佐伯恒夫氏Tsuneo SAHEKI in 1954 &

福井実信氏Sanenobu FUKUI in 1958


 

I. エドムのピカリ現象  

2001年の觀測で私(Mn)が最も吃驚したのは、黄雲ではなく、エドムの閃光が豫言と準備のもとに具體的に捉えられたことである。これは「事件」に近い。これについては、先ずドン・パーカー(DPk)さんの7 Marchemail (CMO#241 p2949, Tom Dobbins has reviewed the 1950's transient flash observations of Messers Saheki, Tanabe, and Fukui and has proposed that these short-lived brightenings resulted from solar reflections on low-lying ice crystals. We and some of the folks from Sky and Telescope are mounting an "expedition" to the Florida Keys to monitor the planet continuously for about a week. Could you pass this information on to the OAA ? It would be most interesting to be able to reproduce Saheki's observations!・・・)があり、次がS&T五月號p115のトム・ドッビンズ(TDb)さんとビル・シーハン(WSh)さんの"The Martian-Flares Mystery"の原稿本體、そしてDPkさんからの7 Juneの觀測成功の第一報(#245 p3016I am pleased to report that after two uneventful nights of observing our team here in the Florida Keys detected significant brightness fluctuations over Edom between 06:40 and 07:30 UT on 7 June, 2001 UTD.・・・・)、この企画の仕掛け人のTDbさんからの8 Juneemail (#245 p3020It must be very gratifying that any lingering doubts about the validity of the observations by your countrymen must now be abandoned・・・)等がこの間の事情を傳えている。アレヨアレヨという感じであった。私はこのことについて何の働きもしなかったのであるが、WShさんからも初めて次のようなemailを貰って恐縮した。

 

●・・・・・ Hope you will forgive the intrusion -- I know you are very busy, but I wanted to pass along my greetings and to thank you for the interest in the Edom flare top which Tom Dobbins and I were able to call the advance attention of the astronomical world, and which Tom and his team of observers were able to verify successfully from the Florida Keys. It was also a great thrill to see the observations of Saheki and other leading Japanese observers confirmed ・・・・ This is a region that will repay close study and I'm not sure even now that we understand it.

  I have the greatest respect and admiration for your wonderful work on Mars and that of your colleagues at the OAA. It will be a privilege if we have the opportunity to meet up sometime. ・・・

   (242001 email)

     

 彼等の觀測概要は#246CMO Mars Report #10に要約してある(p302526)。この件に關して、私が吃驚したのは、日本人でも忘れていることを適切にTDbさんとWShさんがこの時期に持ち出せたことが第一點、第二はその推論から豫言がなされ、DPkさん等が腰を上げ、萬全の準備をしたこと、第三が、豫想が實に見事に的中したことである。第一點に關してはTDb氏が日本の觀測が"regarded with undue skepticism in many quarters and all too often relegated to the fringe"と書いている(CMO#245 p3020)通りであろう。海外のレポートなど見れば分かるが、ALPOBAAも含めて日本に關するものには追從の個人技以外通常あまり好意的ではない。特にピカリ現象など我が邦の觀測者は少なくとも佐伯恒夫氏の著書を通じて一應は識っていて、敬意を拂っている。然し、通常海外では問題にされていなかったと思う。實際にはTsuneo SAHEKI氏のS&T14 (1955) 144の記事(1937年の前田氏の觀測から佐伯の1954年のエドム觀測迄)と、J ALPO 16 (1962) 264 (1958年の觀測)の紹介が在る(The Moon and the PlanetsいうW R CORLISSのカタログによる。この文獻については佐藤健さんから先日ご教示を受けたばかりである)のであるが、そこはドッビンズ氏の言う通りの筈である。ただ、これらの記事がご兩人の記憶にあったのは、ご兩人の特別な資質に依ると考えた方がよい。例えばビーシュさんの主宰するemail-listがヤフーにあるが、六月上旬ころEdom Brighteningについては一件を除き關心が見られない。これは直ぐ後の大黄雲發生後も緊張感がなく、日本の觀測について肯定的な言及がないのと同斷である。ALPO-Webのレポートを見てもエドムの話の纏めは無いと思う。第二點はだから、一寸意外である。事情は好く分からないが、遠征に參加したデーヴ・ムーア(DMr)氏の今年(2002)一月のemail(#256 p3247)に一年前にDPkさんとTDbさんの家で會ったとあるから、半年前に會合して相談している事になる。TDb氏はオハイオだから、フロリダからもアリゾナからも遠い、だから、會合そのものが大層であったと思う。どの様に説得、納得したのであろうか、尤も、多分會合の前には既に決まっていたことかも知れない。方法の相談等が必要であったのかも知れない。

