CMO ずれずれ艸 (南天・文臺)

 その二十七


二 挺 鍵 重


★前回敢えて腹巻きの話を書いたが、あれはいつだったか『天文ガイド』増刊号の或る落語家の記事を野次ったつもりのもので、そこではオジン(ジジイだったかも知れない)が腹巻きをしている姿が描かれていたからである。序でに言うと、私が路線バスに拘むのも、あすこにジジイは「車は路線バス」とあったからであり、更にラクダのパッチというのが出てくるが、何を隠そう、これも私の愛用品である。私には観測と無縁な戯言など屁のカッパというところである。★流石酷暑の臺灣ではラクダは着けなかったが、冬期の観測には欠かせない。実はこれを(火星の出を待つ間)足羽山天文台の準備室で中島孝氏の高鼾を聞きながら打っているが勿論駱駝を上下着用である。★私などは素直だから戯言も自家薬篭中で、あの記事にはもう一つ痔の薬の情報が入っていて役立った。一度疲れからか、頭髪の脱毛やら耳垂れ、痔がいっぺんに来たとき、あれを参考に薬局に行った。但し、薬局はあれより速効のがありますと新発売のをくれた。これは好く効いた。脱毛の方は餅は餅屋で長谷川久也氏に相談すると、頭皮が堅くなっている筈でマッサージをせよということであった。そうハゲんだわけではないが、お蔭で今のところ中島孝風フランシスコザビエルから逃れている。

 ★ラクダのパッチは腹巻同様私には観測必需品だが、必需品だかどうだか判らないものに「眼鏡」がある。私は近眼だから火星の導入には眼鏡が必要である。然し、スケッチするときは外さなくてはいけない。甚だ面倒な必需品である。昔、足羽山天文台でどうしていたのか、いま思い出せないのだが、1986年の圓山天文臺では上着のポケットに入れたりして、屈んだ時よく落としてレンズを割った。臺灣の床は、タイルかコンクリートで堅い。落としたが最期、駄目である。最初、両眼ともやられた。仕方なく、王永川さんの案内で、士林の「寳島眼鏡」へ行き、臺灣製の淡いローズ色のレンズを入れて貰った。それから気を配ってはいたが、四、五回はやった。然し不思議なことにそれからは必ず片方だけであったので、その度に士林の同じ店へ行くことになった。ケースだけ貯まった。私はもう一つ讀書用の眼鏡を持っているが、これは期間中無傷であった。実は迂闊なことで、私は経緯台使用時のために第三の眼鏡を持っていたのだが、日本に置き忘れてきたのである。これは蔓に紐が掛けてあり、外しても首に引っ掛かって落っこちない。そんなことがあって、二回目の1988年の時は忘れずこれを持参した。お蔭でドームのなかで眼鏡を壊すということはなくなった。然し、宿舎で一度やった。宿舎の床は綺麗なタイル張りである。風呂に入るのにシャツをエッ、ヤッと脱いで眼鏡を翔ばし、割ったのである。而も、片方だけであった。そこで久しぶりに遠路遥々士林の寳島まで行った。この眼鏡は今も無事で、私はローズ色の臺灣製を愛用していることになる。然し、今度片方やっても士林へは往けない。★一方讀書用は帰国後俄に壊れて新調した。第三の眼鏡もフレームが瓦解した。実は紐は真田紐であったが途中取り替えるほど汗で腐り長続きしなかった。セルロイドのフレームも同じ被害に遭ったものとみえる。レンズだけ二個残っている。

 ★扨て、これも必需品かどうか、臺北で手放せなかったものに「鍵」がある。普段私は鍵は一個か二個であるが、1986年臺北に着いた途端仰山鍵を持つはめになった。中研院の部屋の鍵、臺大関係が、部屋、メールボックスの部屋、玄関の鍵その他といった具合である。部屋には二個付いていたかもしれない。さて天文台である。思いつく侭でも、地下の私の部屋の鍵、天象舘から屋上へ出る鍵、ドームの鍵、ドーム内のケースの鍵、暗室に通じる部屋への鍵、圖書室の鍵、天文台から屋上へ出る鍵、それに外から天象舘(横の入口)へ入る鍵、天文台の玄関の鍵、等などである。それにコ惠街の大袈裟な二重鍵がある。これらを持って歩くわけだが、片方のポケットでは到底間に合わない、最終的には二つの束に分けズボンの兩脇のポケットに鎖でジャラジャラ吊すようにして歩いていた。臺北では鍵束をベルトのところに吊している光景はよく見られた。ちょっとした美学であり、王永川さんや陶蕃麟さんでもスマートであったが、しかし私のは不恰好なのは歴然であった。

