『火星通信』#030 (10 April 1987)所載

 

Masatsugu MINAMI’s Stay in Taipei in 1986

南 政 (Mn)


I.

臺北に滞在中、 台北だより」は何度か淺田正氏に送って『火星通信』に載せて貰ったが、読み返してみると肝腎の圓山天文臺の様子など落としているので、あれやこれや脱線は免れないが、想い出すまま何回かに分けて書いて置こうと思う。☆天文台と云っても天象館(プラネタリウム)があり、総面積は可成りのもので、臺長室以外は狭い感じがない(尤も、館長室が別にあり、ここは広いが来客用といった感じで、蔡臺長はここでは執務されない) 25cm 屈折の入っている大ドームも私からみるとゆったりしている。ドームはもう一つあり、12.5cm F15の屈折が納められている。ここでは、陶蕃麟さんや張麗霞さん達が太陽黒点の観測をしているし、毎週星期六(土曜)の一般公開は大概この小ドームで行われる。

 

大ドーム内は、私の滞在中に随分様変わりをした。窓には鐵格子が入り、明かり避けのカーテンが下がり、横壁も総タイル張りになった。鐵格子とか金属の扉というのは如何にも厳しいが、これはハレー・ブームに浮かれた少年による盗難事件があったからで(これは私にも責任があったのだが、面白い事件であった−−−蔡章獻先生から「臺北だより」に書かないの?と言われたぐらいである)、お蔭で以後カメラやアイピースなどの器材も安全に置けるようになり、その点は便利になった。器材ケースのほか、机椅子、それにGMTをディジタルに表時する器械?が置かれている。これには無線機も組み込まれていて、陶さんが時々ガーガーやっていた。彼はその他掩蔽観測用にタイム・スイッチとタイム・プリンターを置いている。

 

圓山天文臺には大抵のものは揃っていて、カメラも何台かあるが、惑星用にはニコンF3で、これにはモーター・ドライブとデータ・バックが附いている。何よりも重宝したのはインターバロメーターで、これを組合せれば一定時間毎に連続撮影出来る訳だから、白黒の場合はこれを常時お借りした。露出1秒、待ち時間2秒としても、2分以内で一本撮れる訳だから、写真に時間潰すのは勿体無いと思う様な私などには持って来いであった。『天文ガイド』二月号に入れて頂いた「写真1」は上のやり方で盲打ちした一例である(露出 1/2秒、O48使用。36コマの中から張さんが適宜コンポジットした)

 

但し、アダプターだけは、持参のものを使った。これはその昔淺田正君が花山天文台に入山したとき、形見に私のところに(写真機つきで)置いていったもので、アイピース部に旧アサヒ・ペンタックスの接写リングをつけた簡単なものだが、フィルターをアイピースの前に付けられるのが気に入って、アサダ・アダプターと呼称して長年愛用していたものである。圓山天文臺には五藤のがあるし、高橋のも使えたが、前者はフィルターの交換が大変だし、後者はフィルターの位置が中間にあってちょっと解せない。

 

F数は福井市立天文台の15cm F15を使っていたころは、旧ニコンの 5mm 300ぐらいに延ばすのが適正であった(Ilford HP5ないしTri-X)ので、圓山天文臺でもやってみたら、流石焦点距離が長く、像がエラク大きく、恐れをなして F170位に落として使った。上に引用の「写真1」もこの手である。しかし、いま反省してみると、F300ナンボで押すべきであったか、とも思っている。23秒露出の方が却って肉載りが良い場合もあったので、案外、淺田・松本方式の折衷で、高拡大・数秒露出が適正かもしれない。

 

ちょっと脱線したが、そんなわけでアダプターはアサダを使い、着脱交換で時間を喰うのは御免なので、張さんにもそのままアサダ・アダプターを使って貰った。彼女も気に入ったようで、写真をスッカリ張さんに任せてからも彼女は使っていたのでアサダはそのまま臺北に置いてきた。彼女の最近の木星写真は、上のシステムに PJ11 を組んでいるので、F数は 140位ではないかと思う。

 

張さんと私の撮り方で違っているのは、私はルースかつケチで、一本に 100個ぐらいの火星像を押し込むが、張さんは松本方式でデータ・バックでデータを入れながら、コマの中央に一個ずつきちんきちんと撮っていることであろうか。自然と本数も増え、いつか撮り貯めたパトローネの山を蔡臺長がご覧になって目を丸くされたことがあるそうである。

 

 The Taipei Observatory is a City Observatory located at the northern district of Taipei City, called Yuan Shan, and directed by Chang-Hsien TSAI (his name is put on the asteroid 2240). The observatory has, in addition to the planetarium, two domes:  The bigger dome accommodating a 25cm Japanese made refractor, and the smaller one a 12.5 cm refractor. By the latter, Fan-Lin TAO, Grace CHANG et al are doing the routine observation of the Sun-spots, and the dome is open to the public every Saturday.