 納得があるとすれば、要は次のようなことであろうと思う。先ず、フレアは太陽の何らかの「反射」と納得する。そのモデルは1958年の觀測である。何故なら、この年はDeDsが一致する頃とフレアの觀測が一致しているからである(#242 Coming (10))。このDeDsの一致が、2001年はエドムの處で起きること、それがフロリダの經度で見られることなどが確認事項である。S&Tの表から抽出すると

 

            GMT         De       Ds

    7 June    7:04        1.7N     2.5N

    8 June    8:17        1.9        2.3

    9 June    8:53        2.1        2.1

   10 June    9:29        2.2        1.8

 

となっている。第三に吃驚するのは、これだけで彼等は5 Juneから無駄に開始し、引き續き6 Juneも失敗するのであるが、7 June8 Juneに検出に成功するのである。寧ろ9 Juneは駄目であったから、De=Dsからややずれるのであるが、まずまず、ピカリは反射であるという假説が正しかったということであろう。然し、二日の徒勞にも隊員がめげなかったというのも凄いことである。DPk氏のカリスマか。

 餘談であるが、DPk氏から私に宛てた速報にはCcが附いていたのであるが、それを受けたビー・エー・エーの某M氏が、「反射」など珍しいことではない、拙者はいついつこういうあぁいうことを言っている、というようなREメールがあった由で、これはDPk氏からでなく、呆れたTDb氏から内緒のこととして通知を受けた。詰まらないことだが、こういう手合いにはとてもじゃないが、この「事件」に吃驚も出來ないだろうし、日本の觀測をテメイ達の觀測の補足として以外採り上げないだろうと思ったものである。人種が違うのでしょうな。

 然し、反射そのものに關して上の企畫には危ういことがあったのである。それは、De=Dsが輝點の緯度でなくても、(De+Ds)/2の位置でも好いわけである。このことは先のS&Tにも書かれているのであるが、豫報にはその値は採らなかった譯で、もし後者を採ると可能性はぐんと増えてしまい、一寸絞ることが出來なかったかも知れないのである。つまり、De=Dsであった積極的な理由が「反射」だけでは見つからないのである。更に、反射媒體が水面のようなものでなく、傾斜が可能であれば、可能性は無限に出て來て、話は全く擴散する。7 Juneは奇跡であったのか? このことは後のTDb氏を酷く惱ませた様で、いろいろ計算を重ねたりして衰弱氣味になり、一寸氣の毒なほどであった。幸か不幸か黄雲が發生し、「反射」どころではなくなったが爲に話は延期されている譯である。これは2003年に持ち越されるか、もう機會を逸しているか、その話題はこれからだろうと思う。

 

 

 

TDb氏やDPk氏、DMr氏達が觀測したエドムは佐伯さんのエドムと違うことは注意しておく。佐伯氏の場合はDe=Dsではないからである。Almanacで佐伯氏の1 July 1954De=2NDs=3Sであった。然し、Almanac1984年頃を境にプリンシプルが換えられているから、その爲に、上の値はup-to-dateでないようで、ビーシュ氏のWimpに依れば、De=0.5NDs=5.1Sだそうで、差は開く(TDb氏のemail)。現象の違いもある。佐伯氏は五秒ほど一回のみの觀測であったようであるが、フロリダ・キーズでは三秒間ぐらいの閃光が十秒から十五秒おきに何度も起こっている。佐伯氏の觀測の載った『天界』355(1954-910)の表紙と表紙裏口繪を紹介する。このオリジナルは後に著書に入れられ圖と調子が若干違うことを注意しておく。尚、佐伯氏と同時に田阪一郎氏も觀測されていたようだが、氣附かなかった様で、佐伯さんは不服口であったが、五秒間では致し方がないであろう。佐伯氏は13:15GMT(ここでは13:17GMTとなっている)の觀測であったが、筆者の觀測帖に據れば筆者も同日13:35から14:16GMTまで觀測していて、ギョッとしたが、時刻がはずれているのは幸としたい。とても當時の筆者(高校一年)では自信がないからである。このときのスケッチは『天文年鑑』2001年版に出ているものである。