 ★鍵に神経質になったのは初体験による。臺大の部屋は私と入れ替わりに渡米なさるL先生の部屋であったが、L教授は鍵を幾つも渡してくれる代わりに(他にコンピュータ室のも入っていた)絶対に落とさないこと、他人に貸さないことを口喧しく言われた。L先生は臺灣人より日本人を信用するかのようで、奇妙であったが、後でというか多分その日、夕方H先生に公舘の喫茶店でその話をすると捜査を受けたことがあるからだろうということであった。然し、そのとき既に私はヘマをやっていた。H先生と別れ、天文台に帰る為に 208路線バスに乗って、漸く座り、何気なくズボンの右ポケットを探ると、何と無く手応えがない、とはいえ、右隣には見知らぬ人が座っているので余り大仰に手を動かすわけにはゆかない、そこで二、三停留所をやり過ごす間、そろりそろりと探り、遂に鍵束の無いことを確かめた。当然、血の気の引く思いであった。まだ 208路線の様子も知らないときで、何処をどう走っているのか判らなかったが、賑やかなところで降り、取り敢えず電話でH先生に大事なL先生の鍵束を落っことしたことを報告した。H先生は喫茶店まで通った道路を調べてあげるから三十分経ったらもう一度電話してくるようにとおっしゃった。雨の降っている時で、H先生にもお気の毒であったが、私の気も滅入った。やる方なく 208を逆方向に乗り直し、再び公舘まで引っ返し、ややあってH先生のお宅に電話すると、開口一番「あったゾ!」であった。結局、喫茶店の私の座っていた椅子の下に落ちていたそうである。感激感激で、もう一度別の喫茶店でお茶を飲み直した。H先生には、考えてみると終始ご厄介になった。警察と役所との交渉はお断わりとおっしゃっていたが、細々したことではよく面倒をみて頂いた。蔡章獻さんと同じ萬華のご出身で、下町的なところがあるのかもしれない。★王永川さんにこの話をすると、早速鎖付きのキーホルダーを買ってきてくれた。そして鍵も増え、鎖も二本になったというわけである。二挺「鍵重」は1988年も同じであった。尤も、注意はしていたが、一本ぐらい一度は落としているかもしれない。王さんに連れられて士林のスペアを作りに行った覚えがあるからである。或いは新しい鍵を私が要求したときかもしれぬが、スペアがいとも簡単に安価で拵えられることは確かである。王さんは、臺北のホテルの鍵は全部スペアが何処かにあるよと言っていた。L教授の「貸さないこと」とおっしゃることもこれと関係あるかもしれない。

 ★尚、以前ハレー騒ぎのとき天文台のドームで外部からの侵入盗難事件を誘発し、天文台に迷惑を掛けたが、あれは直接鍵には関係がない。屋上のドームの外扉を開け放して観測して廿分休憩に図書室に降りていたときにアイピースをやられたのだが、これは私の日本人的油断と隙の所為であった。事件そのものは不愉快であったが、後で二匹目の泥鰌を狙って犯人(といっても少年だが)が御用となり、臺長ともども圓山派出所(といっても署ぐらいの大きさ)に出向き、少年の首実験がてら、派出所で便當までご馳走になったのは愉快であった。然し、以来ドームの窓が鐵格子で囲まれたのは、愉快ではなかった。そういえば臺北のマンションでもどこでも窓は鐵格子で囲うのがファッションになっている様だが、あれでは牢獄の眺めと変わりなかろうと思う。

★「鍵」が我々ジプシー觀測屋の必携品であることは確かで、ここ(足羽山)でも中島孝氏は少なくとも四個の鍵と電子ロックのカードを可成り神経を使って持ち歩いている(どうもあの鎖付きキーホルダーは臺灣製のもう一本の様であるナ)。考えてみると、われわれは鍵の数だけ信頼されている様なもので、臺北でも足羽山でも身に余るほど受けた寛容さ寛大さには単なる感謝の言葉だけで足りる様なことではないナと思っている。

(南政次)


 

火星通信#087 (25 May 1990) p737夜毎餘言14

 


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