 

  The present writer was allowed to stay in Taipei last year (in 1986) and to use, by courtesy of Director TSAI, the 25cm F15 refractor to watch the planet Mars from  March through December 1986. Observations were shared with TAO and CHANG, and in the latter half, CHANG especially joined us in taking pictures of the planets. The Observatory owns a Nikon F3 equipped with a motor drive, a data back and an intervalometer unit. The latter unit allows us to shoot many images continually within a few minutes, and these are to be used for the stackings of the images. The F-number used in Taipei is usually around 170 using eyepiece projection with a 9mm ocular. The  images were put on Tri-X or Ilford HP5, pushed to ISO1600 or 2400 with 1/2~1-second exposure. CHANG's recent photos of the planet Jupiter were taken in a similar way but by use of the Takahashi PJ11, reducing the F-number to about 140.

 火星通信#030 (10 April 1987)所載

 

 

II.

 

☆火星待ちの間、毎夜の様に臺長室にお邪魔していたことは前に書いたが、いつか蔡先生が書き物をしながら、突然、ベネットってどう書くんでしたっけ、と独り言の様におっしゃったことがある。勿論これはベネット彗星のことだが、咄嗟に私の頭では、丁度、同じエリオットにも Eliot, Elliot, Elliottなどと幾つかある様に、n が二つか一つか、t が二つか一つかお訊きになっていると解釈したのであった。然し、話は違った。☆実は、蔡先生のお書きになっていたのは天文臺へ寄せられる一般からの質問状への回答で、従って中文でお書きになっていた訳だから、漢字でベネットをどう綴るかということだったのである。私が中國語の全然駄目な事は、蔡先生先刻御承知で、従って、あれは全くの独り言だったのだが、捜しものの得意な私は(という事は、常時探しものをしている程整理が悪いということだが)それではと蔡先生の書棚や机の上を探し回る事ぐらいは出来た訳である。然し、適当な文献が無く(それに蔡先生のまわりには、日本の天文書の贈呈本が矢鱈多い)、それならと蔡先生はご自分で作り始められた。☆先ず、「ベ」には「貝」を、「ト」には「特」を当てられる。大体、ベートーベンは貝多芬、モーツァルトは莫札特と相場は決まっているので、これらは早々とOKになったものの、「ネ」は相当呻吟の末「尼」を採用された。☆一寸見には《表音》はこうして随分難しそうに思えるかもしれぬが、日本語でもヴァイオリンかバイオリンか、フィルムかフイルムか(カメラのCanon もキャノンでなく、キヤノンと表記されている)と話が長くなるのと同断であろう。ベネットも、中文の本で「貝内特」とあるのを後で見たが、蔡先生によると、どちらでも構わないという事であった。ガリレイの様な有名な名称でも、加利略だったり、迦利略だったり、加力略だったり伽利略だったりする。お馴染みの Huygensには、「海更士」、「惠更斯」があるが、海はハイに近く、惠はホイに近い(例のこれもお馴染みの「徳惠街」は仮名で書くと、大体、トゥー-ホイ-チエとなる)から、表音上の同じ迷いがある訳である。(但し、所謂曖昧母音の表記は圧倒的に中國語の方が有利であろう。嗽薬で(正確に憶えないが)Westerlin とか云った薬の ter の処には、「徳」が当て嵌めてあった。これは逆に、「徳」がトゥーでないことの、つまり、仮名で書くのが厄介なことの証しである。)☆ただ、固有名詞でなくとも、外来語は必要だろうから、漢字ばっかしというのも大変ではないかと思うが、Theorem を「定理」としたのは古典的名訳だし、チョコレートの「巧克力()」もなかなかである。ミニの「迷你」(あなたを迷わす)もミニスカートに使われると、俄然達意の迷訳!になるし、ピンポンを「兵」(但し、後の兵は前足がないもの)とやるのには、参った!である。