(Mn)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

II. 福井實信さんにインタビュー 

  前半に示されたように佐伯氏のエドムのピカリは必ずしも「反射」を暗示するものではなかったのですから、フロリダ遠征隊の行動を誘ったものは1958年の福井実信(Sanenobu FUKUI)さん達の観測がヒントになっていると思われます。福井氏は10 Nov 1958 15:05 GMTにソリス・ラクスの北側に一分ばかり光斑を観測していますが、当時のAlmanac

 

        De        Ds

15 Nov 1958  13.30S    13.64S  

17 Nov 1958   13.67S    13.26S  

 

でしたから、De=Dsに近かったのです。ビーシュ氏のWimpで、西田 昭徳氏に調べて貰ったところ

 

15 Nov 1958   12.3S     12.7S 

17 Nov 1958   12.7S     12.3S   

 

となっていて、10Novは次のようです:

 

10 Nov 1958   11.3S     13.7S   

11 Nov 1958   11.5S     13.5S

 

2002年のエドムの場合よりやや開いているかという程度です。(AlmanacWimpとの違いはLsで可成り出ていて、これは問題ですが、ここでは話題にしない。) 當時、視直徑は19秒ほどでした。

 福井實信さんは佐伯さんと同い齢で、1916年生まれ、今年(2002)八十六歳、震災後まで神戸にお住まいでしたが、おからだをこわされて、現在は横浜の緑区のお嬢さんのお家に身を寄せられておいでです(このことは長谷川一郎さんから伺いました)。われわれ(Mn & Mk)はあらかじめ福井さんと連絡を取り、ビーシュ氏にお会いした翌日の三月25日の午前、TsさんとNs氏のCMO編集部四人で、十日市場に福井さんをお訪ねすることができました。「十日市場」は鎌倉と西上州を結ぶ鎌倉古街道沿いの江戸期から知られた地名で、われわれ四名はJR横浜線十日市場駅で待ち合わせ、バスで桜並木の綺麗な大通りを上ってお宅に伺いました。大通りから少し入った少し高台の日当たりの好い位置にお宅(谷口さん)はありました。

 福井さんは幾らか入退院も繰り返されたようですが、お元気そうで、好く語られました。Mnは未だお元気なときに何度かお会いしていますし、MkNs氏は福井での1994年のOAA総会でお見掛けしています。お宅ではお嬢さんやお孫さんに接待していただきました。

 ただ、福井さんの1958年観測当時の資料は神戸に置かれているそうで、拝見できませんでしたが、重要な証言も得られましたし、25cm反射の写真を頂戴しましたので掲載します。架台部は当時はもう少し簡単であったようです。福井さんは少し遠い過去を手繰るようなところもありましたが、この閃光は白い光であったこと、ただ突然現れ、消えたのではなく、徐々に現れ、一分ぐらい明るさを持続したのちゆっくり消えていったこと、消えた瞬間は確認できないということなど語られました。実は、先に引用のJALPOの記事ではfor only five minutesとなっていて、TDbWSh兩氏もS&Tで五分と書いているのですが、佐伯氏の著書では一分であり、福井氏の記憶でも一分程度であったそうです。どこかで翻訳間違いがあったのでしょう。時計は腕時計に依ったそうです。翌朝、佐伯さんに電話を入れたところ、「すぐにスケッチを送ってくれとの事で・・・、当時の『天界』に掲載されたと思う」と記憶されています。光斑は佐伯さんが後に著書では光斑から放射状に数条の光芒が出たような例を描かれていますが、福井さんの観測ではそういうことはなく、ただ円い面積が円いまま光っていただけであったようです。佐伯氏の1954年の元の観測でも上に引用した例では、著書やS&Tに引用されたようなけばけばしさはないようで、福井さんの場合もスッケチに残されているとおりの感触であったようです。前後する田辺さんの観測は後で知ったようですが、田辺さんとはどういう人か昔も今もご存じないようでした。

