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英語と理数(@岡山一宮高校)

2012年6月214日 磯部洋明

この文章は、2012年4月26日に母校の岡山一宮高校・理数科2年生の生徒さんたちに向けて行った講演内容の一部に、少し言い足りなかったことを付け足して文章に起こしたものです。母校の後輩に向けた話、ということで若干アジテーション気味の偉そうな文章になってるかもしれませんが、そこは大目に見て頂けるとありがたいです(笑) なおこの文章は講演の後半部分にあたり、前半では太陽活動と地球や人間活動の関係、そして科学と社会の関係について、主に英語で話しています。前半部分を含む資料は http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~isobe/nwork/presen/Ichimomiya-120426.pptx.pdf に置いてあります。

今回の講演は、理数科の生徒さんたちに英語を学ぶことの大切さを伝え、英語を学ぶモチベーションをつけて欲しいということで依頼されたものでしたが、単に「英語できなきゃダメだよ」というのは自分の考えとはだいぶ違うので、講演では依頼に沿った内容に加えて、かなり私見も述べました。その内容については呼んで下さった高校の先生からもとても良かったと言って頂きました。で、講演の様子をNHKが取材に来ていて、その日の夕方のニュースで放送して頂けたのですが、その中で僕が「これからの社会はグローバル化だから英語はできなきゃいけません」という趣旨のことを述べているところが放送されて、その後に続けた本当にいいたい部分は放送されなかったようです。ただし放映時に一緒に食事していた同級生の携帯のワンセグでちらっと見ただけなので正確でないかもしれません。英語で純粋に科学の話をしている部分も放映されてました。 ニュース番組の中での放送ですし、講演会のもともとの趣旨からいってもその部分を抜粋して放映したことは理解できますし、そのことへの不平を言うつもりは全くありません。が、以下を読んで頂けたら分かって頂けると思いますが、やはり自分としては一番「そこだけ抜き出して欲しくない」箇所であり、それに地元ということで両親や昔の友人も見てくれてたみたいなので、ちょっと長くなりますがここに掲載しておきます。

*****ここから*****

ここまでは太陽と地球、人間活動の関係、またそこから話を拡げて科学と社会の関係について、英語でお話しました。「英語で理数」ということで今日のような講演会を開催したり、韓国の高校生と研究やプレゼンテーションといった取り組みもされたりしているようなので、英語が大切だということはみなさんはもう耳にタコができるくらい聞かされてるかもしれませんが、このことについて理系の研究者の立場から、また一宮高校の先輩として、後輩のみなさんに少しだけお話させて頂きます。

みなさんの中には、将来の進みたい道をはっきりと持っている人も、まだ将来何をやりたいのかよく分からないという人もいると思いますが、理数科ですから、大学へ進学して理工系の学部へ行こうと思っている人が多いことでしょう。そしてご存知のように、理工系に進む人にも英語はとても重要です。 僕のような自然科学の研究者が業績を評価される時は、研究成果を発表した論文で評価されます。その論文は基本的に全て英語で書かれます。日本語で論文を書いたとしてもそれは業績としてほとんど考慮されません。日本人以外で日本語を読める人はとても少ないからです。この事情は、特に文系の学問分野だと少し違います。例えば日本の文学や歴史について、あるいは日本の法律や社会についての研究であれば、それは日本語で発表する意味があります。そのような研究に関心がある人はもともと日本に関心があるでしょうから、英語で書くよりもかえって多くの、より読んで欲しい人に読んでもらえる可能性があるからです。また日本語に限らず、文学や歴史、文化に関わる問題では、その土地の言語の方がより深く適切な表現ができる場合もあるでしょう。しかし、今日お話したような宇宙や物理の話などは、宇宙のどこにいっても普遍的に成り立つ現象が対象ですがから、そのような地域性がありません。

英語はもはや科学の世界の標準語になっています。実は数十年前には今程そうでもありませんでした。例えば有名なアインシュタインの相対性理論の論文は、ドイツ語で書かれています。その頃までは、ドイツ語やフランス語、ロシア語などで、重要な論文がいくつも書かれています。もっと昔は、主にラテン語という今は使われていない言語で学術的な本が書かれています(イタリア語、スペイン語、フランス語などはラテン語から派生した言語です)。ですが今は、ヨーロッパの人でも論文は基本的に英語で書いています。

そして科学の世界だけでなく、英語は国際社会の共通語として使われています。みなさんが韓国の提携校の生徒と話す時も英語を使いましたよね?世界はどんどんグローバル化して、国境を超えて人もモノも移動しています。科学者、研究者にならなくったって、外国人と仕事をしたり、外国へ行って仕事をしたり、あるいは外国の会社に就職することは当たり前になりつつあります。だからみなさんも、世界中どこへ行っても仕事ができるようになった方が絶対に有利だし、そのためには英語ができないと文字通り「話にならない」ことになります。

