CMO ずれずれ艸 (南天・文臺)

 その弐拾壱


夏 日 星


 暑中お見舞い申し上げます。今年(1987) の六月は気持ちの良いカラ梅雨で、七月に入って、あれは14日でしたか、京都はえらい雷でいよいよ梅雨入りかと覚悟したのですが、雨が一遍に来て往生しました。もっとも、測候所の言っていたことでは、相当様子が違っていて、既に、六月9日には関東で、又13日には北陸で梅雨入りという事でした。しかし、こちらでは101112日と晴れましたし、また161718日も然りでした。下旬も好い天気で、26日には沖縄の梅雨明け宣言と成りましたが、当日はこちらも快晴でした。七月に入って、 8日に九州南部、 9日には四国が梅雨明け宣言をしたのですが、その後、私の見るところ京都・大津はドシャブリ梅雨に入るわけです。18日頃関東甲信は明け宣言をしたりしますが、これは翌日取り消されたそうです。20日には四国が十一日経ってから、実は梅雨が続いてましたとかで、宣言取り消し、四日後24日に近畿と一緒に宣言のやり直し、九州も25日に再宣言をしたわけです。近畿は最後迄我慢してヘマしなかったようですが、それは昨年モドリ梅雨をやった前科があるからだったようです。まあ、どうでもいいことですが、これは来年の参考の為、というか、資料として記録して置くわけです。

 

淺田正氏は割とタイミングよく20日に花山天文台に入りました。八月の15日迄木星を撮る予定で、チョボチョボここ数日木星は出ているようです。少し苦労して、一回り大きくなったビール腹が引き締まればと思って居ます。ただ、花山にはTP2415も名前の違う旧型しかないし、ロジナ−ルもないと零(こぼ)しておいでです。

 

宮崎さんの沖縄は颱風五号のとき以外はずーと好いようです。沖縄も今年の梅雨は集中型だったとのことですが、それに比べれば、昨年はカラ梅雨だったのですよ、とおっしゃっていました。そう云えば、昨年の臺北の梅雨も何時始まって何時終わったのか分からず終いでしたが、やっぱりあれは運佳くカラ梅雨だったのですね。張さんのLtE(今号)によると、今年の梅雨の期間ははっきり書かれていますので、今年ははっきり降ったのでしょう。

 

今年の木星は可成り高度があるようですが、来年の火星は、今年の木星と昨年の木星の高さの中間にある様ですから、去年木星を撮られた方は、今年の出来具合と比較すれば来年の火星のメドがつくかもしれません。

 

 扨て、本題の「夏日星」は火星の和名だそうで、野尻抱影氏の『日本星名辞典』(東京堂、1973) を参照しているわけですが、江戸時代の節用集等には漢名の「熒惑(けいこく)に「夏日星」(なつひぼし)が当てられている由。今年(1987)は天に火星はありませんが、昨年や来年の火星は矢張り夏の星だし、夏日星などと云うと白昼夢の星らしく今年の火星に相応しいという気がしないでもありません。淺田氏や宮崎氏の様に今夏の星を持つ人たちに対して、持たない者の僻みで別の納涼を考えようと云う訳です。

 

熒惑に関する日本の古い説話は聖徳太子にくっついているようで、これも野尻氏の先の著書に詳しい。敏達九年夏六月、歌を唄う子供が天暁、住吉の海に入って行ったという話を聞いて、九歳の太子が直ちにそれは熒惑星也と応えて、まわりの人を驚かせたというものです。野尻氏は『扶桑略記』に依っていますが、『聖徳太子傳暦』を参照すると後半は少し長くて、

太子侍側奏曰、是熒惑星也、天皇大驚問之、何謂、太子答曰、天有五星、主五行、象五色、歳星色青、主東是木、熒惑色赤、主南是火、此星降化、為人遊童子間、好作謡歌、歌未然事、蓋是星歟、天皇太喜

となっています。

 

この話はいろいろに脚色されて拡散して行くのですが、例えば別の『聖徳太子傳記』では天変化物として「其色赤色左右眼如明星放光鬼神」等とし、太子の答えでも「抑是熒神惑星ト申星也」と余計な一字が入っています。こうした記述では贔屓の引き倒しになるとでも思ったのか、別項に「熒惑星哥事」として「夫天有五星、位五方顕五行、五季、五色、五味等位也、五星者、東方歳星領春三月并甲乙、木、青色、酸味也、南方熒惑星領夏三月并丙丁、火、赤色、苦味也、西方者太白星・・・・・」と潤色もし、書き手は蘊蓄を傾けます。

 

尚、野尻著の引用の「あまの原南に須める夏火星そとよ左土に土へよ毛乃久左登母」なる星返歌の「夏火星」について、『傳記』の私の持っているコピ−では「カクヮセイ」とルビが振ってあり、「夏ハナツト訓スル字也、火(クヮ)ハヒト訓スル字也」とあります。『傳記』(東大寺本)の成立は十四世紀の初め(1318)と言われていますので、カセイの方が、漢意(からごころ)の弛んだ「なつひぼし」より早いのかもしれません。

 