 福井さんは佐伯さんとは戦前からのお知り合いですが、戦後は、「大阪のプラネタリウムに勤めているのが、やっと分かって、それまで消息不明でしたから・・・。私も軍人でしたから、ずっと走り回っていましたから・・・。行ったら、久しぶりだねー・・・と・・・」というような再会だったようです。「佐伯氏も非常に熱心な方で、中学は出ていないけれども独学で検定を取られていますね。でも、佐伯さんは山本先生のおかげで、偉くなられましたよねぇ・・・」と述懐されました。

 以上が1958年の現象についての福井さんのインタビューの概要です。2003年、2005年にはこの地域の「反射」問題が再燃するのではないかと思いますので、好いときにお会いできたと思います。

 福井さんはその他雑談で、OAAや『天界』のこと、佐伯さんや山本一清博士のことなども語られました。少し差し障りのない程度で紹介しておきましょう。

 1954年の佐伯さんの観測を大々的に『天界』で採り上げた山本博士の英断について、福井さんは、山本先生の見識が広かったということを上げられました。「山本先生という方は、世界的に交際も広いし、外国も回っておられるし、いろいろな天文家にお会いになっているから・・・。奥さんも馬力のある人でしたからね、非常に。大したものでした。」「昔の『天界』というのは、世界の天文界に繋がっている感じがありました。」学生時代の『天界』には「素晴らしい魅力がありましたね。来たらいつも、カバンを放り出して勉強したものですよ」とおっしゃっておいででした。「編集がローカルに引っ込んでいてはダメなんですね。世界と全然繋がってないでしょ、山本一清氏は元気な博士でしたから、世界と繋がって、世界中の天文の一応の覗きは出来た」というご述懐です。

 

 

1994年のOAA総会での福井実信さん(中央)、

向かって左に故大沢俊彦氏。

他にCMOの成田氏、阿久津氏、森田氏、西田氏が写っている。

 

 

 福井さんは語り口もさほど滞ることもなく毒舌もさわやかで、まだまだお元気でした。これからも健やかにお過ごしになられるよう願って、お昼がきましたので、おいとましました。帰りはお嬢さんに駅まで送っていただきました。奥さんが亡くなられた後の福井さんのご様子など少し語られました。まだ四月に一週間ほどの間があるときでしたが、温かく、ほんとに大通りの両側の桜並木は満開で華やいだ雰囲気でした。

(南 政 Mn & 村上 昌己Mk)

 

 (追記) このあと福井へ帰るNs氏やTsさんと十日市場駅で別れ、MnMkは藤沢に立ち寄り、MnMk氏のご家族にも会い、観測場所を見学して、そのあとMk氏の案内でゆったりとした「江ノ電」で鎌倉に出て、長谷大仏のおなかに二人で入ってきました。この頃は関東はよいお天気で、桜の開花も十日ほど早かったようです。黄砂もひどいようで、まわりの車は黄色くなっていました。

 Ns氏の話では、しかし、出てくる前の福井は寒気が入っていたようで、三月23日、24日と福井の山奥の大野で「彗星会議」があり、23日はNs氏はNj氏と出席したようですが、雪が降って、それも道路に積もるほどで、スノータイヤを外した車は往生したようです。Nj氏はこんな山奥でこんな時に会議などするもんじゃない、と怒っていたそうですが、まず誰でも参加できるほど便利な状況ではなかったようです。24日朝にはNs氏は飛行機で羽田まで飛んだのですが、横浜はエライ違いと思ったそうです。その話が「白楽天」で出て、ドンさんはフクイなど知らないから、ホッカイドーですか、と訊いていましたが、あの山奥はこうなると似たようなものですな。 (Mn)


■福井實信さんは2009年二月5日永眠されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。 (2009年二月9日 編集部)


 

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