英語が苦手だという人から、どうやって勉強したらいいかという質問を受けます。僕もそんなに英語ができるわけじゃないですが、その範囲でアドバイスするなら、まず効率よい勉強法というのにあまり期待しない方がいいです。基本的には勉強した量、英語を使った量に比例するだけです。強いていうなら、問題集をたくさんやるより、薄くて簡単なものでもよいので、がんばって英語の本を一冊読み切ってみることをお勧めします。子ども向けの童話でもいいですし、自分が興味を持っている分野の本だとなおいいと思います。それと、受験のための勉強はあまり面白くないかもしれませんが、受験勉強で身につけた文法や語彙は後から絶対役に立ちますので、つまんなくても頑張って勉強して下さい。

次に英語で会話する時のコツは、何より度胸です。一番よくないのはモジモジしたまま黙ってしまうことで、そうすると相手もどうしたらいいのか分かりません。何を言えばいいか分からない、喋ることがないのなら、「ソーリー、アイキャントスピーク」とか言って会話を終わらせた方がまだマシです。また発音は気にする必要はありません。日本人英語でOKです。どうせ世界の人もそれぞれのアクセントで話しています。勇気を出して話した英語が通じない時もありますが、そういう時は「オレ様の英語が聞き取れないこいつが悪い」と思えばよいのです。相手をバカにするのがいいという意味ではありませんが、自分の英語が通じなくてシュンとしてしまうくらいなら、そうやって自信持った方がいいです。

照れもよくないです。特に他の日本人がいる時に英語で喋っていて、いかにも「ガイジン」っぽく大げさなジェスチャーで「アーハ~ン?オーイェー!」とか言うの、恥ずかしくないですか?でも、さっき日本人英語でいいといいましたが、英語がコミュニケーションの道具だとするならば、表情やジェスチャーもそのうちです。(あまり美しい言い方ではありませんが)「ガイジンっぽく」喋ることへの照れとか、「日本人のくせになにがアーハンじゃ」という自分自身へのツッコミに打ち克つ時が、みなさんの英会話スキルが一つ上の段階へと上がる時です。まあこれは個人の性格とかポリシーとかもあると思うので、できないといけないわけでもないですが。

それから言いたいことの単語が出てこなくてずっとうーんうーんと言ってる人も時々いますが、そういう時は別の言葉に言い換えてみましょう。たとえば「雨」という単語が出てこなければ「ほら何だっけあの、空から水が落ちてくれアレ」とか言えば大抵の人は分かってくれるでしょう。実は、この別の言葉で言い換えることができるというのは、実は英語で喋るとき以外にも大切です。ある言葉をなんとなく言葉のイメージだけで捉えていて、それが本当に何を意味しているのかが分かっていないと、他の言葉に言い換えることはできないからです。

さて、ここまで英語の大切さをお話して来ましたが、実はここまでのお話は、本心でないとはいいませんが、僕が一番言いたかったことではありません。ここからが本番です。

みなさんがこれから世界で活躍する人になるために、一番大切なのは語学力ではありません。もちろん語学力は大切ですが、じゃあ英語がペラペラに喋れたとして、それでみなさんは一体何を語りますか?

違う言語、違う文化の人との話すときに大切なのは、単に言葉を知っていることではなく、自分の意見をはっきりと言うこと、論理的に話すこと、そして相手の話を聞いて自分との考えとの違いを理解することです。そして何より大切なのは、相手にあなたの話をぜひ聞きたいと思わせるような何か、あるいは何が何でも相手にこのことを伝えたいとみなさん自身に思わせる何かが、みなさんの中にあることです。

2008年にノーベル物理学賞を取った益川敏英さんも、実は英語が全然できなかったことで有名です。益川さんは素粒子論という分野で非常に重要な研究をされ、ノーベル賞を取る前からあちこちの国際会議から招待されたそうですが、英語が喋れないというこtで全て断っていたそうです。ノーベル賞授賞式でのスピーチも、最初に「I can not speak English」と英語で言ったあとは日本語でされました。英語ができなくても何か突出したものがあれば、科学の世界でも高く評価されるというよい例です。

