巻頭論攷

眞の古典的觀測を求めて

南 政

CMO/ISMO #408 (25 March 2013)


English



球からの望遠鏡による火星の觀測の意味が問われている。もう火星の觀測は古典的で、意味がないのではないかという懸念が出ているからである。前稿ではそうではあるまいという論點に立った。從って、これからは古典的な觀測にも價値があるという立場を貫く強力な論據が必要であろう。これは案外と難しい。そこで以下紆餘曲折するが、今回は一つの立場を提出する。

 再び定義が必要となるが、眞の古典的觀測とは同義的に、地球上からの觀測で火星についての正しい言動を行え、その積み重ねが眞の道筋に導くような觀測である。

 ところで、眞の古典的な火星觀測というのは難しいけれども、「古典的」とも言えないような觀測や言動に出會うことは容易い。似て非なる古典的觀測とでも言おうか、精々classical-likeな觀測である。古典的な觀測家と言われても、少しも此處で言う 「古典的」でない例は多い。そういう人たちの言説は簡單に否定されるか、議論の末、哀れな最期となる。

 此處で、一番に擧げる例は嘗てCMOの文獻[1]1995年に紹介したことで、記憶のある人もいようが、擬似古典的人物が可笑しなことを言ったという例である。これはJBAAの文獻[2]で、Patrick MOOREなる人物が、火星表面の黄塵に據って表面が見えなくなる現象は火星の火山の仕業に因って引き起こされると言う説を開陳し、これは火星の近日點の邊りで火星と地球が最接近するとき、地球の影響で起こると考える譯である。MOORE氏は從って、というわけで、大黄雲は15年か17年に一度しか起こらないと考え、次の様に言っている。「一般的に言って、この様な砂塵による嵐は大接近前後の接近では起こらない。なので、1941年や1926年、1958年には起こらなかった。」そこでMOORE氏は次の1973年の接近では大黄雲は起こらないと預言する譯である: I venture to predict that there will not be one in 1973.

 然し乍ら、1973年には十分大きな黄雲が發生し、彼の預言は敢えなく瓦解した。多分彼の頭には1971年に發現された火星の巨大火山が浮かんだのだろうけれども、その爆發が兩者接近のとき起こるというのは好く考えれば彼我のスケールからは考えられないことであろう。

 

  勿論、誰でも色んな説を提示することは赦されることであるが、彼の場合は一寸我慢のならないところが本質的にある。それを次に述べる。

 

  1980/81年の何月何日だったか、覺えがないが、ロンドンのFoylesという大きな書店で、 Guide to MARS”という本を見附けた。この著者がPatrick MOORE氏であった。ちゃんと肩書きもO.B.E., D. Sc. (Hon.), F.R.A.S.とはっきりしているので、歴としたあのでっぷりしたMOORE氏である。でっぷりしていると知っているのは、彼が私の居たImperial Collegeへ講演に來たことがあるからである。

  私は中島孝さんへのお土産に好いと思って一冊買った。とはいえ未だ歸國は先であったので、宿でときどき拾い讀みした。ところが第五章を捲っているとき、魂消るような箇所に出會した。この章は黄雲絡みの章であるが、彼は1971年の大黄雲に彼の觀望を含めて書き、更に恥ずかしげももなく1973年の黄雲についても筆を進めている。1971年の黄雲については九月の中旬に黄雲は發生し、これの最初の写真はヨハネスブルクの27インチ屈折鏡でGregory Robertsが撮ったこと、ローヱル天文臺の觀測者が、然々と報告したこと、その初期状態がinitial streak-like coreであったこと、そしてそれが27Septemberまで擴大し、有名な圓い形のヘッラスの東端まで覆ったことなどを記している。それに續けて、彼の碌でもない顔が出てくる。28Septemberには「私」はよく知られた暗色模様の外觀をながめたが、それから二晩彼のSelsey天文臺は曇り、次いで觀測が出來た1Octoberには模様は大きく變動しており、南極冠がボンヤリするだけで、些し模様が見えるだけといった状態になった、など。これがDecemberの終わりまで續いたというのだが、何處まで見ていたというのでしょうね、反對側は見えないわけだし。その後、この嵐は相當に激しいものであったから I rather expected that another would occur near the next opposition, that of 1973; and it did. と書くのである。來たる1973年の次の接近には別の黄雲が起こるだろうと「私」は期待し、實際それが起こった、と書いているのである。この本が出たのは1977年である。