火をクヮと読むのは呉音・漢音がそうだからですが、現在は huoで「火星」は「ホーシン」に近い。火をホと呼ぶのは、日本に無い事は無いらしく、最近読んだ佐竹昭広著『古語雑談』によれば、万葉の「火気」はケブリと訓読されるが、これをホケ或いはホノケとしてはどうかとあります。これも訓らしいけれど、「梅」や「馬」のウメ、ウマが訓ではなく、中國音のメイ、マから来た外来語らしいので、どこかで北方発音の入った事もあってよいように思います。

 

 扨て、上の説話の骨子の出自は勿論中国です。幸い、『晋書天文志』の譯本(薮内、山田、坂出訳、中央公論社)が出て居ますので、関連するところを引用してみましょう。「惑星が遅れたり進み過ぎて、しかるべき位置を外れると、その精霊が人になって地上に降りる。歳星の場合は、降りて貴臣となり、熒惑の場合は降りて子供になって、歌を謡ったり、遊戯をする」。この事を九歳の太子が知っていたということになるわけです。火星が夏と火に関するのは「熒惑、それは南方・夏・火のしるしであり、礼にあたり、視にあたる。礼が欠け、視力が失われ、夏の政令に背き、火気をそこなうと、その罰は熒惑の動きにあらわれる。熒惑は法官である」から来て居ます。尚、木星と火星が集合すると、「飢饉や旱害が起こる」そうです。災害は困りますが、空は晴れるということでしょうか。

 

 ところで問題として、何故聖徳太子と熒惑かということがあるわけです。どうして、赤さを心宿の大星(大火=アンタレス)に比べられ、災禍と隣り合わせのような星を太子に結び付けたのでしょうか。聡明な王子の逸話としてならまだ歳星あたりがよいのではないか。勿論この話は「表史」の『日本書紀』の敏達九年の条にはありません。太子の物語は、聖徳太子信仰を生み出すのですが、これは良い資料とされる『上宮聖徳太子傳補闕記』も含めて『傳暦』、『傳私記』、『傳記』などの「裏史」で伝えられているのです。ご承知の通り、山代(山背)大兄以下太子一族男女廿三王は、藤原不比等一族と通じた巨勢徳太等によって斑鳩宮で滅亡に追い込まれます。このとき種々の仙人や天女が雲のごとく立ち昇り、西に向って飛翔したといいます。これは同時に(無罪被害で)正史から抹殺される事、そしてそれを天変地異でしかお返し出来ないことを意味していたのでしょう。『日本書紀』推古廿八年に「天有赤気、長一丈餘、形似雉尾」とありますが、既に『傳私記』には「此大唐道勒云、太子後入滅七年之時子孫亡滅相云々」と付記されています。

 

こうしたことの傍証を書いていると切りがないのですが、只一人だけ、親兄弟の権力志向に心を痛め太子一族の鎮魂を祈った人がいたとすれば、それは光明子でしょう。彼女も天変を恐れた筈で、然し、祈りの甲斐も無く、奇しくも760年のハレー接近で崩御しています。『台記』で1145年のハレーを記述した頼長も、恐くて認めていたようなもので、四天王寺に何回か詣でて、聖徳太子にお願いしているのです。尤もその甲斐なく、後年流矢に当たって命を落とします。四天王寺と言えば、遺髪と共にヨウレイが出る話があるのですが、長くなるし、こんなワープロ打っている暇もないので納涼雑談はここいらにしましょう。

 

ただ最後にもう一押しして、熒惑も彗星も気味の悪いのは同じだけれども、何故九歳の太子に熒惑を語らせたかと推測するに、矢張り、太子に天子としての気質が備わり、太子信仰者にはそれが残念でたまらなかったからでしょう。実際、『晋書天文志』には「熒惑は、理(治める)という意味を持つ。外は軍備を整え、内は政治を整える。天子の理官なのである。それゆえ、聡明な天子がいれば、必ず熒惑の位置を観測する、といわれるのである」とあります。熒惑を識っていた太子はまさに天子の器と言いたいのでしょう。北斗七星も天子と関係しますが、『傳私記』では語呂会わせ良く、太子七歳の項で、「持國天御大刀者太子七歳巳前之御守也」として雲形七星剣について述べています。この七星剣は現在でも法隆寺の宝物殿で拝見出来るものです。他に、四天王寺の鋒者偏刀金鏤星雲形の七星剣なども、北斗七星のほかに雲形模様が入っています。私には、斑鳩宮から飛翔したという雲に思えて仕様がありません。

 

'Natsu-hi-boshi' 夏日星 implies 'Summer-day-star' and an old Japanese name of the planet Mars. This may simply mean that Mars received much attention especially in summer when it perihelically approached. In literature, we also see the word 夏火星 for Mars implying 'Summer-fire-star'. And and can be pronounced in the same way in Japan as 'Hi'.

 

  Nowadays we write 火星 for Mars and pronounce 'Kasei'. Much older name was 熒惑, something bewildering, puzzling, confusing, perplexing etc. These names all came from China. In an older Chinese book, it is said that Mars is a symbol of south, summer and fire (likewise, Jupiter is of east, spring, and wood).  Here is written an old Japanese story related with a prince and Mars. □

南 政 Masatsugu MINAMI


火星通信#036(25 July 1987)p283 所収


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