴリオ暦を国暦と定めて、旧暦に対しては禁止的な政策を取り、旧暦を編纂、頒布する者を処罰する法令があったそうです。しかし民衆の旧暦への執着には勝てず、二次大戦後禁令を廃止しましたが、公式には新暦のみを認める方針に変わりはなく、旧暦は民間で勝手に使われている暦ということになています。
 台湾人は旧暦に執着していませんが、旧正月に対する執着は強く、まだ一世代や二世代では消えそうもありません。旧正月に興味を持たない台湾人は、私の知る限りでは頼武揚だけです。物故された呉建堂さんや、弱身ながら健在の俳句の先生黄靈芝さんも旧正月に熱心です。私は偏屈者と見なされたくないから、世間の習慣に適当に調子を合わせています。それにしても南さんのメールに返事を差し上げるには知識が足りなくて困りました。五月五日の端午節も台湾では旧暦でやります。三月三日の桃の節句は、たぶん日本だけのものでしょう。台湾や中国にはないようです。中秋の祝いはさすがの日本も新暦でやることができないので、一年のうちでこの日だけ旧暦が日本でも生きていますね。七月七日の七夕祭りも台湾では旧暦でやりますが、どこかで軽い行事があるだけです。・・・・・・
 むかし電灯がなかった時代には、月の満ち欠けと出没時間とを常に頭に置かないと、生活に支障を起こすおそれがありました。だから太陰暦が必要でした。今はどこでも光害でいっぱいですから、人間の夜間活動は、月が出るかどうかを考える必要がなくなりました。

 Faxでいただいた新聞の切り抜きで、私の曾っての同級生李登輝総統が西田哲学を勉強していたことを知りました。私の父の本棚には『善の研究』がありましたが、私は一頁と読みつづける根気がありませんでした。父も、有名な本なので買ったが全然読めなかったと言っていました。『善の研究』のなかには「絶対矛盾的自己統一」という超難解語があるそうで、戦前の日本ではこの語がわかった者だけがインテリの資格を認められていたらしい。・・・・思い出しましたが、中学生時代の蔡章献さんも西田哲学を気にして、「あれは唯物論なのだろうか、それとも唯心論なのだろうか」と頗る高尚な関心を示しました。
 斎藤茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」は短歌の先生の間では評判がよいようです。私もこの一首は大歌人の貫禄を見せた歌だと思います。ただこの歌にはじめて出会ったときから「たつまでに」が私にはなじめませんでした。普通には「たつほどに」と言うのではないでしょうか。茂吉は山形県の出身ですが、その地方のことばでは「までに」が普通なのかもしれません。
 圓の替え字円、舊の替え字旧、戦前は略字と言っていましたが、今でも略字と言いますか。略字の中には現在台湾では通じなくなったものがあります。円と旧とは、絶対に通じなくなりました。臺の略字としての台、體の略字としての体は台湾でも大いに使われていますが。・・・・

(20二1999 email)

頼 武 揚 (Wu Yang LAI 臺灣 Taiwan)    laiwy@tpts5.seed.net.tw
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