 明らかに、先のRef. [2]に書かれているものと矛盾する。この矛盾をどう見たらよいか。彼は1972年に書いたことを忘れてしまったのか、そうでないなら、彼は二枚舌か嘘つきか。精々都合の好いように轉身する人物か。或いは、Patrick MOOREという名を持つ人物で火星に就いて云々するものが二人存在するのか。

 

  注意するのは最初のMOOREが推論を書いたときに、當時既に大黄雲(1956年のものも含めて)の初期状態についての報告が多くなされていて、どれにも黄雲の状態は部分的には水が凝結し、"白く" 輝く状態になっていることが指摘されて居たから常人ならはあのように書くことは憚れたであろう。この第二のP MOORE は少なくともW A BAUM (1924 - 2012) などの報告を讀んでいるはずである。實際Ref. [4]BAUMは次のように印象深く書いている。 " 921日まで、異常と言える動きの兆候は何もなかった。然し、次の(火星の)早朝、丁度ノアキスが火星の縁から現れるとき、縁近くのノアキスは輝いていて白く、その程度は續く日々の黄塵のどの模様よりも強かったのである。" ここで注意するのは "より白かった" と言うことで、これは水蒸氣による凝結があったことを示している。

 

 MOOREの本は“Guide to Mars”と題され, Guide to the Mars Observations”ではない。そういうものは確かに書かれていない。全體を通して、個人の断續的な記述が噂話の様に挾まれているだけで、他の人物や場所での觀測や大事な點は有機的に配慮されていない。1971年黄雲の最初の状態の記述はMOOREのものとBAUMのものには大きな違いがある。初期状態のBAUMの切り口は、MOOREの餘りに自己中心的で、暈けたような記述を遙かに凌駕して貴重である。MOOREには長年火星に關わったにも拘わらず朝方の状態の重要性について全く認識がない。

 ここで留意するのは、BAUMはローヱル天文臺のデータに依存したわけではなく(實際ローヱル天文臺に最初にニュースが入ったのは、可成り遅く25Septemberであって、ハーヴァードの D MILONからであった[10])BAUMが依據したのは International Planetary Patrol (IPP) Programme からのものであった。このプログラムについてはRef.[5]を見られたい。1969年に發足している。このネットワークはWorld-Wide Mauna Kea, Flagstaff, Cerro Tololo (Northern Chile), Johannesburg, Kavalur (southern India), Perth (western Australia) and at Mt Stromlo (eastern Australia)のなどの天文臺が參加している。 21st Septemberには位相角が30°(衝後) もあって、朝方の縁は可成り内側に入り、そこを觀測するのに都合が好かったのである。この時は、地球と火星の自轉の關係から問題の箇所はThe Republic Observatory (formerly Union Observatory) の担當ということになった。

 ローヱル天文臺では見られなかったのである。實際の處、ローヱル天文臺のBAUMはアイピースを通しての觀測者ではない。然し、IPPプロジェクトの設立には關わっているはずで、逆に幸いして、あのときの鳥瞰圖を得たのである。

 

  序でながら、BAUMのもう一つの火星に關する功績を述べよう。彼らのグループは60年以上に亙るローヱル天文臺撮影のプレートを徹底的に調べ、火星極冠の縮小曲線を出したことで、特に最終的に北極冠に就いては縮小が λ=010°Lsからλ=060°Ls)まで停滞することを見抜いたのである。最終的というのはIPPのデータを加算しているからである。これは革新的な結果で、われわれはこの時期の北極冠の停滞の様子を Baum Plateauと呼んだ:Ref. [7]. IPPデータの加算後の圖式圖は Ref. [8]の頁Ser2-1075に村上昌己氏が描いている。

 

  本稿は、われわれが望遠鏡による古典的觀測に於いてどのように寄與できるかを問うものであるが、明らかに IPP Programme の試みはこのことに沿う最も可能性の高いものであったと言えると思う。これは時間毎の觀測を世界を股に掛けてやるもので、われわれの40分毎觀測と似たところがある。然し殘念ながらローヱル天文臺の馬鹿げた方針の轉換によりIPPプロジェクトは1976年に打ち切られたのである。要するに周回船やローヴァーが地球上の「古典的觀測」に取って代わると考えたのであろう。 然し、實際の處、現在(2013初頭)近代的手段が、嘗てのworld-wideな古典的觀測手段を打ち負かしているとは思えない。周回船やローヴァーが、時間毎の、或いは40分毎の表面の變化を見いだしているであろうか。周回船が朝方の火星表面を隅なく監視して、早朝のエニグマをあからさまにしているだろうか。

