巻頭エッセイ

 

ニクス・オリュムピカについての誤解

南 政 次

CMO/ISMO #389 (25 September 2011)

 


English



ニクス

・オリュムピカについて、未だに馬鹿げた議論が罷り通っているのは驚くべき事實である。 例えば、スカイ・アンド・テレスコープの2007年十一月号のp68に次のような記述がある: "When moisture-laden winds blow across the broad, high volcano Olympus Mons, a hood of cloud sometimes forms."この文章自体は美辞の類で問題がないが、添附されているMartin P MOBBERLEY氏のオリュムプス・モンスの耀く照片に誤解があるのである。データの記述がないが、CMOGalleryに依れば、この像は4 November 2005 (λ=318°Ls, ι=02°) 22:56GMT (ω=153°W, φ=15°S)に撮られたものであろう。そうすると文章の意味は所謂夕方の山岳雲がオリュムプス・モンスに被って耀いているということになるが、實はこれは違う。當時オリュムプス・モンスは朝から耀いていた筈なのである。當日や翌日のCh PELLIER氏の画像を見ればお昼にも耀いているし、Tom ALDERWEIRELDT 氏の7 November 2005 (λ=320°Ls, ι=01°) 20:57 GMT (ω=097°W, φ=16°S)を見れば明らかに朝方である。朝方からオリュムプス・モンスに山岳雲が出る話は聞いた事もないし、理論上も成り立たない(破れ提灯のMARCIの畫像など見て本當の火星と思っている聯中は居るかも知れないが)。從っていつも夕方にオリュムプス・モンスが耀いていれば山岳雲と考えるのは大きな誤解である。

 第一、この解説の筆者には火星の季節というものが分かっていない。オリュムプス・モンスの夕方の山岳雲はλ=318°Lsλ=320°Lsでは殆ど出ないのである。但し、アルシア・モンスだけは違うのであるが、この際立った違いは1988年にはOAAは把握していたから、CMOの何處かにも書いてあるはずで、アメリカの多くの觀測者は度外視し居ていたのであろう。

 そこで此處でもう一度述べておこうと思うが、引用するのは白尾元理氏(東京・淺草)20 Sept 1988TP2415よる写真で35cm反射で撮られている。データは圖に載せてあるが、當然λ=275°Lsではオリュムプス・モンス(OM)には夕方の雲は出ない。B光でArとあるのはアルシア・モンスのことで、これは常時、夕方の山岳雲を被る。この二枚の照片はその違いを如實に示している。[近内令一氏に最近教えて貰ったことだが、アルシア雲は朝から出ることがあるらしい。Mars ExpressVMC2 July 2009=296°Ls)アルシア・モンスから1kmにも亙って白雲が流れ出ているのを觀測したそうで、多分一日中出ていたであろう。但し、多分季節から他の山岳には懸かっていない筈である(パウォニス山は少し可能性がある)。アルシア雲の特殊性については好く判っていない。]

 

 もう一つ見逃されていることは、上の2005年の場合、位相角ιが當時01°とか02°であって、衝に極めて近いということである。詰まりこの輝きは「衝効果」の一種で、日光の照り返しによって起こっているものである。從ってB光にも少々顕れるのは當然である。然し、通常この「衝効果」に出會える機會は多くはない。通常經驗上ほぼι8°でなければ、ニクス・オリュムピカは耀かないであろう。1988年の場合は28 Sept 1988が衝であった(最接近は九月22日で、23.8"まで行った)が、ιの最低値は3°ほどであったから、限界値にも少々の違いがあったかもしれない。

 

 元来ニクス・オリュムピカをオリュムプス・モンスと見做すのは間違っている。前者は現象であり、後者は實態である。確かにスキアパレッリはニクス・オリュムピカを發見したのであって、オリュムプス・モンスを見たのではない、と誰しも言う。然し此處が大事なところで、彼はニクス・オリュムピカを1879年十一月10日に觀たのであるが、十一月12日が衝であったから、まさに「衝効果」を觀たということになる。もう一度言うと、スキアパレッリが見たのは勿論オリュムプス・モンスのレリーフでもなければ、山岳雲でもないのであって、衝効果による照り返しである。但し、山岳雲より衝効果を見ることの方が難しい。

 

 尚、2009年のムードン會議でも述べたが、2005年は1879年から數えて126年の回歸にあたっていて、同じ様な現象がヨーロッパで觀測されたというに過ぎない。126年回歸については

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn2/Cahier03.htm

をご覧頂きたい。餘り好い回歸ではないが、ニクス・オリュムピカには充分である。

 

 先ほど述べたようにニクス・オリュムピカの「衝効果」と雖も、これに遭遇するのは易しくはない。從って2005年の場合でも歐羅巴では十月末から見え始めているが、日本からは2005年には見えていないのである。衝の頃はシヌス・サバエウス邊りを見ていたはずである。ニクス・オリュムピカが巡ってくる内に「衝効果」は済んで仕舞ったのである。日本や澳大利亞でオリュムプス・モンスが見られ始めたのは十一月下旬であるが、既にι14°邊りになっていた譯である。尤も先に述べたように、日本では1988年には遭遇したし、2003年にも見えている。