とはいえ、もちろん益川さんも研究の内容を発表する時は英語の論文を出版されています。(英語にするのは主に共同研究者の方がされたというように聞いています。)僕は以前、ドイツのある研究所に3ヶ月ほど滞在したことがありますが、そこでは世界各地から大学院生や研究者が集まっていて、毎日の研究の議論やゼミなどは全て英語で行われていました。何度も言うように英語は科学の世界の標準語です。だから科学者は英語を使わざるを得ないわけですが、ここでちょっと違う観点から考えてみたいと思います。それは、日本語から最先端科学の営みが無くなってもいいのだろうか?ということです。ここでいう科学の営みとは、大学の授業やゼミ、日々の研究活動、研究成果の学会や論文などでの発表などのことです。

科学の意義というのは、単にその成果が様々な技術に応用されて、私たちの役に立つだけではありません。科学はこの世界がどんな場所で、私たちがどのようにして生まれ、これからどうなるのかを解き明かそうとする営みであり、地球が太陽の回りを回っていること、人間が他の動物から進化して生まれたことなど、科学を通して得た知見は、私たち人間の物の考え方に大きな影響を与えてきました。

「科学」「哲学」「物理」「社会」などの言葉は、実はもともと日本語の中にあった言葉ではなく、明治時代に西洋の学問を輸入した学者たちが、一生懸命に新しい概念を日本語に訳していったものです。西洋の学問に触れた一部のエリートたちをのぞけば、きっと当時はそれらの言葉は何かよくわからない新奇なものに聞こえたのではないかと想像しますが、今や誰でも「社会」という言葉を使って「日本社会の問題はこれこれだ」みたいな議論をしますよね。これは「社会」という言葉とそれが意味する概念が、日本語の中にしっかりと根付いたからだと言えるのではないでしょうか。

最近はあまり新しい日本語を作ることはせず、「コミュニケーション」とか「イノベーション」とか「エコロジー」とか、外来語をそのままカタカナで使うことが多いですね。もちろんこれには利点もあります。日本語と英語(外国語)も両方で新しい言葉を覚えるのは二度手間だし、それに別の言語に置き換えるとどうしても意味が変わってしまうことがありますから、そのままカタカナにしてしまった方が正確に伝わる場合もあります。

ですが、そうやってどんどん生まれてくる新しい概念を日本語にすることを怠っていると、いつか日本語と、日本語による思考がやせ細ってしまうことはないでしょうか。まして西洋の新しい概念を学ぶことが何より大切だった明治時代と違い、今は日本から世界へ新しい知見、新しい考え方を発信してゆくべき時代です。

国際化、グローバル化しなくてはということで、大学でも授業を英語でやったり、日本企業でも英語を公用語にしたりするところがでてきています。僕が今いる研究室でも、外国人の大学院生や研究員がいつもいますから、研究室のゼミなどは基本的に英語でやっています。多国籍の人が一緒に研究したり仕事したりする以上、それは必要なことです。中には大学の授業を全部英語にしてしまうべきという意見もあります。しかし一方で、日本語は非ヨーロッパ言語で最先端の科学・技術の営みが行われている、貴重な存在でもあるのです。

僕の仲のよい友人にインド人の研究者がいます。彼はインドの大学を出た後ドイツの大学院で博士号を取り、しばらくイギリスで研究員をした後、最近インドの研究所に職を得て祖国に戻りました。知ってる人もいると思いますがインドという国は面白い国で、色々な民族がいて国内で何十もの言語が使われています。そのため公用語としては、現地の言葉の中で特に話者の多いヒンディー語と、インドを植民地にしていたイギリスの言葉、つまり英語が両方使われており、大学や研究所などでは基本的に英語が使われています。僕の友人は日常会話はヒンディー語でしているのですが、彼は自分は科学の議論をヒンディー語でやることはできないと言います。どうしてかと聞いてみると、専門用語がないこともあるけど、とにかくヒンディー語で科学の議論をしたことがないのでうまく言葉が出てこないんだそうです。

これは僕の友人だけの特殊なケースかもしれませんし、僕自身はヒンディー語を全く知らないのであまりこの話を一般化することはできません。ですが、最先端の学術書や教科書が日本語で書かれたり、外国語で書かれた学術書・教科書の多くが日本語に翻訳されたりしていることに、彼が非常に感心し、うらやましがっていたことは僕にはとても印象的なことでした。英語が公用語であるインドでは、大学を卒業した人は基本的に仕事や研究をするのに不自由ない英語の能力があります。このことはインドにとってビジネスの上でも科学研究の上でもとても有利に働いています。ですが友人は、インドの科学や高等教育が英語だけで行われていることは長い目で見るとインド人に取って望ましいことではないと言っていました。ちなみにヒンディー語の元となっている古代のサンスクリット語は、宇宙や世界に関して世界でもっとも豊かな想像力に富む思索が残されている言語の一つだそうです。