☆日本語の場合、仮名があるものだから、横文字を一音一字風に表音しようとしてヤヤコシイ事になるのだが、その点向こうは大らかである。マックスウェル(J. C. Maxwell, 18311879)は現在の教科書では「馬克士威爾」となっているようだが、臺大の先生のお話では、長過ぎるので後を削ってしまえと云われていて、多分そうなるだろうという事であった。臺大の在る処は「羅斯福」路に面していて、仮名で書くとラスフーぐらいと思うが、実はルーズベルト通りのことである(F. D. Roosevelt, 最近のアメリカ史などではローズヴェルトと綴ってあるのもある)。また「歌白尼」はどうみてもカペニで、最初人名と聞いて、ハテどこのイタリア人かと思ったが、なんとコペルニクスであった。これなど寧ろ有名で任意性がなく、『歌白尼』という科学雑誌があるほどだから、この字面だけでコペルニクスが思い浮かぶ様になっているのであろう。

☆火星観測に関する固有名詞となると、滅多に巷間では聞けないから覚束ないが、昨年圓山天文臺の陶蕃麟氏の『科学眼』に執筆した火星記事を覗くと、スキャパレリは「夏培勒利」、アントニアヂは「安東尼奥」のようになっている。「夏」はシャではないかと思うので、Schia を我々とは違った呼び方をしていたのか、一度発音を聞くべきであった。アントニアヂの方には例の簡略法が入っているのであろう。尚、マリナーは「水手」、ヴァイキングは「海盗」である。

☆私は最初、「土司」がトーストだとは識らず、長谷川一郎先生に嗤われたほうだし、最終的にはマックドナルドとかケンタッキーとかフランクフルトとか、はてはワコール等というのも識別は出来たが、漢字で書けと言われても書けはしない程だから、クイズ風に出すのも気が引けるが、もう二、三並べてみよう。岩崎徹君の好きなマーラーは「馬勒」、(一方ミレーは「米勒」)。大体、マは馬のようで、「馬利・安泰涅特」、「馬可・波羅」は言わずもがな。「馬克思」はマルクス、「馬可尼」はマルコーニ、「托馬斯・曼」は弟のマン等。序でに音楽関係二、三:「巴哈」、「布拉姆斯」、「霍斯特」、「顧爾徳」、「尼爾森・瑞徳」、「披頭」....それぞれ、バッハ、ブラームス、ホルスト、(グレン)グールド、ネルソン・リッドル (Nelson Riddle)、ビートルズ。ホルストの The Planets  は「行星組曲」。科学関係は飽き飽きだろうが、我慢して貰って、:「愛因斯坦」、「阿基米得」、「高斯」、「居里」、「克卜勒」(または「開普勒」、「刻卜勒」)、「牛頓」、「波耳」「薛定諤」、「海森堡」、「彭加勒」、「拉普拉斯」、「莱布尼茨」等、それぞれ、アインシュタイン、アルキメデス、ガウス、キューリ、ケプラー(亦はケプレル)、ニュートン、ボーア、シュレーディンガー、ハイゼンベルク、ポアンカレ、ラプラース、ライプニッツ。

☆日本名の場合は、そのまま漢字を援用するので問題が無い。但し、音読みは中國式と思ったらよい。私の名前など三字だから、都合が良いらしく、日本語の達者な人でも私を中國人に紹介する時、屡中國音でやっているのを耳にした。張麗霞さんは、淺田、岩崎、松本、中島、宮崎など大概の『火星通信』関係の名は日本式で発音するが、何時か、タンさんから手紙が下に来て居る、と言うので、タンとは誰かいなと思ったら、「湯山」氏であった。私の行き付けの洗濯屋さんは私のネームを最初「天日」としていて、これは「天文臺の日本人」という意味だったらしいが、天子様みたいで気に入っていたら、その内「ミナミ」と発音出来るようになって「南山」となった。これは「ミナミサン」なのである。例の探険家の F. Nansen (18611930) は「南森」だそうだから中々いいのではないかと思った。

火星通信#034 (10 June 1987) 所載

 

III.

 

私の1986年の臺北滞在は十ヶ月にも及んだから、その間火星の接近だけでなく様々な天象に出交わしている。ハレーは扨措いても、皆既月食が二回、火星食も二回、その他アンタレス食や水星凌日等があった。特に、十月18日の皆既月食は火星觀測の後で、而もよく晴れたし、十一月10日の水星凌日はお昼の時間帯も良く、快晴で満喫した。☆こうした主な現象は、土曜日の圓山天文臺の定期的な12.5cmによる一般公開とは別に、新聞で公報され、市民に公開されるし、記事にもなる。啓蒙的な意味もあるからである。

 