 

    ここでもう一度、1971年黄雲の初期状態に就いて、内容のない個人的な説話のみを行った人物の書き物と、豊富なIPP情報によって初期状態に就いてピンポイントの鳥瞰をなしたBAUMの言説の違いに注目して貰いたい。前者は法螺話の何物でもなく、後者はただ古典的觀測のみに頼って正しい情報を纏めたものである。

    黄塵現象のBAUMの後継者たちは1971年と1973年の黄雲についてIPPの結果による報告を書いている。Refs. [9], [10], [11]を見られたい。

 

  最後に、Charles F CAPEN (1926 -1986) Leonard J MARTIN (1930 - 1997) 1956年の宮本正太郎氏(1912 - 1992) の京大花山天文臺での觀測(文獻[12])について Refs. [9], [10], [11]で述べているので、些し觸れる。宮本氏は44歳の時、1956年の大黄雲に出會し、以後觀測に励まれた。然し、1956年は初期の20August26Augustに觀測出來ただけで、その後この領域を見るのは23Septemberまで無理であった。この點で、南アのW S FINSEN (Ref.[13])の觀測が補完している。FINSENの結果は當該域の 29, 31 August, 1, 2, 4, 5, 6, 7 September の畫像を齎した譯である。この様に限られた領域ではどうにもならないのが火星の現象である。

 宮本氏はまた[12]Note Added in Proof E C SLIPHER (1883 -1964) S L HESS (1920 - 1982) 氏に情報提供に關して禮を述べている。

  1971年には日本からは大黄雲の初期状態を見ることが出來なかった。

  この様に古典觀測の枷として、個人的觀望だけでは全體像が描けないという點が附き纏う。なので、適當に散らばった地球上の他の眞面目な觀測者と組むということは避けがたいことである。これが少なくとも、われわれの觀測が時代遅れだという口さがない聯中の口を塞ぐ方法であろう。



文 獻

  [1] Masatsugu MINAMI, Are There Two MOOREs? CMO No.170, 25 December 1995.

  [2] Patrick MOORE, J BAA 83 (1972) 31.

  [3] Patrick MOORE, “Guide to Mars” (Lutterworth Press, 1977).

  [4] William A. BAUM, ”Result of Current Mars Studies at the IAU Planetary Research Centre”, Exploration of the Planetary System, (Woszczyk and Iwaniszewska, eds) 241-251.

  [5] William A. BAUM, “The International Planetary Patrol Program: An Assessment of the First Three Years” Planet. Space Sci., 21 (1973) 1511.

  [6] Masatsugu MINAMI, CMO 2005 Mars Note (7): Miracles Occurred on 18 October 2005, CMO No.324, 25 October 2006.

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn3/CMO324.pdf

  [7] Masatsugu MINAMI, The North Polar Cap in Spring (Coming 1992/93 Mars), CMO No.130, 24 February 1993.

  [8] Masatsugu MINAMI, Masami MURAKAMI and Akinori NISHITA, Mars in 2009/2010. I , CMO No.357, 25 April 2009.

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn5/CMO357.pdf

  [9] Charles F CAPEN and Leonard J MARTIN, The Developing Stages of the Martian Yellow Storm of 1971, Lowell Observatory Bulletin No. 157, 30 November 1971.

[10] Leonard J MARTIN, The Major Martian Yellow Storm of 1971, Icarus 22 (1974) 175.

[11] Leonard J MARTIN, The Major Martian Yellow Storms of 1971 and 1973, Icarus 23 (1974) 108.

[12] Shotaro MIYAMOTO, The Great Yellow Cloud and the Atmosphere of Mars Report of Visual Observation during the 1956 Opposition, Contributions from the Institute of Astronomy and Kwasan Observatory, Kyoto University, No. 71, March 1957.

[13] W S FINSEN, Photographic Observations of Mars, Circular No.116, April 1957, of the Union Observatory (later called Republic Observatory) at Johannesburg.

[14] Shotaro MIYAMOTO, Meteorological Observations of Mars during the 1971 Opposition, Contributions from the Kwasan and Hida Observatories, Kyoto University, No. 206, 1972.




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