科学者にとって日本語と英語の両方で科学の営みを行うということは、英語だけでやるよりも負担が増えることを意味します。日本の大学や研究機関が世界から優秀な人材を引きつけるには、授業や研究活動が日本語で行われていることは明らかにマイナスに働きます。ですが長い目でみれば、日本語で大学教育や科学の営みが行われることは、我々日本人にとってはもちろん人類全体にとって意義のあることだと思うのです。

みなさんは生物多様性という言葉を聞いた事があるでしょう。地球上には実に様々な種類の生き物がいます。生き物が多様であるということは、環境が様々に変化しても誰かが生き残ることができるという意味で、地球上の生命全体から見れば生き残るための強さにつながります。人間は生物的な種としては一種類ですが、生物の中で恐らく始めて、多様な文化や技術を持つことで様々な環境に適応し、その結果世界中に広まることができた種です。

温暖化するにせよ寒冷化するにせよ、地球環境はこれからもある程度の変化は避けられませんし、社会の変化のスピードはどんどん速くなっています。人類にこの先待ち受けている様々な変化、様々な危機に立ち向かう時、短期的には一致団結して協力することが必要ですが、長期的には、対立するものも含めて、色々な文化や色々な考え方を持っている人がいることがとても重要になるでしょう。

科学は普遍性を大切にします。ですが、その科学をどう使い、そこから得られた知見をどう文化や思想に組み入れてゆくかには、個人や文化ごとの違いがあり得ます。言語は人が物を考える時のもっとも基本になるものの一つであること、科学が人間の思考そのものにも大きな影響を与えて来たことを考えると、トップレベルの科学の営みが日本語という言語で行われるということは、日本語という言語で繰り広げられる思想が幅と深みを増すことにつながり、それはより広い視野で見れば、人類がより多様な文化と思想を育むことにつながります。加えて日本語、というより漢字文化には、1000年前の文献でも少し漢文を学びさえすれば、現代人でも比較的容易に読む事ができるという大きな特徴があります。現代ヨーロッパでラテン語の文献を読める人はそう多くないでしょう。1000年後の人類にとって、1000年前の科学、或はもっと広く知的な営みが、英語だけでなく日本語や他の言語も残されていることは、より多くの学びをもたらすはずです。

みなさん一人一人にとって大事なのは自分の人生ですから、1000年後の人類のためにああしろこうしろと言われても困ると思いますが、そういう考え方もあるんだということを心の片隅にでも留めておいてもらえたら嬉しいです。

長くなりましたが、最後に母校の後輩のみなさんに期待することを述べて終わりにします。

繰り返しになりますが、まず科学にしても政治やビジネスにしても、日本だけに閉じていられる時代ではありません。共通語としての英語が使えることはもはや前提みたいなものです。かつ英語ができるだけではだめで、例え英語が拙くてもあなたの話を聞きたいと相手に思わせるだけの何かを身につけないといけません。さらにさらに、自分の専門しか知らないのはダメで、幅広い問題に対応できるような知識と視野の広さも大切です。英語も専門もそれ以外もとかなり要求は高いのですが、努力してそんな能力を身につけて、世界を相手にグローバルに活躍し、日本を引っ張っていってくれる人がこの中から出てきて欲しいと思っています。

しかし、です。ほんとにそれだけでいいのでしょうか?

上に書いたようなグローバルに活躍できる人のことを、最近はグローバル人材などと呼んで、そういう人を以下に養成するかが大きな課題とされています。今回僕が理数科のみなさんの前で英語で講演を頼まれたのにもそのような意図もあったと理解してます。みなさんにはこれから先も、内向きではいけない、世界に出ろ、コミュニケーション能力を磨け、グローバル人材になれ、という上の世代からの期待や圧力がかかり続けると思います。

ですが、みんながみんなグローバル人材になれるわけでは、たぶんないですよね。そういう人はもちろん一定数必要で、たぶん少ないよりはある程度多い方がよいのでしょうが、世界で戦えるグローバル人材にならなくては生きて行けないような、そんな社会を僕たちは作りたいのでしょうか。

英語なんかできなくっても、地域でマジメに働いて、のんびり幸せに生きていくこともできる。障害や病気を持ってて色々な制約があっても、やりがりのある仕事をすることができる、その上で望むなら世界を飛び回るような仕事につく可能性もある、そういう社会の方がいいと思いませんか?僕はそう思います。

そんな社会を作るために具体的にはどうしたらいいのか、残念ながら僕にはよく分かりませんが、グローバルに活躍できるだけの意欲と能力があって、かつ自分の身の周りだけでなく社会全体のことを考えられる広い視野をもち、自分の能力とエネルギーを社会をよくするために使うことができる、そんな人材が必要なんだと思います。

みなさんの中から、そのような人材がでてきてくれることを期待しています。

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