From Reiko
TAKANARI
●・・・・・・・・Date: Mon, 23 Feb 2004 01:28:25 +0900
Subject:
Re: ご無沙汰しています、南です
南先生
お久しぶりです。時々拝見するメールから、火星観測に全身全霊を込めて打ち込んでいらっしゃる様子が伝わって来て、すごいなあと感心していました。こちらはこの21日にようやく「小泉八雲没後100年記念事業実行委員会」が発足して、ほっとしております。ご参考までに私どもの予定表をお送りします。少しややこしい表ですが、すべてひっくるめて富山で企画している事業であるとお考えください。この表の中で「ローエル会議」担当者の所に牧野さんと南先生のお名前を、私どもの覚えのために、勝手に入れさせていただいております。
>一応、ハーン関係は5月3日の夜にお願いするほか、二度また
>
は二話に分けていただき、お昼後半にもお話をお願いすることになるかも知れま
>
せん。そのほか臨機応変にお話や通訳をお願いするかも知れず・・・・・・
→ひえーっと悲鳴を上げております。私は英会話が下手で全然駄目なんです。もともと美術史専攻が、どこで如何道を間違えたか、気が付いたら英語教師をしていたというのが実情でして、謙遜ではなく、お役に立てないのです。通訳は申し訳ありません、お許しください。
>ハーンの「At Hakata」のなかに出てくる佛頭と鏡の話の浄土宗?のお寺
→ハーンはthe Street-of-Prayer-to-the-Godsは「念仏通り」などと訳されてきましたが、「ジャパン・ウィークリー・メイル」掲載の「島根・九州だより」ではKamidoyemachiとはっきり書かれており、これは上土居町というもはや現存しない町であることが、桝井幹生先生の調査で明らかになっております。それによりますと明治23年ごろ、博多・福岡の浄土宗門徒衆が神戸の能福寺にあった大仏様の首をもらいうけ、博多に運んだ。これに肢体を鋳継いで完全な大仏を作ることを発願して、上土居町の鋳物師磯野七平の家の一部を仕切って安置、門徒宗は資金集めに奔走したが思うように資金が集まらなかった。これを見た称名寺の住職知眼和尚は一切の事業を引き受けて大仏講を組織して、一般家庭から青銅製の鏡や浄財の寄付を呼びかけた。ハーンの見たのは、おそらく和尚の呼びかけで鏡が集まり出した頃、未だ磯野家にあった頭部だけの大仏であったと思われる。大仏は明治42年に完成、博多片土居町称名寺に安置された。大正8年称名寺が東区馬出大仏通りに移転した際、大仏も移されたが、昭和19年7月太平洋戦争のため軍の命令で供出された。ということです。博多で現存するものとしては、名娼名月墓のある万行寺と博多総鎮守櫛田神社があり、櫛田神社ではハーンが見た二重楼門の随身と唐獅子が見られるとのことです。
>ハーンが初上陸したとき、人力車であちこちのお寺に参りますね? そうし
>
たところはidentifyされているのでしょうか
→実は私もハーンが廻ったお寺を確かめようとしたことがありましたが、時間切れでそのままになっております。ただ、どなたかすでに確かめていらっしゃる方があるかもしれませんので、少し調べてみます。直ぐにとはいかないかもしれないのですが、シーハンさんがいらっしゃる前に、分るか分らないかあたってみます。お時間をください。
なんだかあまりお役に立てなくて少し気が引けます。
(10五2003
email)
高成 玲子
(Reiko TAKANARI 富山 Toyama)