 

 話柄は少し替わるが、日本での標準的な「火星觀測書」は佐伯恆夫氏の『火星とその観測』であるが、殘念ながらオリュムプス・モンスについては ニクス・オリュムピカはおろか、山岳雲についての記述が餘りに少ない。アントニアディの本もご覧の筈であるが、ニクス・オリュムピカの發見の經緯も書かれていない。他のNixと呼ばれるものと並列で記述されるのみで、後は増補版で無關係にオリュムプス・モンスに觸れているだけである。W字形の雲についての記述はあって、ご自身の観測も1963年にあるらしいが、オリュムプス・モンスの山岳雲との關係は不明である。ハッキリ言えば、多分ニクス・オリュムピカを觀測する機會に惠まれなかったのであろうと思う。佐伯氏は鋭眼で知られているが、鋭眼ということと炯眼・觀察眼ということとは違う。後者には計畫的に前後の状況を可成り長く把握する力が要る。

 

 尚、序でに述べておくと、オリュムプス・モンスは27kmの高さがありながら(標高基準面からは25km)、圓形の盾状火山としての幅は550kmの大きさがあり、平べったいものである。通常は誇張して描かれるので、その本當のプロファイルに縮約すると

 

という具合であるし、楯状性も

と縮約される(前者はMichael H CARR: The Volcanoes of Mars, Scientific Americans Jan 1976號から拝借した。) 縁の崖で些か苦勞すれば後は平地を行くが如く草鞋でも登れる。但し、長い道程だが。望遠鏡を使えば、カルデラの天邊からは遙か彼方にタルシス三山が見えるであろうか。

 

  多分にオリュムプス・モンスは動かないプレー(プレート・テクトニク説に出てくるもの)によって長い年月に高山を作ったもので、柔らかい溶岩によってユックリ結晶しながら裾野は廣く擴がったものであろう。それが砂漠や普通の臺地と違って、特別な素材に依っていて、太陽光の特別な偏光反射を齎すのであろう。特に入射方向と反對側に反射を齎す構造の物質と思われる。實際にDsDeの値が違っていても、この特別な偏光物質の凹凸に據って、ある角θがあってθ(De+Ds)/2=18°を満た(此処で18°Nはオリュムプス・モンスの緯度)、入射光を、少なくとも地球の方向に反射し、衝の所爲で太陽光をDeの値とDsの値を上手く按配すると考えられる(オリュムプス・モンスの臺地の殆どのところで確率的に地球の方向に向いた「鏡」の破片の分布があるであろう、ということ)

 實はこれは十分條件ではなく、同じく臺地には地表に平面な「鏡」(θ=0の場合)の破片も同じように統計的に存在する可能性もある。從って衝でなくても、(De+Ds)/2=18° を滿たせば、オリュムプス・モンスは耀くであろう。殘念ながら2005年の暦を見れば判るが、大接近時には左辺はマイナスであって起こりえなかった。1988年、2003年にも接近時にはその機會がなかった。これは十分條件ではなく、別の場合もあろうかと思われるが、此處では省く(近内令一氏は別の説を持っている。LtEなど參照)

 

  尚、1997年の衝の時、福井市自然史博物館天文台の20cm屈折で中島孝氏と筆者は交替でオリュムプス・モンスのDe~Dsの頃CMTを計測したことがある。黄經衝は17 March 19978h GMTであったが、火星地球太陽は一直線居並ぶことは殆どなく、三點が作る三角形は無限にあるわけであるから、right ascensionでの衝も存在するのである。この方向から見ると18 March 199711h GMTが衝時になるので、われわれは11:00 GMT(ω=127°W)から11:47 GMTまで廿回交互にチェックし通過を判定したわけである。結果はCMO #188 (10 Apr 1997)述べてあるとおりだが、この時はλ=092°Lsで當然午後に入ると雲が出ることが豫想され(もう正午頃から)、それでなくとも視直徑δ14.2"と芳しくなく、表面は既にやや靄って居てCMTのチェックも難しいと思われたが、全回オリュムプス・モンスは確認され、位置を決定することが出來た。正確に言うとこの時はDe=23°Nであったのに對し、Ds25°Nと値が近く、文字通り衝効果(Ds~De~(DsDe)/2)で、オリュムプス・モンスの反射光がほぼ幾何學的に得られたことに依ると思われる。λ=200°Ls以降の衝時の晴のオリュムプス・モンスの觀察に比べて楽ではないが、北極冠がシッカリしていることとDs~Deであったことが幸いしたと思っている。ι2°程であった。この顛末は、

 http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn2/Cahier06.htm

 に述べてある。

 

尚、2012年の場合、黄經衝は3 March 2012 20:04 GMTに起こり、 De=22°N かつ Ds=25°N であるから、1997年に似ている。然し季節はまだ λ=078°Ls であるから靄って居ることだろう。また ω=135°W を捉えるには15:30 GMT前から狙う必要がある。日本からは夜半で都合がいいが、視直徑δ13.9"である。

 


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