圓山天文臺が人出で最も賑わうのは、例年「七夕」のときの様である。私は福井市自然史博物館天文台での一般公開は昔から世話係なのだが、流石に圓山天文臺の七夕の人出には度胆を抜かれた。仲秋の名月(昨年(1986)は九月18)も、お菓子屋さんには珍しい月餅を含む高価な菓子(點心)が並んだり、天象館のファサードにも兎の創り物が立ったりして、これも凄そうだと覚悟したが、結局曇った。この日は丁度、柳条溝事件の日に当たっており、張麗霞さんの案内で中正紀念堂へ行った(中正は蒋介石のことで、中山が孫文)。奇しくも九月18日は大陸で戦死した私の父の命日でもある。

 

新聞の「本紙訊」は蔡臺長が案を作られる。写真が付けられていると好いというので、私の滞在中は私が撮ったり指図する形になった。火星の記事は 七月11日に出たが、写真は6日のもので、『民生報』の見出しは「掲開火星神秘面紗」であった(「掲開」は「はがす、めくる」。尚、『新生報』の記事は既にNo. 13, p113に紹介済み)。木星の衝の時は例えば『中央日報』などには「太陽地球木星今排成一条線」という見出しで張麗霞さんの写真が載っている。

 

十月18日の月全食の記事には何枚か並べられていたと思う。12.5cmでの張さんのカラー・スライドによる皆既の写真は『天文通訊』の213号の裏表紙に載っている。十一月10日の水星凌日のときは12.5cmの直焦のカラー(KM)は陶蕃麟、張麗霞、李俊雄、白黒(TP)は張麗霞の各氏が担当し、私と張麗霞さんが25cmで拡大をやった。尤も、25cmは接觸前後だけで、中間は蔡臺長がプリズム投影による解説を行われた。凌日の模様はテレビにも出たそうだし、写真も、これまで割りと冷淡だった一部新聞にも出ていた(臺北には十紙以上の新聞がある)。但し、水星が小さくて各紙とも苦労したようである。なお、『天文通訊』212号の表紙には水星凌日の直焦写真がカラー印刷されている。☆凌日の写真を載せず、觀測風景などを入れて報道したのは『民生報』で、これも見識であろう。コラムには蔡臺長が屋上の片隅で、6cm 8cmの小望遠鏡で觀望している写真があって、十三年前の日面通過を思い出して居るという風景であった。後で蔡先生に読んで貰ったところでは、自分も随分歳を重ねたナアという感慨も書かれていたそうである。書いたのは頼素媚さんという女性記者で、実は、ハレーの時の長谷川一郎隊をうるさくインタビューして回っていた人である。私もそれより前既に掴まっていたが、二、三語交わしただけなのに、綺麗にコラムになっていた(三月12日付けだから未だ滞在半月のときである)。当時は読めもしなかったが、今見ると頼さんは名文家の様な気がするし、もう時効だからここにコピーを出して見よう。もうひとつの記事は七月の別の新聞だが、写真が出て居るので字の方だけ小さくして載せて見る。上手く出るかどうか分からないが、左からPK、陶(覗いている人)、張の皆さん、そして南である(ここでは略)

 

圓山天文臺は臺灣では最も信用のある天文臺だから、市民は新聞の「天文臺説」を讀むだけでなく、質問も書簡で寄越したり、電話も時間に関係なく掛けて来る。ハレーの時などの時は、ひっきりなしで、別にレコーダ付きの電話回線がつけてあったが、通常電話にも入って来るので宿直はイライラしていた。尤も、天文の識らない館員も居るわけだから、その辺は難しいところである。十二月に入って木星と火星が空で近付いていた頃、張さんが高雄の教師から長い電話で受けて相手をしていたのを憶えている。ケプラーの法則迄持ち出さなくては駄目だった様である。天象とは限らない。低空の雲に地上光が当たって出来た光斑などというのが出ると、電話はジャンジャンである。いつかも、偽現象について私に名指しで電話が来て驚いたが、これはピサでお世話になった人の奥さんであった。

 

一般公開も出来ず、新聞種としても不適当だが私には興味深い現象、に出会うこともあった。例えば、木星の衝の日に Transitの衛星とその影が少し「南北に」ずれて重なって動いて行ったことなどがそれである。これは、Almanac で分かったが、木星をそれ程見ない私には珍しかった。この半欠けの影は張麗霞さんの写真に朧げながら写っている。その他、カノープスが何時間も空にあることなど、臺灣の人には何でもないことであろうが、いつも一声出して見たくなる思いに駆られた。 

火星通信#040 (15 November 1987) 所載

 

この項つづく

 

他に臺北滞在関係のエッセイ:

臺灣には銭湯があるか?

  二挺鍵重

  地下道

  腹巻きのすすめ

 


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